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2019年4月10日 (水)

昭和・平成の激動の時代に生きて

 第四章 カメラマンのプライド
   駐車場に飛び降りる

 あれは、極左集団「狼」による一連の爆破事件で東京・港区の間組本社が爆破された三日前だったと記憶している。
 昭和五十年二月二十五日の夕刻。三階の社会部から四階の写真部に戻ってきた当日の当番デスクから呼ばれた。
 「まだはっきりしたことは分からないが、苫小牧に向かっているカーフエリーが仙台沖で連絡が途絶えたらしい。ヘリを使っていいから行ってくれないか」
 こうして私の仙台出張は突然決まった。事件だから突然はあたりまえだが、妻は出産を控え神経質になっており「何もないときはできるだけ帰って来て」と言われていた。
 東京・板橋区高島平の公団住宅十一階に住んでおり、新潟県寺泊の田舎育ちの妻が高層団地の部屋に一人でいるのは寂しいらしい。
 しかし、結婚するときに約束した事がある。
 「地震や台風があれば、世間の主人は自宅に帰ってくるが俺は出て行く。親の死に目にも会えない職業だ。家庭のことは全て任せる。それが報道カメラマンの宿命だ」
 事件は海で起きていることから、通常のカメラのほかに超望遠レンズと三脚などを合わせると機材の重さは十㌔を超えていた。
 二月だから日の入りは早い。六時前には沈んでしまうことから、その前に栃木と福島の県境「白河の関」を超えたいのだ。
 県境には茶臼岳、三本槍岳など高山があるため厚い雲がかかることが多く、ヘリコプターでの山越えを嫌うパイロットが多い。
 フライトプランは羽田発丨仙台空港のアウトバンド(目的地に着陸すること)。仙台は風が強く曇り時々雨だった。
 大手町の本社から羽田までだが夕方とあって首都高速が混雑。格納庫に着いた時は日没の午後六時を過ぎていた。パイロットは出発前に私に釘をさしてきた。
 「天候が不安定なので覚悟して下さい」
 こうして飛び立ったヘリコプター「KH4(ケーエッチフォー)」が宇都宮上空を過ぎて、パイロットは格納庫と無線連絡をとった。産経の航空部の運行を東亜国内航空(当時)に委託しており、定期路線を持っているので天候などの情報に詳しい。
 「申し訳ないが、仙台へ行くのはダメです。ここから先は雲がべったりで、このヘリでの山越えは無理です」
 「だったら海に出て海岸線を這って行けばいい」
 「無理を言わないで下さい。機材が重いのとバラストを積んだので、その分だけ燃料を減らしてあるんです」
 バラストとは、航空機の操縦席に二人、後部席に一人だけが乗ると、左右のバランスが崩れることから均衡を保つために使われる砂袋。
 「なんでも無理じゃないですか。分かった。フライトプランはローカルフライト(出発空港に戻る短い飛行)でなくアウトバンドだね。だったら私を何処かに降ろして下さい」
 「ちょっと待ってください。いくらアウトバンドでも市街地にランデングはできませんよ」
 機上で口論になった。私は、どうしても行かなければならない。もう黒磯上空であり、口論なんてしている暇がない。ぐだぐだ争っている間に引き返さなければならなくなる。
 「分かった。だったら私がヘリから飛び降りればいいんだろう。あんたがたは農薬散布でこのへんの地理に詳しいはずだ。どこか黒磯の駅の近くで飛び降りられる駐車場か広場があるでしょう」
 決めたら絶対に譲らない性格はパイロットも知っている。
 「分かりました。私は上司から叱られたら、援護してもらえますか?」
 「当然です。私たちには報道という使命感が求められています。責任は私がとります」
 納得したパイロットは、黒磯駅から数百㍍離れた民間会社のとある駐車場で高度一㍍でホバリング(空中停止)した。私は飛び降り、機材を外に出した途端、パイロットは何も言わず高度を上げていった。
 黒磯駅から特急電車を使って仙台に着いたのは午前0時を過ぎていた。結局、カーフェリーは無事であったことが確認され、シャッターを押すことはなく帰京。しかし重い物を持ったせいか、体調が悪かったので夕方早めの帰宅をした。
 翌日の勤務は日勤。朝、自宅を出て十一階から下りエレベーターに乗り込もうとしたら、いきなり呼吸困難になり立っていることができなかった。しかも左胸に激痛がはしった。
 エレベーターまで見送ってくれた妻が一一九番。私は板橋区の民間医院に緊急入院となった。点滴をうたれて一眠りしたら痛みが治まった。ベッドで付き添ってくれた妻が言った。
 「先生は、肺気腫とか一時的に肺に穴があいたりする何か炎症があったのではないかと言ってます。四、五日安静にして様子をみるそうよ」
 第一日目から食事は自分で食べられることから妻は帰っていった。そして二十八日の入院二日目の夜、あの間組爆破事件が起きた。
 「こうしていられない」と私は現場に行く決心をして病室のロッカーを開けて背広を着ようとしたが、そこに背広はなかった。何をやるか分からないと思った妻が、背広から革靴まで自宅に持ち帰っていたのだ。
 結局、四日目で退院したのだが、病名は分からずじまいだった。実はこれが私の人生を左右する重大な病だったと、そのときはまだ気づくことができなかった。
   翼よあれが函館の灯だ
 ソ連(今のロシア)のミグ戦闘機が函館空港にやって来た時の話。
 写真部デスク席にある社会部直通の緊急電話が鳴った。「リリリリリ」と連続するので社会部からの出動要請と誰もが分かる。周囲にいる部長をはじめ各デスク、待機カメラマンが緊張する瞬間である。
 昭和五十一年九月六日の午後四時前後だったと記憶している。電話の後で、デスクが私に向かって怒鳴った。
 「函館に行ってくれ! ソ連の戦闘機が緊急着陸したらしい。社会部の記者も同行するから、燃料のことも含めて格納庫には事前連絡してから行けよ」
 羽田から自社機の「JA5181」のセスナ機「310Q」での出動だ。その時、三階の編集局に打ち合わせで行っていた先輩が四階の写真部に帰ってきた。息切れしている。
 「ソ連兵がけん銃を持って立て籠もっているらしい。こちらから行っても函館には降りられないかも知れないぞ。燃料をしっかり入れて行け」
 こうして私は羽田の産経新聞格納庫に向かった。「310Q」はすでに格納庫前に出されて燃料補給も済んでいた。パイロットが私に聞いてきた。
 「今回は特殊な事件だけに、ダブルパイロットで行きたいのですが…」
 通常の飛行は操縦席にパイロットが乗り、その横に整備士。後の座席にカメラマンが乗ることになっている。しかし、今回は整備士の代わりにパイロットを乗せるという。
 「それはいいですが、社会部の記者が乗ります。国防など軍事問題が絡む事件だけに警備が厳しく、函館着陸が無理な場合を考慮した燃料をお願いします」
 「分かりました。では、バラストを降ろしましょう。天気が良いようなので羽田丨函館で飛行プランを出しました。出発します」
 今回は社会部記者も搭乗するため後部席が二人になり、二対二でバラストは必要ないのだ。
 「310Q」が羽田を離陸したのは夕方の五時少し前だった。天候が良いので順調に飛行を続けて仙台上空通過の際、仙台総局と無線で交信した結果、現在も膠着状態が続いているという。
 「310Q」はやがて青森上空から津軽海峡に入った。午後七時を過ぎている。真っ暗な海峡の先にひときわ華やかな夜景が見えた。パイロットが叫んだ。
 「函館が見えてきました」
 函館の夜景と言えば、ナポリ、香港と会わせて世界三大夜景のひとつと言われている。真っ暗な津軽海峡の中に海沿いの道路は、宝石をちりばめた街の風景の縁取りのように見える。まさに〝百万ドルの夜景〟にふさわしい。初めて見る夜景に感動した。そして間もなく補佐のパイロットが嬉しそうに言った。
 「運がいいですねえ。ほら、滑走路の誘導灯が付いていますよ…降りられるようですね」
 私は昂奮した。
 「よし、降りましょう」
 隣の社会部記者に握手を求めた。パイロットが函館空港管制塔を呼んだ。
 「ハコダテタワー、ハコダテタワー、JA5181オーバー」
 パイロットがコンタクトをとった瞬間だった。なんと点灯していた誘導灯全てが消されたのである。「運がいいですね」と言ったパイロットが落胆している。
 「やっぱり…だめか…羽田には戻れないので今晩は青森に降りましょう」
 着陸できないこともあって私は昂奮していた。
 「なにを言っているんですか。函館に取材に来たのですよ。青森に降りてどうするんだね」
 一瞬だが機内が凍り付いた。社会部記者が助け船を出した。
 「千歳にしましょう。タクシーでとばせばいい。取材費はありますから大丈夫です」
 こうして「JA5181」は千歳に着陸した。
   □   □     
 ソ連の戦闘機が函館空港に強行着陸したこの事件は、九月六日の午後一時五十分に起きた。
 戦闘機はドラックシュート(パラシュート)を使ったがオーバーランして滑走路からはずれて草地に突っ込んでようやく止まった。
 たまたま空港の敷地内で工事をしていた現場監督が持っていたカメラで写真を撮りながら機体に近づいていった。
 良くみると機体に赤い星のマークがあり、明らかに日本の戦闘機ではなかった。
 近づくと、乗っていたパイロットがけん銃を持って機体から降りて来て空に向かって一発発砲した。驚いた現場監督はカメラからフィルムを抜いて差し出したという。
 着陸した戦闘機はソ連の「ミグ25」だった。同機は西側諸国では「フォックスバッド」と呼ばれている幻の戦闘機だった。操縦していたのは軍人のベレンコ中尉。
 後に分かったことだが、ミグ25はこの日、ウラジオストックから300㌔も離れたチュグエフカ基地で複数機による訓練飛行を行っていた。訓練中にベレンコ中尉が操縦するミグ25が集団から離れ、日本に向かった。
 当然、日本側は航空自衛隊千歳基地からスクランブルをかけたが、ミグ機は超低空飛行で発見できず函館に着陸されてしまった。
 千歳からタクシーで函館空港に着いたのは午後十時を過ぎていたと記憶している。当然、空港は警察によって封鎖されており、滑走路のはずれにあるミグ機の姿すら見えず撮影はできなかった。
 ミグ機の写真は、北海道新聞が日中に撮影して共同通信が配信したものを使うこととした。
 問題はベレンコ中尉の写真である。本人はどこにいるのか? 残念ながら産経は北海道警察にパイプがないため、本社での所在確認作業となった。
 強行着陸の目的は亡命のためなのか? その場合の希望国は? その受け入れは? 現在の身柄はどこにあるのか? 今後の身柄の扱いは? 全て分からないのである。社会部記者がホテルをとり、電話で四苦八苦しているがどうしようもなかった。
 私は、機体を撮影するため深夜まで空港周辺を歩き回ったが、滑走路のはずれにある機体はすでにシートが掛けられているようだ。滑走路の照明は完全に落とされ、撮影場所を探してもストロボの届く地点は見当たらなかった。
 さらにベレンコ中尉の情報をとろうと警察署などに行くも、全くその気配さえ感じられないのである。
 そして翌七日早朝、空港に行くと、機体は滑走路の端から移動、空港ターミナルの東裏にあった。検証を行うための移動だという。
 空港周辺はソ連の精鋭戦闘機をひと目見ようという野次馬でごった返している。勿論、立ち入りが制限されているため空港の建物には近づくことはできない。
 ターミナルの屋上は許可された五十人以上の報道関係者で埋め尽くされている。ほとんどがカメラマンだ。
 機体全景は撮影できたものの、ソ連の国土防空軍所属の精鋭戦闘機とあって日本だけでなく世界各国がほしいのはコクピット内の写真だ。
 当然、私も望遠レンズ付きのカメラを手に狙った。他の多くのカメラマンも三脚でカメラを固定してじっくりチャンスを狙っているが、私の頭の中はベレンコ中尉本人の写真撮影だった。
      
 社会部記者は「ベレンコはどうやらアメリカに亡命したいと言っているらしい。そうすると写真は無理かも…」と言っている。
 行方さえ掴めず夜になった。ホテルに本社写真部から電話が入った。宿直のデスクだ。
 「よおっ、下(三階の編集局)から、カメラを手にした外国人が写っている写真はないかと言ってきている」
 確かにターミナル屋上には外国人の姿があった。だが、敢えて撮影はしていなかった。そう断った。デスクの声が大きくなった。
 「ソ連のミグ戦闘機とはどういう飛行機か分かるか? 国防の精鋭戦闘機だ。アメリカだけでなく欧州にとっては情報を入手できる最大のチャンスだぞ。だから各国のスパイが函館に来ているという原稿が出ているんだよ。なければしょうがない。通信のでも使うよ」
 結局、翌日の朝刊には私の写真が一枚もなかった。そして三日目の九日、ベレンコ中尉の写真撮影もできないまま引き揚げることになった。函館に迎えの「310Q」は来てくれなかった。
 函館発の全日空便で東京に帰る時、機内で社会部記者が話し出した。
 「後で分かったんだが、強行着陸したあの日(六日)の夜、ベレンコは道警の用意したホテルで密かに事情聴取を受けたらしい。そこでアメリカへの亡命を願い出たそうだ」
 「それで、身柄はどうなったの?」
 「亡命となると身の安全が大事になるので、道警はヘリで千歳まで持って行き、千歳からは航空自衛隊機が極秘で入間基地(埼玉県)に移送したようだ。きょうあたりアメリカに向かっているんじゃないのかな…」
 来るときの機内から函館空港の誘導灯を見た時は、「全て順調か」と思われた取材だったが、さんざんな結果に終わってしまった。
   悪天候の日本海飛行
 昭和五十五年七月十九日に開幕したモスクワオリンピックは、日本やアメリカなど西側諸国が不参加を表明するなど、スポーツにイデオロギーが入った前代未聞の五輪となった。
 当時の首相は第六十八代の大平正芳で昭和五十三年に就任した。当時、ソ連のアフガニスタン侵攻など新冷戦時代の中で日米安保条約を重視した政策をとり、そのなかの一つに五輪ボイコットがある。
 当の本人はボイコット宣言したものの、開幕前の六月十二日に心筋梗塞で急死している。
 そんな情勢にあった七月二十七日、ソ連海軍航空隊のツボレフTO丨16R戦闘機が偵察飛行中に日本海の佐渡の北一一〇㌔に墜落する事件があった。
 ツボレフTO丨16R戦闘機は双発の爆撃機で、北方艦隊、バルト艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊などソ連航空隊の精鋭機で日本だけでなく中国や北朝鮮の海軍に影響を与えていた。その爆撃機が墜落したのである。
 二十七日は、私は休みだった。昭和五十年に生まれた五歳の長女、五十四年に生まれた一歳にならない次女と久しぶりに自宅で過ごしたその日の夜の十時過ぎ、自宅に写真部デスクから電話があった。
 「明日は羽田勤務だよな」
 そう確認された後の指示は、ソ連戦闘機墜落の取材。セスナで現場に行けというのだ。
 「今日、飛んだのではないのですか?」
 「飛んだよ。だがな、天候が悪くて現場が見えなかったのだ。だから、明日フジテレビのカメラマンを乗せてもう一度、行ってくれ」
 今日は天候が悪くて取材ができなかった。明日の天候はどうだろうと新潟県の天気予報を調べた。今日と同じの曇りで小雨がぱらつくという。今日と同じ天候なら、再び飛びたいと言ってもデスパッチャーが受け入れないだろうと思った。
 そこで私は、石川県警の珠洲警察署と七尾警察署、それに山形県警の酒田警察署の当直に電話をかけて、青空が見えるかどうかの確認をとった。午前〇時近くとなれば警察署しかないのである。
 酒田署の回答は小雨だったが、七尾署は星空が見えるという。これで私は自信を持った。
 翌朝、本社写真部に着いたのは七時過ぎ。早朝フライトだから羽田にはデスパッチャーか整備士は出勤しているはずだ。デスパッチャーが電話に出たので、こう告げた。フライトプランを入れる前に言っておかなければならない。
 「昨夜、新潟周辺の天候を調べた。石川県の能登半島の七尾付近が晴れているようだ。現地が悪いようなら、能登半島で降りて海岸線を這って佐渡に行って下さい」
 飛行機は高度を下げる際、円を描いたように降りて行く。天候が悪いと雲高が低い(雲と地上の差がない)ため、有視界飛行のパイロットは嫌がるのだ。だから晴れたところで海面すれすれに降りて、海岸線を伝って行けば安全なはずである。
 羽田に着いた私がトイレに駆け込んだときのことだった。便器に座っていると数人の男の声が聞こえてきた。そのうちの一人が言った。
 「今日のカメラは誰だよ」
 「小野だよ、小野。さっき電話があったよ」
 「えっ! 奴ですか…このままではいつか殺されちゃいますよ。俺たちを何だと思っているんですかねえ…高すぎるから降りろとか、雷雲があっても突っ込めとかメチャクチャだから…ヘリなんか街の真ん中に降ろされたというではないですか…」
 どうやらパイロットが言っているようだ。これにデスパッチャーが答えた。
 「さきほどの電話では、現地付近の天候を調べたらしい。そしたら七尾付近が晴れているから、そこで降りて海上を這って行けと指示されたよ」
 「現場はカメラマンの命だとか言っているが、何が正義に生きる男だよ。馬鹿言っているんじゃないよ」
 私はこの会話を聞いてショックを受けた。自分もプロならパイロットだってプロ。要求があれば、あらゆる手段で挑むのがあたりまえだと思っていたからだ。
 胸に引っかかるものがあったが、チームワークが大事なので笑顔でティクオフした。高度三千㍍で雲の上を飛ぶことになる。長野付近を通過しているとき羽田の管制塔から緊急無線が入った。
 「羽田タワーですが日本語で申し上げます。5181は佐渡へのフライトプランが出ていますが、現地は天候が悪いうえ、ソ連の航空機が何機か飛行しているのでレーダーを活用するなどで充分、気をつけてください」
 パイロットは「聞いていてわかるだろう」とでも言いたげに我々に何も言わない。このセスナにはレーダーが無いのだ。フジテレビのカメラマンが口を開いた。
 「無理しないでください」
 在京各社は計器飛行のできる「MU2」を使用していた。日本の三菱重工が昭和三十八年に製造を開始した多目的小型ビジネス機だ。
 これに対してセスナ「310Q」は、オンボロでこんなエピソードがある。写真部のKM先輩が北方領土の取材で北海道に飛んだ時、エンジンの凍結を防ぐためカイロで暖めながら飛行を続けたという。
 朝、私が要望した通り能登半島方向に向かうのかと思いきや、計器を覗くとストレートで佐渡を目指している。
 そして新潟上空に来たのか急に高度を下げだした。雲の中を旋回しながら高度を下げていく。低くなって行くたびに耳に異常を感じる。そして機体が上下にぶれだした。見ると海岸がすぐ近くに見えた。かなりの低空飛行だ。風が強くガタガタしている。
 佐渡島周辺を探すが、墜落した機体を捜索する海上保安庁の船体が見当たらない。
 「これでは、どこに墜落したのか分からないばかりか、たんに海面を撮りに来ただけになってしまう…」
 フジテレビのカメラマンが心配している。そこで私はセスナ機に固定積載してある産経の専用無線で新潟支局を呼んだ。そして、捜索している船の場所を東経何度、西経何度でとるよう要請した。
こうして捜索船のポジションを特定。墜落現場とみられる周辺にいる海保の捜索船を見つけることができて取材は無事済んだ。「はい、終わり」と言った瞬間、セスナは急角度で高度をあげ、一気に雲海の上に出た。
 本来なら新潟空港で給油する予定だったが、羽田まで帰るギリギリの燃料が残っているため帰ることにしたのだという。  
 羽田の方向に機首を向けており、やがて間もなく羽田ということで高度を下げた。ところが見えてきたのは山。海岸線と山の位置からすると、その山はまぎれもなく茨城県の筑波山だった。
 機首は羽田を向いているが、風が強いと機体が横に流されてしまい、位置を見失う。運が良かったのは、羽田の着陸はC滑走路を使用していたことだった。そのまま、千葉上空からCランのコースに入ることができた。
 神奈川県の上空に出て回り込むように鎌倉上空から侵入するA滑走路では燃料がもたなかったと、ランデング後にパイロットは言った。
 「あ~…きょうもまた助かった」
 この言葉を聞いて私は、トイレでのあの会話を思い出した。と同時にハイヤー会社のある運転手から言われた言葉が脳裏をかすめた。
 昭和五十年を過ぎると、事件現場臨場の交通手段は、社有車からハイヤー会社の委託へと変わっていった。数年過ぎた某日、某ハイヤー会社の運転手から次のような言葉が発せられた。
 「我々ハイヤー会社の運転手仲間ではあなたの事を『墓場に行くより怖い』と言っています。私はタクシーからハイヤーになった新人です。宜しくお願いします」
 そして今回のトイレでの会話である。自動車も航空機も事故は即、命取りに繋がるとあれば、彼らの会話はあたりまえなのだ。
 私は、己の考えばかりを前に押し出して、他人への「思いやり」に欠けていた自分を羞じた。そして自分に言い聞かせた。
 「相手の痛みが分かってこそ、いい記事がつくれるのだ…」
   「あっ! プロペラが止まっている」
 〝事件屋〟として大概の危険には出合ってきたが、今思い出しても身の毛のよだつこんな体験もした。
 写真部の勤務は六交替制で午前九時出社の早出勤務、午前九時からの羽田分室勤務の羽田番、午前十時出社の日勤、午後一時出社の夜勤、泊まり勤務は午後二時までに出社するのだ。当然、勤務の順番はその時々で入れ替わる。
 昭和五十七三月二十一日、私の勤務は早出。事件発生に備えていたが、少なくても昼ごろまではなにも無かった。昼のニュースの前、午前十一時半過ぎだった。気象庁担当から社会部に「北海道で大地震」の報が入り、編集局内が騒然となった。
 各テレビの昼のニュースは地震報道一色だった。
 午前十一時三十二分、北海道の浦河沖を震源とするマグニチュード7・1の地震があり、浦河で震度6を記録。北海道のほぼ全域と青森県の一部が震度4。さらに関東の一部も揺れるなど大地震となった。
 同僚と早めの昼食に行こうとしたその時、デスクの罵声に近い言葉が飛んだ。
 「オイッお前ら、メシ喰いに行こうとしてるんじゃねぇだろうな。おい小野、北海道だ。社会部も同行する」
 震災地のまっただ中に行くのに、昼食をのがせばどうなるのかとこっちが怒鳴りたくなった。しかし、デスク命令である。困っていると先輩のNカメラマンが助け船を出してくれた。
 「いいからメシ喰って来い。俺が用意しておいてやる」
 こうして私は社会部記者と羽田に向かった。待ち受けていたデスパッチャーが私に言った。デスパッチャーとは航空会社の運航管理者でフライトプランを作成するなどの専門家だ。
 「現地の天候が悪いのでパイロットをダブルにする。他に二人と機材を含めるとかなり重くなり、千歳までの燃料しか積めないので無理を言わないでください」
 専門家に反論もできず、全ての条件を受け入れて離陸したのは午後の三時ごろだった。主席パイロットは大ベテランのGさん。そして補佐のパイロットには若いTさんが付けられた。
 コースは羽田から千歳までセスナ機「310Q」。千歳から浦河までタクシーを利用する。
 ところが青森上空を通過中にアクシデントが起きてしまった。補佐役のTさんが大声で叫んだ。
 「右のプロペラの回転が止まっている!」
 そう叫んだ瞬間、ガクッとスピードが落ちた。見ると正常時は回転していて形が捉えられないプロペラの羽根が確認できる。パイロットは片肺飛行のため必死にバランスをとっている。社会部記者の顔は凍り付いたようになり蒼白になっている。
 主席パイロットのGさんが私に言った。
 「千歳は雪のため間もなくクローズになるそうですので青森に降りるしか方法はありません。この高度だと青森には引き返せます」
 「冗談じゃないよ。俺たちは遊びで乗っているんじゃない。千歳管制塔に片肺飛行中だと言ってさ、エマージンシーでのランデング(着陸)を要請して下さい」
 補助パイロットのTさんが激怒した。
 「あのねえ、あんたは俺たちを殺そうというのか?」
 あの時、充分反省したはずなのに、私の心には、まだ自己中心の虫が生きていた。しかし、ここは譲れなかった。
 「殺すとか殺さないの話ではない。俺たちは今、生きるか死ぬかの戦いをしているんだ!」
 私が発した鋭い語気に機内は静まりかえった。その沈黙を破ったのはGさんだった。英語で千歳の管制塔と連絡をとっている。
 「今、管制塔と連絡しました。千歳は間もなく雪のためクローズになります。それでエマージンシーを認めてくれて、JAL便のランデングの直後ならOKだと言っています」
 Tさんが後を振り向いて私に言った。
 「頼むよ…命を預かっているのはこっちだからさ…我々の言うこともたまには聞いてよ。今回はスロットルが凍りついたので向こうも許可してくれたようなものだから…」
 こうして無事に千歳に到着した私たちは、タクシーで浦河の現場に向かったのだった。

勝つためには
 昭和五十年代に入ると警察無線が傍受できた。私は事件屋。誰よりも早く現場に行くことがカメラマンの命だと考えており、情報の取得の武器として警察官が使っているのと同じような小型の携帯受令機を持っていた。
 一四〇、一五〇メガ帯の切り替えに三桁のデジタルボタンがあり、全国の警察無線、消防無線が傍受できた。東京・秋葉原の電気街で、ウン万円で手に入れた。
 社内にいるときも刑事のように耳にイヤホンを付けているものだから、編集局長など編集幹部から苦情が出たこともあった。
 「ラジオを聴きながら仕事をするなんて、不謹慎だ」
 最初は不謹慎な野郎と見られていたが、私はあえて反論しなかった。「ひとのやれない事をやる」を信条にしているからだ。何日か過ぎると理由が漏れ伝わり次のような評価に変わった。
 「あいつは自宅でも聞いているらしい。カメラマンはあそこまでしなければならないのか?」
 記者ではないので原稿の材料にはならないが、現場に行くか否かの判断と事案の内容など基本的情報が取得できるのだ。
 一一〇番通報と同時にキャッチして現場一番乗りを果たすなどは何度も経験した。殺人事件の捜査系通信を聞いていて、関係先がわかり被害者の顔写真取材には事欠かなかった。こんな事もあった。
 私が東京・板橋区の高島平団地に住んでいた時だ。夜の八時頃と記憶しているが、建物近くで若い女性の死体が発見された。警察無線を聞くと、なんと私が入居している建物の前だった。
 その時、高島平団地は十階、十三階建ての高層団地で、飛び降り自殺が多かった。これにピンときた私は我が団地の屋上に行ってみた。
 屋上のドアを開けると、積もった雪の中に一直線に足跡があった。その先の下の地面は遺体が見つかった位置で、足跡が切れた屋上の端には靴が揃えられ、濃紺の学生用カバンとマフラーがたたまれて置いてあった。
 飛び降りたのは女子高校生。カバンなどは私がいるドアのところから十㍍ほど離れており、近づくと私の足跡が残るため、そばまで行くことができない。靴とカバン、綺麗にたたまれたマフラーのアップ写真は諦めたが、「自殺への足跡」のキャプションで充分使用できる写真は撮った。
 しかし、この写真は世の中に出なかった。月に何度も飛び降り自殺があり、私たち団地の住民は、いつ上から人が落ちてくるか分からない不安な生活を送っていたので可能な限り報道発表を控えて貰っていた。このため、私は、自社のみの写真ではあったが出稿を諦めることにしたからだった。
   救急車にぶら下がったスッポン       
 あれは昭和五十一年二月四日、泊まり勤務の夜に世界的な大規模汚職事件が幕を開けた。いわゆるロッキード事件である。
 警察無線を聞いていても都内では発生の事件も火災もなく、平穏な夜だった。三階の編集局から上がって来た当番デスクが言った。
 「アメリカで日本への政治献金問題が出た。児玉が絡んでいるので社会部と行ってくれ」
 「児玉って、あの右翼の児玉誉士夫親分ですか」
 デスクが「そうだ」と言う前に、私はロッカーから例の〝乱闘服〟を取りだした。なぜか頭の中には鶴田浩二の「傷だらけの人生」が流れていた。
♪ 何からなにまで真っ暗闇よ 筋の通らぬことばかり 右を向いても左を見ても ばかと阿呆のからみあい どこに男の夢がある…♪
 児玉邸は世田谷区等々力六丁目で、目黒通りの産業能率短大交差点を東に入った閑静な住宅地にある。
 邸宅は道路より小高くなり、約五〇㍍入った道路左側に木製で引き戸の通用口があった。住宅の周囲は植木の垣根になっている。
 通用口の手前の邸宅角を左に入る五、六㍍幅の道路があり、約二〇㍍先の右側に児玉邸の正門がある。正門の左に木立に囲まれた別の邸宅があるがここが隣家の赤井電機(音響・映像機器メーカー。現在は存在しない)の社長宅だ。社会部記者は児玉にインタビューするため正門からインターホンを押した。
 私は、玄関から出る児玉本人を垣根の隙間から撮影するため玄関と正門の中間で待機した。ところがなんと出てきだのは、児玉ではなく、かっぷくの良い下駄を履いた中年の男だった。顔立ちはいかにも〝その筋の男〟に見えた。良く見ると数㍍もある黒い革製の鞭を持っていた。これではシャッターを押す勇気がなかった。
 社会部記者との応対に出てきた鞭の男は「書生」。威嚇するような人相・風体に恐怖を感じ、児玉本人どころか「本人が在宅するのか否か」を含めて取材そのものが空振りに終わった。
 児玉邸取材のきっかけとなったニュースは、二月四日ワシントン発の共同電だった。現地時間の同日開かれた米上院多国籍企業小委員会で、ロッキード社が日本、イタリア、トルコ、フランスなどに多額の不正な政治献金を行っていたことが明らかになった。
 その中の関係者の一人として児玉の名があり、数年前から児玉に七百八万五千㌦(約二十一億円)を、またロ社の日本エージェントである丸紅に三百二十二万三千㌦(約十億円)が支払われたという。
 この事件の取材は、こうして始まった。昭和五十一年二月五日付けの朝刊各紙はこの問題を取り上げ、米多国籍企業小委が出した資料として、児玉が九千五百万円を受け取った昭和四十七年十一月二日付けの領収書の存在を明らかにしていた。
 「児玉氏は四十七年十一月はじめの五日間で総計四億二千五百万円を受け取っている」とされたほか、領収書の中には「ヒロシ・イトー」の署名で「ピーナッツ百個受け取りました」と英文で書かれた謎めいた領収書があることも暴露されたのである。
 これらの報道に日本政府の反応も早く、二月六日の衆院予算委員会では野党による追求が始まり、社会党からは「カネの流れを糾明するため児玉の召喚」が提案された。
 さらに十一日付けの朝刊各紙は、「金の流れ中心に、警察当局も捜査へ」が一面を飾った。
 事件が一般に明らかになった五日の翌日から、産経と読売新聞など数社のカメラマンが児玉邸に押しかけた。
 逮捕連行の写真撮影が主な狙いだが、捜査当局の動きの前に病院や療養所に雲隠れされてはたまらない丨としてエスカレート。私は、ほぼ連日の張り込みとなった。
 二月二十日付けの朝刊各紙は一面で「首相の所信表明」と報道。関連記事として「東京地検は児玉邸・丸紅などを週明けにも一斉捜索」としたことから国際的大疑獄事件は米国議会が明らかにしてから約二週間で〝風雲急を告げる〟状況を呈し、報道各社は文字通り、「二十四時間ベタ張り」へと突入していった。
 捜査当局が動いたのはその四日後の二月二十四日だった。内偵捜査を続けてきた東京地検特捜部、警視庁、東京国税局の三庁合同による一斉捜索が行われた。
 実は、地検特捜部が主導権を握っているように見えたが、約一年間にわたる警視庁の内偵捜査が存在するのは知る人ぞ知る話だ。
 警視庁は、日米間に地下銀行の存在を知ったのは一年前の昭和五十年春ころ。一人のブローカーが日米間の出入国を繰り返しているのに不審に思い内偵捜査を開始した。
 その結果、ブローカーは米国から日本国内に送られた小切手を米本国に持ち込み換金。地下ルートを通じて日本に送金していた。この内容は外務省が在米大使館から取り寄せた領収書のコピー三枚とピタリ一致したのだ。
 「地検はどちらかと言うと身柄の捜査。うち(警視庁)がやったからできた様なものなんです。ピーナッツの内容が分かった時は、よし〝勝てる〟と沸きに沸いたね。だから田中総理の事情聴取が早かったよ。昔の半蔵門会館など関係施設を利用してやっていた」
 こう語ったのは警視庁の当時の捜査官。家宅捜索はやはり警視庁が中心となり実施された。
 捜索カ所は児玉関係で十五カ所。ロッキード社関係は同社の日本支社を含めて八カ所、丸紅関係は東京本社や大久保利春、伊藤宏両前専務の自宅など六カ所にのぼった。捜索の実施とともに、地検と警視庁はそれぞれ捜査本部を設置し「長期捜査」を予測した本格的な捜査体勢を整えた。
 政界の大物を目指した捜査は著についたばかりだが焦点は国会の証人喚問にも応じていない児玉に対する尋問。国会招聘がだめなら自宅での臨床尋問が予想されたこともあり、児玉邸からカメラマンの姿が消えなかった。
   □   □
 「せっかくご協力頂きましたが、主治医が無用な混乱を避けるため入院はとりやめ、いったん自宅に戻すと言っております」
 昭和五十一年二月二十七日午後三時二十六分のことである。場所は新宿区市谷河田町の東京女子医大病院脳神経センター地下入り口通路での出来事だ。数十人の報道関係者がつめかけている。この時、私は三十二歳、仕事が面白くてたまらなかった。
 ハンドマイクを手にした東京女子医大脳神経センターの医師が、通路に停車している救急車の主が病院に入るのを待っている報道関係者にこう通告したのだ。
 勿論、救急車に乗っているのは話題の児玉誉士夫。「逃げるつもりだな」と直感した私は、医師の報告が終わらないうちに七、八㍍先に停まっていた東京消防庁玉川消防署の救急車めがけて走り出していた。
 救急車の後部には、患者の搬入、搬出用としてドアがついている。このため雨の時には屋根からの雨漏りを防ぐ溝があり、その溝に手をかけて後部バンパーに足を乗せると救急車にぶら下がる事が可能なのである。
 かつて東北線の列車の連結器に乗り、上野まで無賃乗車して捕まった男がいたことを思い出し、〝救急車ぶらさがり〟が閃いた。
 「どこまでも追いかけてやる。俺はスッポンの小野だ」
 救急車の後部にへばりついたその時、サイレンを鳴らして走り出した。日本の犯罪史上特筆される疑獄事件の主人公が「入院」を理由に世間から隔離されることがある。「逃がすものか。国民の監視から逃れることなんか許せない」という正義感からの発想だった。ぶら下がったのは自分以外にもいた。私の左側に読売新聞社のカメラマンA君と、右側にもうひとり白いコートの記者と合わせて三人がぶら下がったのである。
 救急車は間もなく外苑東通りにさしかかった。スピードが落ちた。後方から追尾していた黒い乗用車が救急車に追いついた。一人の背広姿の男が車から降りて救急車に近づいた。
 「危ないから止めなさい」
 よくみると、なんとその男は毎日新聞社のSさんだった。私が仙台市で夜学に通学しながら毎日新聞仙台支局でアルバイトをしていたときの先輩記者だ。
この声に右側にぶら下がっていた白いコートの記者が降りた。
 私はその言葉を冷たく突き返した。
 「何処に行くか見定めるのがマスコミの責任だ」
 東京女子医大を出た救急車は「ピーポーピーポー」のサイレンを鳴らしながら走る。走りながら車内の児玉の様子を伺うことができるが、写真撮影は救急車に両手でぶら下がっているため困難だ。救急車が左右に揺れるたびに両手の先に力が入り痺れてくる。
 新宿近くだと思うが、ある交差点で女性警察官と男性警察官の二人が交通整理をしていた。その二人の警察官が笛を吹きながらスピードを落とした救急車に近づいてきた。
 二人が救急車にぶら下がっている光景を目にしたのか一一〇番通報で待ちかまえていたのかは分からない。笛を吹きながら「危ないから降りろ」と私に向かってきた。「引きずり降ろされてはたまらない」と足蹴りで抵抗した。
 運良く救急車は動き出したので警察官に引きずり降ろされることはなかった。
 我々がしがみついていると知っているのか知らないのか、サイレンを流しながら快走する。
 救急車は右に左にカーブしながら、やがて大通りに出た。大通りは他の車の交通量も少なく比較的空いていた。私から見て、右前方の道路反対側で制服制帽の警察官五、六人が救急車の方向を見ながら待ちかまえているのが見えた。全員が制帽のひもを顎にかけており、戦闘モードなのだ。
 「とうとう強制排除か」と思った。
 「やばい。警察部隊が出てきたぞ」
 読売のカメラマンに告げた。ところが、右側に乗っている私から警官隊は見えるが左側の読売には見えなかった。帰って来た言葉は、
 「そんなの強行突破だよ」
 救急車の後方を見るとなぜか、追従している各社の車両もオートバイもいなくなっていた。見えたのは一台の空車のタクシーだった。警官隊との距離が縮まる。救急車のスピードが落ちた。その時、警官隊が救急車めがけて取り囲むように走ってきた。
 救急車を追い越そうとしたタクシーが驚いた様子で右後方の道路の真ん中に停まった。救急車を取り囲む警官隊。
 「これは本気だな」と思った瞬間、私は救急車を飛び降りてすぐ後ろに停まっているタクシーに乗り込んだ。前のほうで読売がカメラを振り回しながら抵抗しているのが見えた。だが、あっという間に引きずり降ろされてしまった。救急車が再び走り出した。
 「どうしますか?」と聞く運転手。
 「産経のカメラマンです。あの救急車には児玉が乗っています。どこまでも追っかけてください」
 運転手は快く応じてくれた。そして、
 「何をしてもいいですよね」と言う。つまり救急車は当然、赤信号でも走り抜けるので、信号を無視しても良いかという質問だった。
 「いい。一㍍も離れないで…」
 と答えた。何度も車を追跡している経験から言うと、赤信号の交差点に入った時、追尾している車との間が離れていればいるほど危険が伴うからだ。距離がなければ、スムーズに通過できる。
 理由を聞いた運転手はブレーキとアクセルを巧みに駆使しながらみごとに追尾した。到着したのは児玉邸だった。
 「もっと救急車に近づいて」と叫んだが、救急車は正門へ。周囲に待機していた記者やカメラマンでタクシーは前に進むことはできず、児玉が邸内に入る写真は撮影ができなかった。
 「読売さんが四谷署に逮捕されたようですね。大丈夫だったんですか」
 静けさを取り戻したその場で、同業他社のカメラマンから聞かされた。あの場所が四谷署の前だったと始めて知った。それほど昂奮していたのである。
 危険で違法な行為だったのにも関わらず児玉の撮影もできなかった。
 しかし、最後まで行き先の確認ができたことで、私なりに満足感はあった。
   □   □
 「日本列島改造論」を引っ提げて田中角栄が総理大臣に就任したのは昭和四十七年七月だった。改造論とは、日本列島に高速道路と新幹線をつくり地方の活性化を図ろうというもので、この結果、わが国は空前の土地ブームに沸いた。
 だか、この影響で物価が高騰したばかりか第四次中東戦争の影響も絡み、第一次オイルショックへと繋がり、原油価格に関係ないトイレットペーパーや洗剤などの買い占め騒動へと発展した。
 こうして高度経済成長は四十九年に終焉を迎え、やがて田中首相も金脈問題で首相の座を追われることになる。
 経済の悪化に加えて日本を震撼させる事件が起きたのはその年の八月。首都東京のど真ん中で、日本経済の中枢を占める大企業が集中する丸の内で爆弾事件が発生した。あの三菱重工爆破事件だった。
 爆破事件はさらに拡大。三井物産や大成建設など次々に大企業が狙われるなど治安が乱れた時を迎えることになる。
 この連続企業爆破事件で警視庁が犯行グループの「東アジア反日武装戦線」を一斉逮捕したのが昭和五十年五月十九日だった。そして翌年二月にロッキード事件が発覚した。
 この年の五年前の四十五年、政府は国産旅客機の「YS11」の生産中止を決定した。政財界は次期旅客機を巡る動きが活発化していた。ロッキード事件はこうした社会背景の落とし子とみられている。
 このロッキード事件の最中の昭和五十一年三月二日朝、今度は札幌市中央区の北海道庁一階ロビーで爆発事件が発生。二人が死亡し八十五人が負傷した。北海道警は時限爆弾による爆破事件と断定した。この日の午後には同市内のコインロッカーから犯行声明文が発見された。声明文には「東アジア反日武装戦線」の名が記されていた。
 道警公安部はこの事件を、連続企業爆破事件で逮捕した大道寺将司の爆弾教本「腹腹時計」の理論に同調した信奉者による犯行との見方を示した。
 大道寺逮捕の現場を見ている私にとって、北海道庁爆破事件は武者震いする思いだったが、身体はひとつしかなく、北海道まで行って現場を踏むことはできなかった。
 ところが、そんな思いを吹き飛ばす事件がなんと児玉邸で発生した。三月二十三日午前九時五十分ころ、児玉邸に飛行機が突っ込んだというのだ。この日の私の出勤時間は午前十時。出社して間もなくだった。
 「児玉邸で何かが爆発した」の第一報が無線で飛び込んだ。泊まり明け番で張り込みしていたカメラマンが無線で興奮していた。
 「デスクの指示が出るのを待っていては時間の無駄だ」と私はカメラを持って地下の自動車課へ。例によって緊急出動用の車両で現場に向かった。
 事件を起こしたのは、ポルノ俳優の二十九歳の男。自ら操縦するセスナ機で突っ込んだが二階の一部が焼けただけで、児玉本人は別室で寝ていて無事だった。
 警視庁の調べによると、男は自衛隊市ヶ谷駐屯地で自害した三島由紀夫に心酔していたが、「背後関係はなく、単独犯行」と断定された。
 私は、ロッキード事件という大規模汚職事件が米国で明らかになった昭和五十一年二月から児玉邸に張り込みを続けて、何か事が起きた場合の邸内への突入方法まで想定、メモまでしていた。
 じつは児玉邸と隣の赤井電機社長宅の間に塀があり、赤井宅側から脚立でその塀を乗り越えると、児玉邸には容易に入れることを事前に把握していたのだ。
 ところが私が現場に到着した時は、現場保存のため周囲全体が立ち入り禁止になっており、万事休す。独自突入を実行することもできなかった。

   高速道路上の敬礼
 児玉邸への張り込みが開始されてから百三十日が過ぎようとしていた六月中旬。このころになると話題の中心はXデーへと移った。児玉を含めて丸紅関係者は勿論のこと、政界への飛び火が必須の状況にあり、政府高官の名が取り沙汰された。こうした状況により、張り込みの場所の主力は児玉邸から東京地検へと移ったのである。
 東京地検の記者クラブ幹事社が産経新聞だったことから、私は「地検正面入り口への張り番は車寄せのみとして、出入りに支障のないよう配慮する」ことで地検と交渉して了解を得ることができた。但し、仕事が終わって各社が引き揚げたあとのゴミの始末は私が担当した。
 児玉邸張り込み開始から百三十七日目の六月二十二日朝、東京地検と警視庁は全日空の幹部三人を外為法違反の容疑で逮捕。午後には丸紅の前専務を逮捕した。当然、ロッキード事件の逮捕第一号となった。
 同日開かれた参院特別委員会では、答弁に立った法務省の刑事局長が「捜査の拡大」を示唆したこともあり、各社カメラマンと記者の張り込みは東京・小菅の東京刑務所正門前も加えられた。
 運命の日は約一カ月後の七月二十七日にやってきた。
政府高官の逮捕近しで東京地検前の張り込みは午前六時には開始されていた。そして午前七時十五分、黒塗りの乗用車が地検正門に滑り込み、車から降りたのは、田中角栄前首相だった。
 例によって左手を挙げて「よっ」と挨拶しながら地検に入る角さんの姿が、先輩のHカメラマンによって押えられた。そして写真部から私に出された指示は次のようなものだった。
 「地検から小菅の刑務所までの追っかけだ。田中の一挙手一投足も見逃すな」
 角さんを乗せた車が地検を出発したのは八時を過ぎていた。私は角さんを乗せた地検の車の真後ろに着くことができた。地検の車は逃げようとするわけでもなく、私の車を含めて数十台は整然と追尾している。
 地検の車両が首都高速の小菅刑務所近くの出口で突然停止した。出口に信号があるため数分間は停止するのだ。
 「チャンスだ」と私は、高速道であることも忘れて車を飛び出し、走って地検の車に近づいた。助手席の後部に乗っている角さんをガラス越しに撮影するためだ。角さんは地検の検事と話していたが、カメラを持った私に気付き睨み返してきた。
 いつもの穏やかさが消えたその顔は、眼光鋭く口を真一文字に結び、私に恐怖さえ感じさせた。
思わず私はカメラを手に直立不動の状態で、四十五度の最敬礼をしてしまった。その姿を見た角さんの顔が緩んだように見えた。
 「ごめんなさい」と大きな声で挨拶して、シャッターを一回だけ押させてもらった。これが、国の総理に対する礼儀だと思ったからだ。

                                                               続く

 

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