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2019年4月10日 (水)

昭和・平成の激動の時代に生きて

  第一章 芽生え 
   人間不信
 あれが安達太良山 あの光るのが阿武隈川 ここはあなたの生まれたふるさと…
 高村光太郎の詩集「智恵子抄」の「樹下の二人」の一説に書かれている文だ。光太郎が知恵子の実家である二本松に帰省した時、鞍石山山頂から読んだ歌だという。
 阿武隈川は福島県の那須岳のひとつ三本槍岳の北側、甲子旭岳に源を発し、福島県から宮城県へ。そして太平洋に流れ出る全長二百三十九キロメートルの一級河川。福島県内は田園地帯などをゆったり流れるが宮城県との県境付近は、両側の山は急斜面となって川に迫り、川幅が狭く急流となる。台風の時などは福島県と宮城県を繋ぐ国道349号線にまで溢れて通行止めになることもしばしばあった。
 私は、阿武隈川の左岸で福島県との県境にある宮城県耕野(こうや)村に生まれた。山にへばり付くような村で、人口は千人以下という小さな村だ。村人は生糸の原料となる繭(まゆ)の生産と一部は木材の切り出し、炭焼き小屋での木炭の生産などで生計をたてていた。
 生まれた時期は戦争の最中の昭和十九年二月。
 昭和十六年十二月八日、アメリカ真珠湾への奇襲攻撃で始まった太平洋戦争。二年後の十八年に入って一月にニューギニアで日本軍が全滅。翌月にはガダルカナルから日本軍隊が撤退に追い込まれるなど戦況に変化が出始めた。
 こうした南太平洋における戦況の悪化に伴い、国内では戦力を補強する目的で招集に拍車がかかった。当時の日本には憲法や法律などで決められた徴兵制度があり、兵役は国民の義務であったため同年三月に私の父にも「赤紙(招集令状)」が届いた。
 「出兵の前に結婚させる女の適齢者はいないか?」
 地域を納める長(おさ)の一声で母が選ばれ強制的に結婚させられた。父ちゃんの出兵の翌年、私が誕生した。
 出兵した父は終戦を迎えた昭和二十年八月に兵役を終えて帰還した。それが私の人生を変える大きな出来事になったのだ。
   □   □
 軍人上がりの男に働き口なんてあるはずがなかった。繭となる蚕の飼育と木炭の生産など仕事は〝家内工業〟的なものばかり。嫌った父は仕事もせずに朝から晩まで酒を飲み続けた。
 母は生活費を工面しようとしても当てがない。父の実家と母の実家を駆け回り、僅かばかりの米に麦、そしてサツマイモや野菜。それに酒を買うための現金を貰っての生活が二年も三年も続いた。
 父が帰還した翌年、弟が生まれ、生活は益々厳しくなっていった。
主食は麦ご飯で時々サツマイモと小麦粉でつくる団子煮。おかずは梅干かダイコンの漬け物、たまには阿武隈川で捕れる鮭…ひもじい生活が続いた。
 家も俄作りの掘建て小屋で、壁は藁が混じった土壁。勿論、平屋建てで隙間が多く、時々、ムカデが入ってきて刺されて紫色に腫れるなど劣悪な生活環境でもあった。
 このころから父は母に対し暴力を振るうようになった。現在で言うDV(夫婦間暴力)である。私は四歳になり、次第に知恵が付いてきた。そして運命の日を迎えた。それは寒い二月だった。
 この日は残っている酒の量が少なかった。母は夕食までに実家から都合する予定だったが、朝から飲んでいた父は、昼になると「酒が無い」とお膳をひっくり返して母の顔面を殴り、挙げ句の果てには茶碗や鍋まで投げるなど大暴れした。泣きわめく弟…。
 母はいたたまれず弟を抱いて家の外に避難した。これを見た私は、表に出て自宅裏の土手にあった赤ちゃんの頭ぐらいの石を持って家の中に戻った。
 父は仰向けになり囲炉裏で寝ている。近づいた私は持ってきた石を両手で振り上げて父の顔にたたき付けようとした。子供心にも、こんな生活には耐えられなかった。
 だが、私が両手で振り上げた石は、重さのため反動で後ろに落ちてしまった。前に落ちていれば父は顔が潰れて死んでいたかも知れない。そうなれば犯罪者になり、今の自分はなかった。
 ガタンと床に石が落ちる音に気付いた父
 「キサマ(貴様)! 親を殺す気が(か)!」
 父は私の胸座を掴み、顔が腫れあがるまで殴り続ける。異様な音に気付いた母が外から家の中に戻り、必死に父にしがみついて止めようとする。
 「テメエまで俺にたてつく気が!」
そして今度は母の顔を殴り、全身を蹴りあげるなどの乱暴のやり放題。泣き叫ぶ母…そして弟…。四歳の時の出来事なのに、大人になってもあの光景は脳裏から離れないほど凄まじいものだった。
 昭和二十四年冬の終わりの寒い深夜だった。母は決心した。弟をねんねこ半纏で背負い、左手で私の手を引き、右手に提灯を持って真夜中に家を抜け出したのだ。
 家は山の中腹にあり、阿武隈川左岸沿いの県道に向かって急な崖のような坂道を降りるのである。狭くて石ころがゴロゴロとして岩肌のようだ。
 月だけが煌々と照り輝く…眼下には月明かりの逆光に照らされる阿武隈川。それは煮えたぎる溶岩のように見えた。両河岸の山のシルエット…親子三人はまるで地獄谷に向かって歩いているようだった。
 「ごめんね…ごめんね…」
 母は私に何度も謝りながら一歩、一歩と歩を進めて行く。手袋なんてあるわけがない。私はその時の母の手の温もりを今でも忘れることが出来ない。
 阿武隈の流れの音を聞きながら、無言で歩き続ける母子…月明かりで足下が見えるため母は提灯のろうそくを消した。約二時間は歩いただろうか、阿武隈川支流近くにある一軒家にたどりついた。
 家の前で母子三人は寒さをしのぐため抱き合って夜が明けるのを待った。
 私は後に知ったのだが、その家は果樹園を経営している宗教家のおばさん宅だった。地元からは〝拝み屋さん〟と呼ばれていた。
 この拝み屋さんの家で隠れて何日か過ごしていると父の親類が現れて母と協議離婚となった。私は母方に弟は父方に引き取られた。
 母は生活するため山形県の板谷峠にある鉱山の社員寮のまかないとして働きに出た。私は実家のお爺ちゃん、お婆ちゃんの家に預けられて別居生活が始まった。父を殺そうと石を振り上げた行為は幼少時代の私の心に、深い傷跡として残ることになったのである。
   □   □
 小学四年(昭和二十八年)の始業式の数日後だった。田んぼにオタマジャクシの卵を探しながら、近所の文ちゃんと道草をくっていた。そこは幅二㍍ぐらいの農道だ。村で唯一、二百㍍ぐらいの直線道路の両サイドに田んぼがある。たまたま文ちゃんがオタマジャクシの卵を発見したその時、モーターバイクの音が聞こえた。見ると百㍍は離れていた。
 「いだ、いだよ。ほらあ~」
 文ちゃんのその声を聞いた私は道路の反対側に駆けよった。暫くすると二人の後ろにモーターバイクが止まった。
 「キサマの名前はなんていうんだ」
 バイクに乗っていたおじさんはもの凄い剣幕で私に近づいてきた。
 「キサマ! オートバイの前を横切ったな。馬鹿者!」
 良く見ると、そのおじさんは村で唯一の魚屋さんだった。
 新聞もない。テレビもない。当然、雑誌を売る本屋さんなんてあるはずがない。そんな田舎で最もハイカラだったのがこの魚屋さんだ。山を越えて隣の町まで行って魚を仕入れて注文があった家に配達してくれる。五〇CCのモーターバイクはその足だった。村のモータリゼーションの始まりでもあった。
 そして翌朝、小学四年生の教室。定年間際の男先生は朝の出欠をとるため、名簿を持って歩きながら名前を一人一人読み上げるのである。
 私は名簿の前から十二番目に呼ばれる。男先生は名簿を読み上げながら教室を前に後ろにと歩き回る。いよいよ「自分が呼ばれる番だ」と思ったその時、後ろから来た男先生に右の揉上げをつまみ上げられた。名前を呼ばれる前に出たのは驚きの言葉だった。
 この男先生のこの体罰を「びんこ」と呼ばれて、多くの子供達は震え上がっていた。
 「キサマ! きんにょ(昨日)、学校けえり(帰り)になぬか(何か)わるいごとすただろ! 白状すろ!」
 オタマジャクシの卵を見つけようとした「道草」を叱られるものだと思っていた私に男先生の口からとんでもない言葉が発せられた。
 「バイクの真ん前を横ぎったんだってな。そんたらことで学校がおごられた(怒られ)んだ。おめえなんかひきごろされてもいいがら、学校にめいわぐかけんな」
 揉み上げが千切れるように痛かった。あまりにもの痛さに声が出ないばかりか涙が出た。
 「なんでなぬも言わねえんだ! 言えねえのが…」
 そう言った男先生。今度は持っていた竹の鞭で机をドンと叩いた。当時の竹の鞭は、竹の根っ子の部分を使っているため節の間が狭くて硬く、叩くと木製の机に傷が付くほどだった。
 「ずどうしゃ(自動車)のめえ(前)をよごぎん(横切る)なってなんぼも言ってんだろう。わがんねぇのはおめえだけだ」
 横切ったと言われても百㍍近くも離れているばかりか、道幅は二㍍ほど。数十歩で横切れる場所。言い訳をしようとしたが、聞き入れてくれる雰囲気ではなかった。
 (父親の暴力もそうだが、先生という立場にありながら、自分の教え子を信じない先生なんて絶対に許せない)
 揉み上げの回りが赤く腫れあがった。私が〝人間不信〟に陥ったのはこの時である。「何が真実なのか?」「何が正しいのか?」が分からなくなった。
   村の駐在さん
 あれは小学六年生だから昭和三十一年の秋。初めての修学旅行の時で行き先は日本三景のひとつと言われる松島だった。
 母は山形から帰れず、出発の前日だと言うのに私は一銭の小遣いも無かった。
 小遣いは当日、家を預かる母の妹の次女である叔母から貰えるはずだ
った。ところが叔母は保健婦と助産婦をしており、私が学校から帰る前、阿武隈川の向こう側で山の裏にある羽出庭地域の人が産気づいたので行ってしまった。
 自宅にはお婆ちゃんしかいない。私は叔母が出産のため待機する羽出庭までお金を貰いに行くことにした。
 当時、阿武隈川を渡るのは船で、川向こうに船頭さんが早朝から夜中まで待機している。
 こちらの岸から「お~い、お願いします」と叫ぶと迎えに来てくれることになっていた。私がその船に乗って自宅を出たのが午後五時過ぎだった。叔母のいる地域までは山ひとつ越えなければならない。民家が全く無いくねくねとした山道を歩いて片道二時間以上はかかる。
 最初は勾配がきついが峠になると雑木林でなだらかな丘のようになり、リヤカーが通れる幅の道になっている。行く時は午後六時を過ぎたばかりでまだ明るさが残っていた。
 叔母のところに着いて、貰った小遣銭は五十円。当時はラーメン四十円、アンパン十円、牛乳十五円などの時代だった。
 帰る時は午後八時を過ぎており、峠は街灯なんて無いので真っ暗。夜に歩く人はみんな提灯を持っている。私は無かったので僅かに見える両脇の雑草を目印に、路上の石に躓かないようゆっくり歩く。
 熊などはいないが狸と狐がいるらしい。時々、ガサッと音がする。その度に恐怖で震え、暫く立ち止まり、後から聞こえた時は走って逃げるのだが、道が悪くて石などに躓いて転んだこともあった。
 年は十二歳、田舎に生まれたとはいえ、真っ暗な山の中…怖さのためエ~ンエ~ンと大声で泣きながら歩いた。夜の十時を過ぎているのに船頭さんは嫌な顔もせず、訳を聞いて「頑張れよ」と励ましてくれた時に、また涙が出てしまった。
 孤独感をいやと言うほど見せつけられたことがあった。それは運動会の時である。村の運動会は毎年秋に行われるが、小中学校合同で家族も参加する大運動会だ。
 トラックを取り囲むように学年ごとに校庭にゴザを敷き、母親や父親、兄弟の応援を受け、昼食には一家団らんで弁当などご馳走に舌鼓を打つのだ。年に一度のお祭りで隣とご馳走を交換するなど家族だけでなく地域のコミュニケーションの場でもある。
 ところが私には母をはじめ家族なんていない。ご馳走も無いし当然、仲間に入れない。現代のように屋台なんてないから、私は学校近くの雑貨屋で買ったコッペパンを教室で隠れて食べた。
この時ほど、「父ちゃん」「母ちゃん」そして「家族」の大事さを思い知らされたことはなかった。陽の当たらない家庭に生まれた運命を恨んだのだった。
 小学三、四年生のころ「てて(父親)なし子」と虐められた。もうひとりの友達は、引き揚げ者のため「樺太帰り」。もうひとりは「臭い男」と三人は仲間はずれにされ弁当にはゴミも入れられた。
 小学校時代、このような環境で育った私は身も心も荒んで行った。
 虐め野郎に仕返しを思いついたのは中学生になってからだ。ひとりひとりを学校の裏山に呼び出して、三人で取り囲み、粛清と称して土下座もさせた。そして〝威厳〟を増すためタバコも吸った。
 当時は、刻みたばこと紙巻きたばこがあり、十本入りの「光」という紙巻きたばこを買った。ひとりで一本吸うと三回で終わりなので一本を回し吸いにした。さらに、酒も飲んだ。虐めの連中に対する「懲らしめ」も終わると、たばこを吸うのにトイレを使った。
 当時は、水洗でないので便器の中には紙があった。もみ消さないで捨てたため、紙が燃えて煙りが出て大騒ぎになった。
 授業は中断するまでになった。当然、粛清する際にたばこを吸っていたことを知っている連中が先生に密告して、三人は「不良」扱いとなり、警察に通報された。
 その時、私を救ってくれたのは、村の駐在さんだった。諭すように「お前な、正しいからと思って自分が暴力を振るってはいけない。弱い奴こそキャンキャン叫ぶが、強い奴はじっとして動じないものだ。鍛えてやる」。
 そして、私と遊び仲間二人の三人が駐在さんから柔道を教わることになった。授業が終わると講堂で特別指導を受けるのだ。
 厳しかったが楽しかった。「悪を成敗する」という正義感が芽生えていったのはこの時である。
 中学を卒業する最後の練習で、駐在さんが私に言った言葉を忘れることができない。
 「お前が正義を求める気持ちは良く分かる。だったら警察官になればいい。但し、かんしゃく玉がぶっこわれそうになったら、心臓の早さで一、二、三…と五つ数えろ!そうしたら落ちつく。いいな」
そして駐在さんは別れの時にこう言った。
 「長い人生には壁にぶち当たる時もある。その時はムキにならないで回り道をすることだ」 この言葉の重さを私はずしりと感じた。そして「警察官になりたい」と言ったら駐在さんは「高校にいかなければだめだ」。
 高校と言っても近くにはないため、バス通学になる。しかし母は山形で鉱山会社の食堂で「まかないさん」をしており、お金が無い。
 困っていると駐在さんと先生が相談して、福島県の高校に通学する「越境入学」の手続きをとり、駐在さんは私に自転車を買ってくれた。さらに、先生からは国語と英語の辞書を貰った。
 仲間は集団就職列車で東京に行ってしまったが、私はひとりで耕野から自転車で五十分の福島県内の町にある高校に通学した。
 そこにも荒波が待っていた。宮城県から通学しているのは私ひとり。仲間はずれにされ虐めも受けた。午前の授業が終わり給食時間の時、私の弁当の中味が無かった。この理不尽な行為に私の中の虫がムックと起きあがった。何よりも越境通学のコンプレックスを晴らす気持ちもあった。
 後に右翼になった友達がいた。彼はいつもカバンに刃渡り約二十センチはある白い鞘のアイクチを持っていた。午後の授業に入ると私は、それを借りて教室の後に立って叫んだ。
 「俺の弁当を食った奴は出てこい!」
 廊下側の机に座っている生徒たちが、窓を一斉に閉めて外に漏れるのを防いだ。先生は教壇で凍ったように動かない。私は机の間を歩き回ったが誰一人として名乗り出る者はいなかった。
 駐在さんにあれほど言われた言葉を無視してしまった自分…父親殺害未遂と合わせて余りにも浅はかな行動は、心の中に深い傷跡として残ってしまった。
 こんな高校時代を終えた私は、ボストンバッグひとつで仙台市へ。仙台駅で買った地元新聞の広告を見てカメラ店の店員に応募。採用され、働きながら警察官採用試験に挑戦した。
 私の身長は百五十八㌢。その条件で可能性があるのは、日本で最も身長の基準の低い「百六十一㌢以上」の神奈川県警しかなかった。多くの県警は百六十五㌢以上。警視庁は百六十七㌢以上だったと記憶している。
 高校を卒業した年の秋、私は神奈川県警の試験を受けた。高校の柔道の先生が福島県警の警察官で「三㌢ぐらいなら伸びる可能性を見てくれるから大丈夫だ」の言葉を信じたのである。
 ところが一次の学科試験には合格したが、二次試験の体格検査で不合格になってしまった。
 諦めきれない私は、翌年にも挑戦した。結果は同じでどうしても三㌢の壁は破れなかった。
 小学のころから母ひとり・子ひとりの生活を送ってきたが、その母も五十歳近くになって高血圧で体調が悪化。一日も早く安定した職業に就かなければならなかった。
 それでも警察官への道を諦められず、警察の事務官にでもなろうと決心して国家公務員Ⅱ種試験に照準をしぼった。
 入学したのは法学者・中川善之助が主宰する「仙台法律経済専門学校」の法律専門部の夜学。四年のコースで中央大学法学部の併修システムのあるコースを選んだ。
   国を憂えた若者たち
 仙台法経専門学校の生徒には、弁護士事務所に勤める事務員や警察官が多い。昭和四十二年の十二月ごろだった。クリスマス前後だったと記憶している。それぞれがしっかりした社会人であり、アルバイトの身は私だけだった。
 生徒の現職警察官や弁護士事務職員、県職員、仙台市職員らと酒を飲みながら夜中まで議論したことがあった。
 それは、何で法律を勉強するかから始まり、十月にあった羽田事件や現代の世相にまで話が及んだ。
 羽田事件とは、この年の十月八日、佐藤首相のインドネシアなどへの訪問を阻止しようとした全学連の学生が機動隊と衝突した第一次羽田事件だ。全学連約二千五百人と約二千人の機動隊員が真っ向からぶつかり合い、全学連は角材で殴りかかったり投石したり、さらには警備車両に放火するなど暴徒化。機動隊員六百人以上と全学連二十人近くが重軽傷を負い、五十八人が逮捕された。
 若い警察官が言った。
 「悪から国民を守るため命を張っているというのに、羽田でのあの騒ぎは犯罪行為だ。私はあれを見ると許せない」
 この発言に私が言った。
 「あれは刑法一〇六条の騒乱罪ではないですか…もっと刑罰を重くしないと。最高十年なんて軽すぎるよ」
 相当、過激になっていた。裏には当然、母親とともに父から受けた暴力への反感精神がある。フラッシュバックのように思い出すのが、父の顔を潰そうと石を振り上げたが失敗に終わった場面だ。どうしようもない怒りが込み上げてくる。
 弁護士事務員が言った。
 「刑罰を重くするだけじゃだめだ。あんたは相当過激だね。新聞社に勤めているんだろう…」
 「いや、私は単なるアルバイトで記者でもなんでもない。ただ、親の脛を囓っている学生が、数を利用した暴力でしか表現できないなんていうことに腹を立てているのです」
 一触即発の状況に、回りはし~んと静まりかえったのを記憶している。私は、この暴動だけでなく、この頃、若者の間で流行っていたシンナー遊びにも憤りを感じていたのだ。話はそこまで進みかけたが、若い警察官が話題を変えた。
 「流行りと言えば、ビートルズなんていう歌手があんなに人気があるとは驚いたね。しかも洋物(ポップミュージック)だというのに日本武道館での公演だよ。けしからんとは思いませんか?」
 公演は前年の六月に日本武道館で行われたもので、武道館を使用したことに批判者が続出。街宣車まで登場したのだった。私は、当然、賛成した。
 「そうだ。エレキなんとかでテケテケと身をくねらせ、一方でシンナー遊びが流行るなんて…日本人の誇りだったあの武士道精神は何処にいっちまったんだろう…」
 議論に参加しなかった県の職員が、最後に私と警察官に言った言葉が忘れられない。
 「時代が違うのですよ。これからは何があるか分からない」
 人生を変えたのは…
 母ひとりの脛をかじることはできない―丨そう決心した私は、学業と両立の難しいカメラ店を辞めることにした。ちょうど毎日新聞仙台支局がアルバイトを募集しているのを知り、頼んで雇ってもらった。
 私の仕事は電話で原稿を受けるのと速記さんに送稿するほか記者クラブから原稿を集めてくる編集補助員という名目だが、当時は新聞社では「坊や」と呼んでいた。
 こうして集められた原稿は編集デスクがチェックして東京本社には漢テレという送信機で送る。漢テレとは原稿を漢字のキーボードでさん孔紙(穴を空ける紙)というテープに打ち込むと、テープには文字ごとに穴が開けられ、それが符号となって本社の漢字プリンターに送信されるという仕組み。ただしこれは地方版への送稿で、社会面は専用線で速記さんに電話で吹き込むのだ
 最高責任者は支局長で両袖の机が与えられているが、デスクや取材記者などは円形の木製の共同テーブルに座る。その時のデスクはYさんだった。身長が小さいものの革ジャンパーを着て声が大きく、記者達は絶対服従だった。私は(新聞社ってこんな怖い人がいるのだ)と厳しい社会であることを認識させられた。
 仙台支局には当時、記者が六人と漢テレのパンチャー、カメラマン、自動車(ジープ)運転担当がそれぞれ一人づついたが、カメラマンの大山さんとの出会いが私の人生を変える契機になった。
 取材を終えて帰ってくると「これ現像して」とフィルムを渡される。「写真店にいたのだろう」が彼の口癖だった。「現像して」が、やがて「デパートに行って展示会の写真を撮って来て」に変わり、次第に報道写真撮影のポイントを教わった。そう解釈すれば聞こえがいいが、本心は自分が楽をしたかったのだろう。大山さんがよく休んでいたのを思い出す。
 そうこうしているうちに、写真の焼き方や取り方を否が応でも鍛えられていった。
 ところが毎日新聞のアルバイトの定年は二十歳で、それ以上勤められなかった。法経専門学校を卒業できるのは二十三歳。まだ三年は働かなければならない。
 まもなく職を失うことで途方にくれていたある日、県警の記者クラブに原稿をとりに行った帰りに一人の男に呼び止められた。
 「君、小野君だろう。毎日(新聞)を辞めさせられるんだってな。どうだ、うちに来ないか? 仕事は同じ編集の坊やだが、カメラマンがいないので思う存分に撮らせてやるよ」
 男は、なんと産経新聞の県警キャップだという。
 こうして私は、産経新聞に臨時社員として雇われることになった。初出勤の日、「おはようございます」と挨拶すると、小太りの男の人から「外に来てくれ」と言われ、案内されたのが小さい倉庫だった。そこにはカワサキメグロの650CCオートバイが置かれていた。
 「オートバイに乗れるね。俺が乗っていたのだが、年をとったので君が乗りなさい」
 私の身体より大きく、初めて見るオートバイだ。説明によると警視庁が使用している白バイと同型だという。前輪の右側に赤地にブルーで「サンケイ」と書かれた社旗がついている。
 「これでカメラを首にかけて市内を走れば、みんな退いてくれるぞ」
 この人は産経広告社の社長でまもなく定年を迎える身だった。
次にデスクから言い渡された。
 「紙面は可能な限り写真を大きく使いたい。連載ものを考えてくれないか。原稿は若者に書かせる」
 私の連載(六回)の処女作は「八木山の住民たち」と題して、東北地方では初めての自然動物園の動物の表情写真だ。サルなどは自然の中で飼育するとして岩山に放し飼いにされ、観客との間の柵などはない。
 集団でボス的なサルがいつも高い岩山にいるのに注目、私は朝から夕方まで狙い続けた。日没前、ついにとらえることができた。餌をとりにくるカラスに伸び上がって歯をむき出しにして応戦する光景が撮影できたのである。このほか象や虎、キリンなど、初めて見るような動物の表情や行動とあって連載は好評。
支局長から第二弾をやるように言われ、課題が与えられた。今度はルポ原稿をまかせるという。
 「仙台市のシンボルと言われている広瀬川をやってくれ。今は市民の憩いの場となっているが、江戸時代の伊達政宗が築城した青葉城を敵の攻撃から守る川でもあったんだ。そんな歴史をからめながら周辺住民の生活をルポしてほしい」
 正直に言って私には無理な仕事だったし、まったく興味が湧かなかった。結局、私がルポするのではなく、原稿の執筆者から場所を指定してもらっての撮影となった。
 もちろん写真は自己流。カメラ雑誌を見たり、以前に勤めていたカメラ店の先輩からも意見をもらっての悪戦苦闘の連続だった。
 写真取材というよりは、650CCのオートバイに乗って走り回るのが楽しかった。
 忘れることができないのは昭和四十二年八月八日付の宮城県版だ。夏の風物詩、東北三大まつりのひとつ、仙台七夕を新聞界では初めてカラー写真で掲載したのだ。この時、地元紙の河北新報のカメラマンが社の幹部から怒られたという。
 私が事件・事故取材という仕事に心惹かれたのは、翌年の四十三年五月十六日に発生した青森県東方沖の地震がきっかけだ。マグニチュード七・九で特に青森県内で地滑りや崖崩などの被害が出たほか、死者・不明者は四十八人にものぼった。
 この地震で、産経新聞東京本社写真部から仙台総局に「ヘリコプターをチャーターして青森に入れ」の指示が出された。日頃から写真撮影していた私が指名され、チャーター機で青森に行くことになった。
 (生まれて初めて乗るヘリコプター。新聞社というところは取材でこうして全国何処にでも行けるのだ……)
 こんな〝かっこいい〟仕事ならやってみたい――。
 (警察官がだめなら、新聞社という別の角度からでも正義は追及できる)
 こうして「警察官への夢」は新聞社のカメラマンへと変わり、十月に仙台総局長の口利きもあって産経新聞の入社試験を受けることになった。上京したものの東京を初めて経験する私は、試験会場に行き方も分からなかった。その時、写真部長が言ってくれた。
 「写真部の宿直室に泊まれ。朝、車で試験会場に送ってやる」
 当時、新聞社には自動車課があって運転手は全て社員。社有車は黒塗りのベンツを含め十台近くにのぼった。私が試験会場に送ってもらったのはそのベンツだった。
 運転手は、力士のような体格で厳つい顔のSさん。後に知ったのだが社員の間では「ゴリラ」と呼ばれていた。
 私は「宜しくお願いします」と言って乗り込み、ドアを閉めようとするが重い。思い切ってしめたら「バタン」と凄い音が出でしまった。
 「馬鹿野郎! 車を壊す気か! 降りてもう一度閉め直せ」
 運転席からSさんが降りてきて後部座席のドアを開けて私を引きずり出した。私は謝るしかなかった。
 「済みません。生まれて初めて乗ったものですから、力の加減が分かりませんでした」
 Sさんは納得してくれたが、自動車の乗り方まで分からなかった自分が恥ずかしいばかりか、東京の生活に大きな不安を抱いた。
 案の定、現実は甘くはなかった。私は新聞史上で初めて仙台七夕をカラー写真で掲載したことを自負していたが、入社試験で出た問題は「色温度について述べよ」だった。「新聞紙面のカラー化の時代」の到来を告げた問題だった。
 刑法や民法など法律の勉強はしてきたものの、写真工学なんて全く分からない。当然、答案用紙は白紙。黙って時間がくるのを待つしかなかった。その時、頭を駆けめぐったのは、やはりベンツのドアの閉め方だ。
 (今後もあんな事がいっぱいあるのだろうか……私には務まらないかもしれない……。)だんだん弱気になっていった。
 専門職試験が〇点だから不合格はあたりまえだが、「一日も早くカメラマンになって、母親を楽にしてやりたい」の夢ははかなくも消えた。
 ところが一本の電話で私の人生が変わった。
 「来年一月四日に産経新聞東京本社写真部に出勤せよ」
 言い換えれば、この電話で、私の警察官への夢は潰えたことになった。
 産経新聞への正式な入社は昭和四十四年一月五日。田舎育ちの私が新聞社カメラマンとして東京暮らしを始めたのは、その十日前の四十三年十二月二十六日で、二十五歳の時だった。

   治安の悪化
 高度経済成長時代の「いざなぎ景気」のまっただ中。だが、好景気に沸く一方で凶悪な犯罪も続発した。以前、仙台の法律経済専門学校に通っていた仲間と社会情勢などについて語り合ったとき、宮城県の職員の男がつぶやいた言葉どおりだった。
 四十三年の二月二十一日には、静岡県の寸又峡温泉旅館に猟銃を持った男が八十八時間も籠城する「金嬉老立て籠もり事件」が発生した。
 この事件は金嬉老が静岡県清水市(現・静岡市清水区)のクラブでライフル銃を乱射、二人の暴力団員を殺害して逃走。猟銃とダイナマイトを持って十三人を人質に立て籠もったもので、日本の犯罪史上で「劇場形犯罪」のはしりと言われた。
 十月二十一日には全学連の学生らが新宿駅に放火した「新宿騒乱」事件。この事件では百四十四人が逮捕された。十二月十日には東京・府中市で、白バイに乗り、警察官を装った男に現金輸送車が強奪される事件が発生。この事件は日本犯罪史上で最高の被害額と言われた三億円強奪事件(窃盗)など世の中を震撼させる事件が相次いでいた。
 また、日米共同防衛の義務づけをめぐって昭和三十五年(1960年)から始まっていた安保闘争が、四十五年(1970年)の条約見直し時期を控えて再燃。四十三年頃から見直しの確実な実行を求める多くのセクトが誕生した。実際には、四十五年に条約が見直されなかったため、条約破棄を求める国会議員や労働者だけでなく、国内の一般市民や学生などの左翼勢力が加わり、やがて反政府、反米運動へと発展して行くことになるのだが(七〇年安保闘争)、とにかく、私が東京でカメラマン人生をスタートさせたのは、世の中全体が不穏で、得体のしれない大きな不安が日本国民を覆っていたそんな時代だった。
 私が産経新聞に採用されたのも、騒然とした世相が多分に影響したはずだ。あまりにも事件が多すぎて、報道は猫の手も借りたいほどのあわただしさだった。
 産経新聞のカメラマンは、ほぼ全員が日大芸術学部を卒業している。だが、私は警察官を志していたこともあり、写真部では異質な存在だった。
 この時、自らに言い聞かせた言葉がある。確か、有名会社の創業者の格言だったと記憶している。
 「ひとのやらない事をやれ」
 事件取材なら写真の構図やライティングなど専門的な知識は要らない。
 事件現場のど真ん中に入って、その場の状況を記録するだけなら馬鹿な俺にもできる。戦時中の従軍記者のようなものだ。だから常に生命の危機に立たされることになる。それでも現場で殉職するなら本望だ。
 折しも全共闘や新左翼諸派の学生運動は激しさを増し、東大闘争、日大闘争から全国の主要大学へと拡大。私が産経新聞に入社した四十四年一月に、占拠されていた東大安田講堂に機動隊が突入した。
 「新人をいきなり危険な場には出せない」というデスクの配慮があったのだろう。私は先輩が送稿してくるフィルムの現像や写真の焼き付けなどの暗室作業を担当させられた。安田講堂開放後は府中三億円事件の捜査本部がある警視庁府中警察署に詰めていた。
 しかし、このころは週末になると都内各地で反安保デモが行われ、なかでも全学連の過激さは際だっていた。
 制圧する機動隊に対して角材や鉄パイプによる抵抗、投石行為、そして火炎ビン闘争……時には野次馬の一般群衆からビンのかけらと思われるガラス片が飛んできた。
 週末に行われるデモは東京・紀尾井町の清水谷公園から日比谷公園までが多かった。解散地点の日比谷公園に到着して警察によって解散させられると火炎ビンが投げられる。このため私は、この時だけは府中署捜査本部での張り込みを中止、デモ取材となる。
 清水谷を出発したデモ隊は、まず赤坂見附交差点で機動隊の規制を受ける。ジュラルミンの盾を持った隊員によって囲まれ道路左側を歩かされ、シュプレヒコールだけでジグザグデモはできない。ジュラルミンの盾に囲まれて外堀通りを誘導され、溜池交差点から日比谷公園へ。
 機動隊は日比谷通りで囲みを解くのだが、どこから調達するのか公園内に消えた学生達の手には火炎ビンが握られている。
 内幸町から日比谷交差点まで公園の反対側で見守る機動隊めがけて石を投げつけ、制圧するため出てくる機動隊めがけて今度は火炎ビンが投げられる。日比谷通りでは一般車両までもが巻き込まれて燃やされるなど、暴徒化した。
 機動隊は催涙ガス銃と高圧放水車で対処するが、この催涙ガス銃が怖い。中には水平撃ちをする隊員もいて近くに着弾しようものなら目が見えなくなる。まるで戦争のようだ。
 当然、こんな暴動取材を好むカメラマンなどいない。だが、私は喜んで引き受けた。それは、後に後輩や自分の子供達へ「俺は鉄砲玉を潜ったんだ」と言ってやりたいのだ。
 さらに、都内のデモ取材だけではなくヘルメットや防弾チョッキ、脛(すね)充てなど機動隊並の装備を着用。成田空港建設に向けた測量隊への妨害闘争など過激派が集まるところは、全て駆り出された。
 デモ取材がいっぱいあるなかで思い出になるのは、昭和四十四年の四・二八沖縄反戦デーの時だったと記憶している。
 火炎ビンが投げられた日比谷闘争なんていうものではなかった。規模が違うのである。
 中核を中心とした極左暴力集団が神田での機動隊との乱闘の後、東京駅に集まりだした。新宿や神田などから山手線に乗ってきた集団で東京駅の五番線ホームはあふれかえっていた。彼らはヘルメットに角材、中には鉄パイプを持ち、明らかに戦闘態勢だ。
 私は、何が行われようとしているのか想像がつかない。ただ、場所が場所だけに羽田事件や新宿暴動のような重大事件になる危険性もあり、社に応援を要請した。しかし答えは冷たいものだった。
 「お前のところだけじゃない。新宿でも渋谷でも火炎ビン闘争になる危険性があるのだ」
 渋谷、品川から来る山手線の電車が到着すると集団はさらに増強された。そして電車が上野方面に発車した直後だった。ホームに集まった集団が一斉に線路に飛び降り、有楽町方面に向かって歩き出した。その時、機動隊の姿は見えない。
 私は先頭の中核派の集団に付いた。歩きながら思い出したのが、仙台での警察官や弁護士事務所職員との激論だ。
 「数の暴力は許せない」
 線路を歩きながら学生と議論しようとした。
 「君たちは今、何をやっているのか分かるか? 鉄道を止めているのだ。これは犯罪だ! すぐ止めさせろよ」
 「お前は、サツ(警察)の回し者か?」
 そして立ち止まり、周囲のゲバ棒を持った学生を煽った。
 「ここにサツの回し者がいるぞ」
 一人が叫んだ。
 「なんだと、やっちまえ!」
 鉄パイプを持った男が、地面を突いた。地面は線路内の石。「カチン」と乾いた音。私は怖くなり逃げようとした。その時だった。有楽町方面からジュラルミンの盾を持った機動隊が走りながら近づいてきた。
 機動隊はさらに東京駅方面からもデモ隊に迫っている。完全に挟み撃ちだ。学生達は角材と鉄パイプ、投石で抵抗するが、機動隊はふたつの盾を「くの字」形に組んで投石をブロック。逆に催涙ガス銃で攻めてくる。
 現場の線路は高架になっており、数百人のデモ隊は七、八㍍もある線路から地上に飛び降りて逃げるのだが、カメラ機材を持った私は飛び降りることができなかった。山手線の皇居側の壁に屈むように身を隠しての撮影。それにしても機動隊が来なければ、私は鉄パイプで叩きのめされていただろうと思うと心臓が凍った。

   母との別れ
 私がどん底に落ちたのは「母倒れる」の報だった。産経に入社して十一か月余が過ぎた十二月十日。正月の企画写真取材で青森県に出張する日の夜だった。母の兄弟姉妹の末っ子の叔母から私宛に電話が入った。
 「しっかり聞きなさいよ…」
 叔母の涙声に私は何か異常を感じ、胸騒ぎがした。続いて出た言葉はそれを裏付けるものだった。
 「姉さんから電話があってお前を頼むと言ってきたの。呂律が回らなかったので脳溢血ではないかと思うんだけど、最後に『仕事を全うしろと伝えて……私はもうだめ……あ~』という言葉を残して電話は途中で切れたの。勤め先に聞いたら、意識不明で仙台市立病院に収容されたって。すぐ帰りなさい」
 初めての出張に燃えていた私は迷った。たった一人の肉親、その母親が倒れたのである。
 私が産経に入社が決まり東京に旅立つとき、母が私に言った言葉は次のような残酷な言葉だった。忘れることはできない。
 「お前が新聞社の仕事を選んだ時から私は、もう死に目にもあえないと思っているから大丈夫。これからは一人で生きて行くのよ……私の事など考えずに一生懸命仕事をしなさい。お前の立派な姿を見られなくて残念だけど、私の役目はここまでだね……」
 母に最後に会ったのは、産経に入社して約半年が過ぎた昭和四十四年の夏頃だったと記憶している。
 日本初となる原子力船「むつ」の建造が進み、定繋港になった青森県の大湊港の全景を産経新聞航空部所有のセスナ機「310Q(スリーテンキュウ)」で空撮する仕事だった。
 私は、東京に出て来た嬉しさから夜な夜な新宿歌舞伎町のバーに通い、小遣いがなくなり、ヤミ金にまで手をだして、その額は百万円を超えていた。ボーナスもヤミ金の返済で消えるなどひもじい思いの生活を続けていたこともあり、どうしてもお金が必要だった。
 その時、母が勤めていたのは仙台市の南端で、仙台空港から四、五㌔の所だった。羽田から飛び立ち、青森上空で取材して羽田に帰るという飛行プランだったが、燃料補給のため仙台空港に着陸するという。
 この時間を利用して私はタクシーで母の勤務している会社に行き、小遣いをせびったのだ。この時の事を母は叔母にこう話している。
 「小遣いも不足しているようなの…どんな生活しているんだか…この前ね、飛行機でこっちに来たなんていうものだから私が持っていた生活費を全部あげちゃった…」
 叔母からこの話を聞かされ、私は返す言葉がなかった。
 こんな状態での「母危篤」の知らせに私はトイレに駆け込み北の方角に両手を合わせて「助けて下さい」と祈るしかなかった。
 「何、やっているんだ。すぐ帰れ。出張なんかしなくて良い」
 その日、当番のデスクに怒鳴られた。こうして上野発の夜行列車に飛び乗ったが、涙が流れて車内にはいられずデッキで立ちながら泣き尽くした。たぶん、一生分の涙だったような気がする。
 仙台駅に降り立った時、かけていた眼鏡の左のレンズがバリバリと音をたてて割れた。母と結ばれていた絆の終わりを知らせる神のお告げだったのかも知れない。病院に着いたのは明け方。母は昏睡状態で一言も口を開かなかった。
 そして二日目の深夜、担当医師に呼ばれ、こう告げられた。
 「お母さんはこのまま治療を続けても脳がドロドロに溶けるだけです……」
 脳死状態だというのだ。「早く楽にしてあげよう……」そう決心して私は先生の言葉を受け入れた。四十四年十二月十二日午前三時二十八分、母とは永久の別れとなった。
                                                                   続く

 

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