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2019年4月10日 (水)

昭和・平成の激動時代に生きて

 第五章 人生の分岐点
   限界
 昭和五十六年の春だった。「西武新宿線で子供がはねられる」の第一報を私がいつも耳にしている警察無線の受令機でキャッチした。
 本社地下一階の車庫から練馬区石神井町の西部池袋線・石神井公園駅近くの踏切に向かった。大手町から首都高速に乗って間もなく、読売新聞のカメラマンが乗った車と遭遇した。その車は行き先が同じだった。
 この死亡事故は小学三年生か四年生の男児と記憶しているが、父親のお使いで、近くの酒店から酒を買って自宅に帰る途中、踏切で電車にはねられ即死するという痛ましい事故だ。
 地図を見ながら現場近くの池袋線の踏切に着いたと思ったが、現場とは違っていた。私は車を降りて踏み切りの左右を見回した。読売のカメラマンも車を降りて来た。そして、踏切から北側の大泉学園駅方面を見るとひとつ先の信号機のない踏切で警察官が現場検証をしている光景が目に入った。この踏切からは一〇〇㍍ほど離れている。
 「どうする?」
 読売のカメラマンの問いにこう答えた。
 「俺はこのまま線路を行くよ」
 「大丈夫か? 電車を止めたら捕まるぞ」
 その言葉が終わらないうちに私は線路の砂利の上を歩き出した。線路歩きはかつて東京駅から有楽町へ過激派と歩いた経験があった。この線路は両側が住宅で柵がしてあるが、線路内に立ち入った際に異常発報する自動感知器のような機器は見当たらなかった。暫くすると、後から読売が走ってきて私を追い抜いていった。
 前方には現場検証の警察官がいる。見つかったら大変な事になると思ったが私も走り出した。二人はさすがに気がひけたのか、線路上ではなく柵際を走った。
 しかし、読売の足は私より速かった。五㍍から一〇㍍と見る間に離された。読売が現場に着いたのが見えた。あと一〇㍍ほどだが線路際に白い棺があり、その棺に中年の男性がすがりついているのが私の目に入った。読売が激写している。
 私が到着する数秒前にその男の人は立ち去っていた。
 「参ったなあ」
 息切れしている私の言葉に追い打ちをかけるように読売が言った。
 「ちょっとの差だったね。さきほどの男性は父親らしく、大声で泣いていたよ」
 父親のお使いの子供が電車に跳ねられて死亡。その子供の棺にすがって泣きじゃくる父親――。
 完全に負けてしまった。どこの社よりも先に現場到着することに命をかけていた〝スッポン〟が、体力の限界を感じた仕事だった。私は悩んだ。
 (来年二月で三十八歳。あと二年で三十路から四十路になる。子供は二人…二女はまだ四歳。長女は小学二年生だ。事件屋の資本は体力。だが、最近は毎朝、疲れを感じるようになった。そして今回のできごと…どうすれば…)
 
明けて五十七年――公選法が改正になり、五十八年の参議院選挙から比例代表制が採用されるという年だった。またこの年は臨時行政調査会が設置され、国鉄、日本電信電話公社、専売公社の三公社の民営化を答申する動きが出た年でもある。
 (いつまでも事件写真だけでいられない。土田警視総監の言った警視庁記者になれば、人生の転換期であり、同時に発想も転換しなければならない時が来るだろう…)
 こう考えながら日々の生活を送っていた。
そんなある日、民営化など行財政改革について〝辻立ち〟を行っていた太田薫・元総評議長が、こんな内容の演説をした。
 「……公社の民営化もいいが、政府はもっとやるべきことが沢山ある。そのなかの一つは農林水産省所管の予算の中に〝竈(かまど)予算〟と呼ばれる補助金制度の見直しだ。今時、かまどでもないだろう…」
 かまど予算――この言葉が引っかかり、農水省で調べたら確かに三十年も過ぎた現在でも予算化されている。戦後の食生活改善で米食を奨励するためご飯を炊くかまどを作る場合、政府から補助金が出るというのだ。
 折しも、第2次のオイルショックがピーク時にあった。サラリーマンは車一台を持つのに四苦八苦しているが、農家には嫁専用の車など家族一人一台の車がある――こんな不条理なことがあって良いのか? という批判が出始めていた。そんな時の「かまど予算」は億円単位で計上されている。
 「農村はあまりにも優遇されている。類似した予算はないか?」予算書をチェックしたら、いろいろ出てきた。
農家には圃場(ほじょう)整備と言って田んぼのあぜ道を作る事業に補助金。トラクターを購入する際の補助金。そのトラクターを収納する車庫に対する補助金。農家の健康維持のための運動会に助成金。農家の嫁さんらの生け花や裁縫の勉強をするための公民館を造る助成金。その生け花教室に対するお茶代まで助成されていることが分かった。
 「これを絵で見せられるだろうか?」を考えた。そして得た結論は、これまで農家の人たちが撮影している運動会、生け花教室の写真を借りる。農家の庭に置かれている車数台やトラクターの写真。田んぼの圃場(ほじょう)の写真を撮影する。これらを並べて、写真説明を「これに四億円」「これに五億四千万円」などと数字を付けて、税金の行方をサラリーマンに訴えるのだ。
 この企画を提言したところ、一発でゴーサインが出た。写真は技術なんて関係ない。「生け花」や「運動会」など一目して分かりやすい題材を選び、補助金額の文字を大きくした。
 「えっ! これに税金が使われているの?」
 農業の補助金制度を知らないサラリーマンに衝撃を与え、これが編集局内で評判になり、写真部の上からは「第二弾をやれ」だった。
 第二弾は、鳥取県のある村に向かった。週刊誌の小さな囲み記事で、田んぼのあぜ道が補助金で舗装されているというニュースを見つけたことがきっかけだった。
 現地に行って見ると、田んぼの区画整理と圃場整備で田園地帯の真ん中に幅十㍍以上はある舗装道路があった。何㌔にもわたって一直線に続き、中央に白線が引かれ、まるで高速道路並の雄大さだが通行する車両は一時間に数台だけ。我がもの顔に走っている。
 雨の時などに田んぼの水で道路の冠水を防ぐため道路は一段と高くなっており、その道路から田んぼに降りるあぜ道が舗装されているのだ。
 さらに、山を切り開いて造った幅十㍍もある道路もセンターに白線が引かれ、田舎の道路とは思えない。立ちつくすと午前中に通過したのは耕耘機一台だけだった。
 それだけではない、農家の人たちは昼からステーキを食べていた。
 この村は農業改革の模範的な地域で、米作りと乳牛、畜産などを主産業として国の補助を受けている特区村だという。第二弾はこの村のルポとなった。
 その後、産経新聞は社会部、政治部からなる行政改革取材班を編成。国鉄民営化や官公庁の無駄遣いなどを訴える企画がスタートした。
 これが報道に与えられた社会正義だと思った。これまでは事件を通してだけ正義を求めていた自分だったが、正義の広さを改めて認識させられたのだった。
□     □
 あの土田警視総監から「警視庁専属記者になっては」と言われて八年――。ついに私の人生の第二の門出となる日が来てしまった。
 私を同行して土田総監公邸で盃を酌み交わしたFキャップが東京本社の総務局長になり、人事が動いた。
 候補地は二カ所あった。産経新聞関連会社の美ヶ原高原美術館のある長野県の松本通信部と、静岡県清水市(現在は静岡市清水区)の清水通信部。私は普通車の免許を取得していなかったので、山岳地より平坦地の多い清水を選んだ。
 送別会には写真部だけでなく社会部、経済部、政治部から人事部、自動車課。それに新聞を配送する発送部まで三十人余の方たちが参加していただき、その時、写真部のMデスクから言われた言葉が私に新たな決意を与えてくれた。
 「新聞協会賞、写真記者協会賞まで受賞したカメラマンが、なんで茨の道を選ぶのか。相当の固い決意があるようなので頑張ってほしい。辛くなったらいつでもいいから写真部に戻っておいで……」
 そして社会部のデスク連中からは厳しい口調で言われた。
 「新聞記者のイロハと言われている警察署回り(サツ回り)で人間関係づくりを勉強し、原稿の書き方を学んで来い」
 先輩諸氏から励まされて昭和五十八年の二月一日、私はカメラマンから新聞記者へと旅だったのだった。
 清水市は日本平の東麓に位置し、清水港からは富士山が見える港街。羽衣の松で知られ、平成二十五年に世界文化遺産に登録された三保の松原から見る富士山は日本でも最高級の景勝地。幕末の侠客として知られる清水次郎長の生家もある。
 古くから海運中継地として発展。戦時中の軍需工場は戦後、民生品製造工場として各種工場が建設され、静岡県一の工業精算高を誇ったこともあった。
 しかし、産業構造の変化などから衰退。人口二十三万人の清水市には市民に活気が見られなかった。
 これに対して、国家公務員の給与水準を100とした場合の清水市職員の給与水準を示すラスパイレス指数は「113」と、全国的にも高かった。
 第二次臨時行政調査会が発足して、行政のスリム化が国民に浸透し初めているころの清水通信部着任。着任早々、通信部を市民の代表が訪れてきた。
 「助けて下さい。清水市民は不景気に必死に耐えているのに、市は七十億円とも八十億円とも言われる九階建ての市役所を建てたばかりか、ラス(パイレス)指数は全国一とも言われているのです。我々市民は我慢できません。市民運動をたちあげるので宜しく…」
 それは地元の不動産屋の社長を筆頭に商店街の店主や生産農家の主人たちだった。産経が全国版で行政改革推進記事を連載していることから、我々と一緒にやりましょうというのだ。
 「正義のためになるのは事件だけではない。国民が将来、幸せになる行財政改革だって立派な正義だ」
 私はこう決心した。やがて市民運動が立ち上げられて「清水市を考える会」と命名された。機関紙を発行するというので、その支援のため報道することで協力した。
 発効された「清水市を考える会報」は内容が濃いものばかりとなった。
 豪勢な市庁舎は八、九階が利用されず放置されており無駄である。広大な土地を所有しているが有効に活用されていない。市役所の食堂の豪華さや市幹部の交際費など具体性をおびて、いずれも市民感情を逆撫でする市への批判だった。
 ニュースとして取り上げたら急激に読者数が増えた。その数は二か月で三百部を超えた。行政に対する不満が市民に鬱積していたのだろう。
 東京本社で話題になり、鹿内信隆社長が静岡市で「今なぜ行政改革なのか」の講演会を開くことになった。その当日、清水駅前のホテルで「考える会」の会長らと昼食会を催した。
 その時、同行していたのがKS専務で、私は専務賞という特別賞を受賞した。昭和五十八年十一月の話である。受賞理由は次のような内容だった。
 「産経新聞の行政改革推進キャンペーンに呼応し清水市における市民運動をバックアップし、本紙の普及向上に抜群の成果を上げた…」
 講演会が終わった夜、静岡支局で、KS専務からこう言われた。
 「なんでもいいから社に対する要望があれば言ってくれ」
 「特にないです」
 「ではお願いだが、東京本社の社長室直属として本紙の普及向上とキャンペーンを展開できる部署を置きたい。責任者として来てくれるか?」
 私は出世なんか考えていないので次のように断った。
 「私は警察官になれなかったので、カメラマンになって正義を追及してきました。ところが途中で警視総監から警視庁専属記者になればと提案をいただき、その勉強のため、ここ清水で二月から第一歩を踏み出したばかりです。折角ですがお断りします」
 KS専務の顔色が変わった。激怒されるものと覚悟した。しかし小島専務は笑っている。
 「君は変人だね。目的があるなら自由にしなさい。頑張るんだぞ」
 その後、鹿内社長には「変人」と報告されてしまった。
□    □
 新聞記者の第一歩の通信部記者は二年十か月で卒業し、昭和六十年十二月に私は社会部に異動になり、警視庁捜査一課、三課担当と兼務で上野署に拠点を置く第六方面担当記者となった。
 暮れも押し詰まった十二月十五日付という異例の人事で、着任した約二週間後の三十日深夜、大田区蒲田で、コンビニの万引犯を追ったアルバイトの大学生が路上で犯人に刺し殺される事件が発生した。
 発生は第二方面だが、捜査一課を兼務しているため上野から臨場した。捜査一課担当の三人のなかで担当になったばかりの〝新人〟でもあり、捜査でいうなら基本となる現場周辺の聞き込みを担当させられた。
 駅周辺の繁華街で人の流れを見ていたら、商店街の通りで警察犬を連れた警視庁の鑑識課員と鉢合わせした。
 周辺を見ると複数の鑑識課員が懐中電灯で路上を探しまわっている。一定の距離を置いて私も路上に這い蹲って何かを探した。
 商店街から鑑識課員の姿が消えた。それでも私は這い蹲って「何か」を探し続けた。「スッポンの小野」の意地だった。
 路上に両手を付きながら十㍍ぐらい進んだと思うが、白墨で円を描いてあるのを発見した。それが数メートル置きに点々と一方向に向かっている。良くみるとそれは血痕だった。
 辿って行くと二階建てのアパートの外階段を調べている鑑識課員がいた。私は近くにあった茂みに身を隠しながら、課員たちの会話が聞こえるところまで近づいた。
 「二号室のドアノブからもルミノール反応が出た。あとは、血液型の照合結果を待つしかないな」
 血痕が、発生現場の方向から点々と続き、行き着いたところのルミ反を確認するとなれば、この事件の関係者に間違いない――と判断した。東の空が白々となっていた。
 鑑識が終わり、表札を見ようとしたが、私服の刑事が張り込んでいたので近づけなかった。
 結局、その部屋の男がアルバイト学生を殺した犯人で、三十一日夕方逮捕されて発表になった。
 犯人を割り出していたので、夕刊があれば特ダネになったのに……紙面は朝刊のみの正月態勢に入っていたので叶わなかった。

   我が人生最大の危機
 その後、私は昭和六十三年の九月、捜査一、三課担当を卒業した。
 警視庁キャップは社会部の次長職なので、修行のため再び支局に出たのである。原稿を書くというよりは、人の使い方など中堅幹部としての勉強のためだった。
 配置された支局は、通信部時代に経験のある静岡支局。気心知れた通信部のベテラン記者とも楽しく仕事ができて、いよいよ最終コーナーに入るはずだった。
 ところが平成四年四月八日、心臓に強い痛みを感じて、救急車で静岡市立市民病院(現在は静岡病院)に収容された。
 同病院は心臓血管で有名な病院。救急車で収容されると同時に、着ていた背広は上下とも無惨にもハサミで切られて診察台へ。診断結果は心筋梗塞だった。
 この病気にならなければ、スムーズに次のステップである本社の社会部に異動できたのに、残念ながら二年後の平成六年二月まで延びてしまった。しかも、異動先は本社社会部でなく、多摩(立川)支局だった。次長としての赴任。大手町の本社で編集局を掌握していたのは、SY編集局長。私が「辞めてしまえ」と言ったその人をボスとして仰ぎ見ることになってしまった。人生って何があるか分からないものである。
 この年の六月二十七日に、松本サリン事件が発生。明けて七年一月十七日には阪神・淡路大震災。そして三月二十日に、十一人が死亡、約五千人が負傷した地下鉄サリン事件。三月三十日には、日本犯罪史上前代未聞の国松孝次警察庁長官が銃弾を浴びて重傷を負った狙撃事件など、重大事件が続発した。
 それだけでは終わらなかった。五月十六日には、警視庁がオウム真理教の麻原彰晃を逮捕。七月三十日には、東京・八王子市のスーパーで女性三人が殺されるというけん銃使用の殺人事件が発生するなど、まさに激動の年だった。
 重大事案が目白押しの慌ただしい日々。東京・多摩地区をカバーする支局デスクとして、日々の紙面づくりに力を傾けるほか、若い記者に対しては事件取材の指導を積極的に行った。さらに夕刊のデスクローテーション
にも組み込まれていたので、定期的に大手町本社の社会部での業務もこなさなければならなかった。
 その緊張度が私の体に少なからずの影響を与えた、そして心労の結果、十二月十二日夕方、本社社会部で仕事中に胸が苦しくなり、部下の記者に付き添われて日大病院に収容された。
 この時、私は夕刊ローテーション以外に、正月紙面の別刷りの編集を担当していたこともあり、代役では分からない部分もあることから、入院十日目で医師の反対を押し切り、強引に退院してしまった。
 この入、退院が、私の体に大きな傷となって残り、私の人生を大きく変える結果に結びつくことなどは想像もしていなかった。
 警視庁をはじめ全国の警察がオウム真理教の摘発に乗り出し、特に警視庁クラブは連日、報道合戦が続いていた。
 正月紙面も無事に掲載。明けて一月に入ると、M社会部長から内々に内示を受けた。
 「二月から警視庁キャップをやってもらうことになった。欲しい人材を含めて考えておくように」
 長かった。憧れの警察官を諦めて新聞社に入って二十七年。土田警視総監の提案から十二年近くも経っていた。年齢は二月十三日で五十一歳になるのである。正式な内示の前の内示でも心が躍った。なにか自然に鼻歌が出た。
 そして二十一日、M部長から神田の肉料理店に誘われて、しゃぶしゃぶをご馳走になりながら正式な内示を口頭で伝えられた。
 自宅に帰ったのは午後九時を僅かに過ぎていた。ところが一時間もすると背中が苦しくなり、寝ることもできないほどの激痛がはしった。
 この時の私は東京・武蔵野市の境南町に住んでおり、自宅近くの内科医にやっとのことで駆け込んだ。
 「よく我慢しましたねえ…心筋梗塞ですよ。しかも重いですよ。私の知っている循環器のドクターが、本日は武蔵野日赤で当直をしているので、至急行ってください」
 そこからさほど遠くない武蔵野日本赤十字病院に行って診てもらうと、内科医の言うとおり心筋梗塞。即カテーテル治療となり、午後十時半過ぎから始まった治療が終わったのは午前四時を回っていた。
 単なる心筋梗塞だから、カテーテルをすれば治療は完了するはずだと勝手に解釈。ICUから一般病室に移った術後四日目に、主治医に退院したいと申し出た。すでに警視庁キャップが内示されており、引き継ぎだけでなく担当記者を決めなければならないと焦っていた。
 医師は激怒した。
 「何を言っているんですか。あなたの心臓は三分の一が壊死しており、危険な状態です」
 そして聞かされた病状は、心筋梗塞でカテーテル治療をしようとしたが、なぜか血液がどろどろとなり、カテーテルをするとそこの血管が詰まり、その先に血液が流れないという。結局、三本の動脈のうち一本がだめになってしまった。
 「心臓の動きは現在、健康な人の三分の一以下です。だからちょっとでも負担をかけると心臓は異常を感じ、心室細動を起こして死に至る場合があります。それでもあなたは退院すると言うのですか?」
 この言葉を聞いて私は「ふざけるな。本人がいいと言っているのに、俺を束縛する気か。人の人生をなんだと思っているのか」と怒って、続けている点滴や心電図のコードを外そうとした。
これを見ていた看護士は主治医に連絡、その日から私はベッドにぐるぐる巻きに縛られてしまった。
 数日後、M部長が主治医に呼ばれて話し合いがもたれた。その結果、部長は「これは社の方針だ」と前置きして私にこう告げた。
 「入院は二月いっぱいかかるようだ。したがって警視庁キャップは他の記者にする人事を行う。当分の間、静養してくれ」
 全ての終わりを告げられた思いがした。
   日本の治安がぐらりと揺れた
 結局、退院したのは三月一日になってしまった。M部長の言葉で、人生を否定されたように沈み込んだ私は、自宅療養していても、全てが上の空。四日後の五日に出勤した。「自殺されては困る」と思ったらしく、妻が駅まで付いてきて、もの陰から私を見ていた。
 出社してM部長からこう告げられた。
 「警視庁キャップは、人事異動でS君に決め、すでに配置に着いている。警察庁をやってほしい」
 事件現場に生き甲斐を感じていた自分が警察行政を担当……。人生の全てが終わった気がした。
 しかし、その私に勇気と光を与えてくれた人がいた。
 警察庁長官室を挨拶で訪れた私に国松孝次長官はこう言った。
 「ここは現場ですよ。行政だけでなく事件も含めて警察に関するあらゆるものが経験できます」
 国松長官は、その前の年の平成七年三月三十一日、東京・足立の自宅マンションを出ようとした際に何者かに銃撃された。国松長官は腹部や下半身などに三発の銃弾を受け、背部や腹部の損傷に伴う出血性ショックにより一時は意識不明の重体に陥ったが奇跡的に助かった。
 その国松長官が、事件からまだ一年も経っていないのに、椅子から立ち上がって笑顔と握手で迎えてくれた。
 「私は医師に命を救ってもらった。だから医師には感謝しないと……」
 国松長官のこの言葉に私は大きな反省をしなければならなかった。私は逆に退院させてくれない医師を恨むなど、医師に対する感謝の念もない自己中心の自分に恥ずかしさを感じたのだ。以来、私は国松長官を〝人生の師〟と仰ぐようになった。
 じつは、国松長官銃撃事件で私は大失態をしてしまった。平成八年十月十五日に次のような告発文が各社宛に届いた。
 「国松長官狙撃事件の犯人がオーム信者の警視庁警察官であることや本人が犯行を自供しているが、警視庁と警察庁最高幹部の命令で捜査が凍結されていることをお知らせします……当庁と警察庁最高幹部からの圧力で不満分子の虚言とされそうですが……警察全体に対する轟々たる避難や長官、次長、警務局長……警察は真実を隠蔽している……家族を抱えた一警察官の身では卑怯ですが匿名に……以下略」(原文から抜粋)
 警察庁担当記者になってから半年が過ぎていたが、特別に取材できる親しい人材も持っていないので、セオリー通りの確認作業をした。
 同事件を担当している警備局公安三課長、警備局審議官、警備局長に当たるが事実は確認できなかった。失礼な話しだと思ったが国松長官本人にも直当たりしたが結果は同じだった。当然、各社も記事にはしなかった。ところが同じような内容の文章が九日後の二十四日にも届いた。
 二度も同じ内容の告発文が届いたことから判断に困った社会部デスクから厳しい言葉を浴びせられた。
 「文章を良く読んでいるんですか?長官をはじめ次長、警務局長、人事課長から警視庁の総監や人事担当課長など、事件に関連する役職名まで詳しく書いてありますよね。ここまでくれば捜査関係者からの内部告発とみるべきではないですか?」
 私より若いためか静かな口調だが私は反論した。
 「文章を良く読んでみなよ。犯人はオーム信者と書いてあるが、正確にはオウムだよ。それに警察庁の幹部役職のひとつに警務局長とあるよねえ。昭和の時代はそう呼んでいたが今はそんな呼び方の役職はないんです。官房長です。そんな部分があるので、今ひとつ信用できないんだよなぁ~」
 こうして二度目もこの告発文の掲載を見送ることにした。
 二十五日午前一時十五分に共同通信が「特ダネ」として配信し、産経だけでなく朝日、毎日、読売、日経、東京など全紙が共同電で記事にしてしまった。
 長官銃撃事件から約一年半。我が国の治安機関のトップを銃撃した犯人が、身内の現職警察官による犯行だったとするニュースは全国民に衝撃を与えた。共同通信が確認をとったのは警察庁なのか警視庁なのかは分からなかったがカメラマンから記事を書く記者になって初めて受けた屈辱だった。
 私は、「記者はその時、現場にいなくても後で話しを聞けば誰でも書ける」と軽くみていた。逆にカメラマンは現場にいなければ撮影できないという報道マンとして一種の誇りを持っていた。
 しかし、この事件を通して私は「記者とは書くとか書かないという問題ではなく記事にするかできないかの力量が問われる」であることを教えられ、記者活動の奥行きの深さを痛感させられた。
 この事犯は、オウム真理教の信者だったK巡査長が自ら長官銃撃事件の実行犯と供述したもの。確証を得られなかった警視庁は、警察庁にも報告していなかった。それが明るみになったことから警視庁の公安部長が更迭になったほか警視総監も辞職している。国松長官が退官したのはその翌年の平成九年三月。次長だった関口祐弘さんが長官に就任した。
 関口長官が誕生して二年後の平成十一年三月二十三日、警察庁を担当して初めて経験する大事件があった。北朝鮮の不審船が能登半島沖を航行中に発見されたというのだ。カメラマンなら当然、現場行きで闘志がわいたはずだ。ところが何故か身も心も動かない。
 実はこの事件は前日の二十二日から海上保安庁や防衛庁が「日本海で不審な電波が発信されている」として極秘で動きだし、警察庁も日本海側の各県警察本部に警戒の強化を指示していた。
 それが二十三日になって不審な電波を発信している漁船を発見。その漁船が北朝鮮の船と分かった政府は、官邸に対策室を設置すると同時に海上自衛隊の護衛艦「はるな」や「あぶくま」などが出動。威嚇射撃をするなどして追跡していた。
 私は二十三日夕方になって記者クラブ内のテレビ各社の動きが慌ただしくなっているのに気が付いた。慌てて警察庁内を回り、能登半島沖の不審船での動きであると気付いた。本社内ではこのニュースをどこまで把握しているかさえ無頓着だった。
 (警察は陸地を担当しており、騒いでいるのは海だ。うち(警察庁)には関係ないな…)
 「燃えない」ことは自然に浅はかな行動につながる。警察庁幹部と港区麻布にある小料理屋で会食をしていた。ところが、ある時点で、その幹部に耳打ちした職員がいた。聞き耳をたてると「うん」「うん」と頷いていた幹部から次のような言葉が発せられた。
 「……国内にいる工作員を引きあげるために来たと言うのか……」
 耳打ちはさらに続いた。そして幹部が最後に職員にこう言った。
 「……無線連絡から……分かった?」
 幹部は何事もなかったように会食を終えて引き揚げて行った。どうしても気になるので私は記者クラブに引き揚げて、長官官房の幹部に確認すると、あの耳打ちは能登半島沖で海上自衛隊が追跡している北朝鮮の船に関することだと分かった。全国の警察も警戒態勢に入っているという。
 北朝鮮の不審船――朝鮮と言えば日本国内での工作員の暗躍――今回の目的はその「工作員の引きあげ」……
 ようやく理解できた。「北朝鮮の不審船の目的は日本国内にいる工作員を引きあげるためだった」となれば、まさに警察の公安がマターだ。
 「己の情けなさ」を知って愕然とした。国松さんの言った「ここは現場です」の言葉を忘れていたのだ。こうなれば、一本建ての記事になるが今回ばかりは〝盗み聞き〟というネタの取り方が普段とは違うため、「参考情報」として社会部のデスクに連絡した。
 ところが翌日、記者クラブに出勤すると、紺の背広姿の二人の男が私のデスク席に座っており、私の姿を見るなり立ち上がった。
 「産経の小野さんですね」
 呆気にとられている私の両腕を取り、耳元で囁くようにこう言った。
 「同行願います」
 まるで私は犯人として任意同行されるような状況だった。半分は冗談だと思っていたが、それにしても心当たりがないので静かに尋ねてみた。
 「あなた方は誰ですか?容疑はなんですか?」
 誰にも気付かれずにクラブを出たところで一人の男が耳打ちするように言った。
 「し~っ。お静かに……うちの警備局長が呼んでいますので来て頂きたいのです」
 周囲に人影がないのを確認すると二人は私の両腕を離して敬礼をしながら言った。
 「大変申し訳ありませんでした。驚きましたか?」
 驚いたのはあたりまえだが、三人で大笑いとなった。
 「俺、心臓が悪いのでこんな事、止めてくれない。来てくれと言われれば自分から行くから……」
 この段階で警備局から呼ばれるとすれば思いあたるのは不審船のことだった。しかし、見出しもとっていないうえに、政府や海上保安庁などの慌ただしい動きの中にそれとなく入れ込んだので問題にならないと思っていた。
 警備局長とは日頃から懇意な間柄にあり、「小言でも聞くか」と、それほど深刻には受け止めていなかった。局長室に入るなり想像通り笑顔で迎えてくれた。怒るのにも怒れない私も笑顔で言った。
 「驚きましたよ。なにか問題になるような事をしましたっけ?」
 局長は二人の局員に目をやりながら「本当にやっちゃったのか?」と笑った。
 「たいした事ないんですが、今朝の北朝鮮の不審船の記事のなかに『不審船の目的は日本国内にいる工作員を引き揚げるためだった』と書いてありますよね。実はあれは傍受した無線の内容なんですよ。あんな情報が漏れるようでは、うちの幹部に報告もできなくなる。悪いけど、今後、書くときは特に警備ネタは私に通告してくれないかな」
 「私のネタとなんで決めつけるのですか? 政府筋だったあるでしょう」
 「貴方が動いていたことは分かっているのですよ」
 そこまで知られているのでは謝罪しなければならなかったが、私の心境を察してくれたのか局長は、北朝鮮工作員の日本への上陸のしかたや国内での動きなど古い話をしてくれた。結局はお土産まで貰って帰ったのだった。
 □    □ 
 「今、時事通信の独自ネタ(特ダネ)を流しました。横浜(総局)でも確認をとっていますが、サッチョウ(警察庁)でも確認してください。とれた段階で夕刊から入れます」
 警察庁記者クラブの産経に社会部から電話が入ったのは平成十一年九月二日午前十時四十分だった。
 流されてきた記事の内容は、神奈川県警厚木署集団警ら隊の分隊長らが今年三月、静岡や千葉県警に応援派遣された際に、複数の隊員に暴行を加えてけが人まで出したというのだ。拳銃を眉間にあてたり、隊員に手錠かけたり、陰毛を燃やすなど計七回も行われたという。
 このため県警は七人の関係者を停職三カ月などの懲戒処分にしたとして、事件のあった日時と場所、具体的な行為まで書かれていた。
 K巡査長のような過ちを二度としてはならない――そう思った私は、この原稿を手に長官官房のY総務審議官のところに確認に走った。この出来事が、やがて日本警察を揺るがせ、〝治安の危機〟を招く、まさに引き金になるとは思いもよらずに……。
 この時、警察庁は戦後建てられた五階建ての人事院ビルにあった。平成十三年の省庁再編成で、同敷地に二十一階建ての高層ビルが建てられることになっており、人事院は引っ越して警察庁だけが残っていた。
 Y審議官室は記者クラブと同じ二階で、アポなしだったが会うことができた。
 「かなり具体的ですね。神奈川ではなんと言ってるんですか?うち(警察庁)に報告がきているかいないかを調べてデスク席に連絡します」
 約十分後に回答があった。
 「うちには(報告が)きていませんでした。神奈川にはきちっと対応するよう指示を出しています」
 私は、夕刊から使用しても良いと判断してその旨を社会部に伝えた。しかし、神奈川県警は否定するばかりで記者会見もしなかった。結局は、K巡査長と同じように全紙が夕刊から掲載した。
 そして四日、やはり時事通信が「現職警察官が証拠品持ち出し」の独自ネタを出稿した。相模原南署の巡査長が平成十年十一月に暴力団組員の自宅から押収した証拠品のネガフィルムを持ち出したという事件。フィルムには女子大生が写っており、本人にネガフィルムの買い取りや交際を迫ったというもので、元巡査長は懲戒免職処分になったが発表しなかった。
 この事件も同じように特ダネとして配信されたものだ。例の如くファクシミリで時事電を受け取った私は目眩を感じた。
 「なんでこうも抜かれるのか……直接事件を担当する県警担当の責任なのか?それとも事件報告を受けた警察庁で情報が取れなかったのか……」
 しばし呆然と立ちつくした。記者クラブの産経ブースの隣のNHKやテレビ朝日など数社からは電話で確認しているのか怒号が聞こえてくる。
 「警察庁担当記者って各都道府県警の警察担当記者の確認作業班なのか…」
 一人で悩んだすえに、その日の夜、警察庁を十五年以上も担当している朝日新聞のB編集委員と築地の居酒屋で一杯飲んだ。その時、彼から教えられたことが以後の私の警察庁担当記者のスタンスとなった。
 「サッチョウ担当はどん欲にネタ探しをするのではなく、警察運営に対しての意見も述べることができるようしっかりした持論を持つことだ。勿論、事件の組み立ても必要になってくる」
 この時、私は五十三歳。孔子の論語を思い出した。
 「三十にして立ち、四十にして迷わず、五十にして天命を知る」
 私は、カメラマンから記者に方向転換したのはまさに三十歳。そして今は五十三歳、B編集委員の言葉は私の心にぐさりと刺さった。天命を貰ったようなものだった。以来、私はB編集委員を「ボーさん」と呼ぶことにした。国松さんも長官時代は「ボーさん」と呼び、関口長官は「ボーちゃん」と呼んでいる。ボーさんは最後にこう言った。
 「君のことは色々と聞いているよ。狙ったら離さないそうじゃないか。君が国松さんに挨拶したその日のうちにある幹部が心配していることを聞いた。庁内をひっかき回すんじゃないかとね……」
 「えっ!」私は絶句した。人間の看板とは恐ろしいものだ。一部の看板だけが一人歩きをして全てを判断される場合がある。
 「ボーさんはどうみていますか?私は先輩から聞いていることもあってクラブに入会して三年になりますが、そんな事はしていませんよ……」
 警察庁担当記者には各社ともベテラン記者を配置しており、産経はFさん並に事件には強かった大ベテランのSMさんが担当していた。定年後もクラブに在籍していたことは各社の間でも話題になっている。それに比べれば、私はカメラマン時代の十四年を除けば記者歴はたったの十五年程度の若僧なのだ。
 「警察庁担当記者の心得としてSM君からはどう教わっているのか」
 「あまり意味が分からないのですが、『大蔵省は金で持ち、警察庁は人事で持つ』と…」
 ボーさんの顔が緩んだ。
 「新聞記者だけに通用する古い言葉だが、金の流れを掴むのが大蔵担当記者。警察庁担当記者は四十七都道府県の人事を掌握することだという意味があるんだ。それぐらい分かっていれば充分。くれぐれも草刈り場にはしてほしくないのだ。サッチョウは県警の〝探偵〟とは違うんだから……どっしり構えていな」
 やんわりだが、私を牽制するに十分な言葉だった。
       
 それから四、五日後に産経のデスク席に電話が入った。
 「ちょっとご足労を…」
 いつもの通り聞き慣れた関口長官の言葉だ。長官とはボーさんとともに休日に麻雀台を囲むなどしてふところに飛び込んでお互いの心を分かり合うなどの人間関係が構築されている。
 秘書官の案内で長官室に入るとソファに座り、タバコを吸っていた関口長官から次のような乱暴な言葉が飛び出した。
 「いや~今回の件で俺は頭にきているんだよ。Mのやつ、あんなことしやがって……」
 関口長官と言えば、気丈で豪快な人格として政界でも話題になっていた。国松長官が銃撃されたとき、次長だった彼は幹部を集めて「怯むんじゃない」と一喝した。幹部が防弾チョッキを着てトイレに行くなど警察全体が怯えていたことに対する「喝」だ。その長官が今、落ち込んでいる。
 Mとは神奈川県警のMT本部長だ。
 「あいつと俺は府警(大阪)で一緒だったんだ。馬鹿が付くほど正直者でさあ。警務部長なんか難なくこなしていたんだよ。ただ、ちょっとハンドルさばきが固い部分があったがね…」
 話す顔が歪んでいる。またタバコに火をつけた。ヘビースモーカーとして知られ、決済のときに困っている幹部さえいる。
 「時事が書いたあの日、審議官から聞かされてびっくりした。こちらに報告もきていないし、ひさしぶりに大声をだしてしまったよ」
 関口長官はさらに続けた。
 「このままで県議会はもつかなあ~」
 私は神奈川県議会の会派議員構成は知らなかったので、こう答えるしかなかった。
 「自民党が与党であっても相当厳しいのではないでしょうか……」
 そして関口長官は続けた。
 「お願いだから〝隠蔽〟とは書かないでやってほしいんだよ。元々はあいつが事件当時にはいなかったんだから……」
 さらに続けた。
 「記者会見を見ていると記者の質問には隣りに座っている部長などから耳打ちを受けている。あれでは〝あやつり人形だ〟。本部長としてみっともない行為だ。いずれにせよ辞めさせるしかないだろうけど…あとはタイミングだな…」
 言葉はきついが、M本部長を思いやるキャリア同士の深い繋がりを感じた。私は返事に困った。
 「私の言うことではありませんが、二つの事件を再検証して国民の前に真実を明らかにするという責任がある以上、辞めさせるだけが責任をとる事だとは思いませんが…」
 そして九月十六日に開会した県議会九月定例会の冒頭で、M本部長は引責辞任の意向を明らかにし、さらに十月一日には、事件当時の幹部を新たに処分したほか、二つの事件でそれぞれ警察官を新たに逮捕。M本部長は辞任した。
 ところが神奈川県警の不祥事は、これだけでは終わらなかった。
 今度は、外事課の警部補が生活安全部の押収した覚醒剤を持ち出し、ホステスと使用したというもの。平成八年十二月に尿検査が「陽性」と出たにもかかわらず、「陰性」として警務部、警備部、生活安全部の幹部らがもみ消し工作をしていたのだ。またも時事通信の特ダネだった。
 この事件では平成十一年の十二月に入って当時の県警本部長が犯人隠避容疑などで書類送検されたほか、関係した部の現職幹部六人が更迭された。しかも、あろうことか同じくその日に、現職警察官が女性警察官に対する恐喝未遂事件が明らかになった。
 県警本部長の犯罪関与は警察史上初めてで、日本警察は最大の危機を迎えたと報じるマスコミもあった。
 いずれにせよ、ほぼ全マスコミによる連日のバッシング報道に、私自身がマスコミ人でありながらも居た堪らなくなった。
 神奈川県警に入りたくて数年間も頑張った。もし昭和四十三年に合格していれば、今ごろは五十五歳。拝命して三十一年だから少なくても巡査部長か警部補にはなっていた。一本気な自分の性格からいって、こんな事実を知れば、正義を盾に何をしたか分からなかったであろう……と思うと複雑な気持ちになった。
 関口長官は開けて平成十二年一月十一日に辞任した。一月六日朝、NHKテレビに「引責辞任」と報道された。その日の午前十時ごろ、やはり電話で「ご足労を」と言われて長官室に向かった。小雪がちらつく寒い日だった。途中の廊下は建物が古いためガラス窓から寒風だけでなく、雪も吹き込み廊下の所々が白くなっている。
 「やられたよ。俺の負けだ。言っておくが引責辞任ではないことを分かってほしい。俺はトップとしてけじめをつけたいんだ」
 「日本警察をどう生まれ変わらせるか」の警察改革案はすでにできていた。それだけに無念なのだろうか目が潤んでいる。「怯むな」のあの意気込みは微塵もなかった。
 関口長官が最も嫌っていたのは〝マスコミ辞令〟だ。麻布の旅館で共にジャン卓を囲み、人生を語り合った雑談では、長官としての身の引き方などが話題になったこともあった。産経新聞の行事にも出席して頂いただけに私も目頭が熱くなった。
 こうして改革は次長から昇格した田中節夫長官に引き継がれた。
 「これまでの改革案は塩漬けにして新たな改革案を示す」
 田中新長官は日本警察の威信をかけた改革の決意を語った。
 新体制になって四、五日が過ぎた一月中旬ごろだった。スイス大使になっていた国松さんが帰国して会食することになった。私と朝日のボーさんが千代田区内幸町の帝国ホテル内の料亭でお会いした。そして国松さんはこう切り出した。
 「日本警察はこんなものではなかった。警察という本来の姿を見失っているのではないかと思うんですよ。どう立て直すかだが、今度就任した田中君はバランスもとれており、期待してもよいと思っている。日本警察再生のためどうか温かい目で見守ってやってほしい」
 警察官OBとして黙って見ていられなかったのだろうか……ボーさんと二人で国松さんの警察に対する思いやりの深さを実感させられた。
 ところが、運命の悪戯なのか、後任の田中長官になって再び、日本の警察を震撼させる出来事が起きた。
 新潟県柏崎市で九年前に行方不明になった女性(一九)が監禁されていた事件で虚偽発表をしたのだ。
 息子の暴力のため家庭訪問している保健所職員から柏崎署に「身元不明の女性がいる」と連絡があったが、「そんな事までおしつけないでくれ。住所、氏名を聞けばいいだろう」と応じなかった。
 だが県警の発表では「病院で男が暴れているとの通報があり、警察官が臨場したところ、一緒にいた女性が行方不明の女性であると分かり保護した」というものだった。
 この不祥事に続いてさらに不名誉なことが明らかになる。
 その監禁事件当日の夜、県警本部長と関東管区警察局長が新潟市から約三十㌔離れた三川村の温泉で麻雀をしていたというのだ。なんと管区局長は新潟県警に監察にきていたのだった。
 これら一連の不祥事で就任したばかりの田中長官がわずか三カ月後の三月二日に開かれた国家公安委員会で減給という懲戒処分を受けた。管区局長、県警本部長という警察幹部の不祥事で監督責任が問われたものだが警察庁長官が処分を受けたのは初めてだった。
 このころ国会では、地方行政委員会などで野党による警察不祥事の追及が活発になっていた。三月八日の午後に小渕恵三首相と民主党の鳩山由紀夫代表の党首討論が行われ、鳩山代表が「うそつきは警官の始まり」という造語を使い、国家公安委員長の罷免を要求した。
 この場面はテレビで全国中継されており、警察組織に与えた衝撃は大きく、日本の治安がぐらりと揺らいだ瞬間だった。
 「警察組織には代役がない」と日本の治安の行く末を案じた私は、国松さんに「警察再生のため」の指針を示してほしいと特別寄稿を依頼した。
 それは「日本警察を救うために」と題し、打たれた見出しは「国民の安全を守る組織目指し、気概と誇りを持つ警察官を育てよ」と言うものだった。
 特別寄稿の中で国松さんは次のような見解を示した。
 「警察制度全般に何らかの欠陥がある。警察はこうした不祥事を契機として批判には真摯に答え、建設的な方向で物事を検討していくことが必要だ」
 さらに続けた。
 「警察に代役はありません。法執行をはじめ、幅広い活動を通じて、国民の安全を護る護民官警察を目指すべきである」
 そしてこう結んだ。
 「国民の皆さんには、どうかより良い警察を目指して建設的なご意見をお寄せいただきたい」
 國松さんの意見記事は新聞一ページを使って掲載した。かつて私が担当していた警視庁捜査一課、三課の刑事達や六方面を担当していたころの交番の警察官。さらに静岡県の清水通信部時代に担当していた清水署や蒲原署。それに静岡県警の時の刑事部の友人などから電話やはがきをいただいた。
 「一時は辞めようかと思ったが、これで勇気が出た」
 「全然、捜査にならないが国民の信頼を得られるまで頑張る」
 「国松さんの様な人から学校で教えて貰いたかった」
 中には厳しい意見もあった。
 「キャリアの県警本部長にも個人差があって闘志が湧かない。なんとかしてほしい」
 ところが、じつはこの直後から警察に激震が走った。それは信頼が揺らいでいた日本警察への決定打といっても過言ではなかった。
 新潟県警の不祥事は国会の場に持ち込まれたが、その参院予算委員会で民主党の議員から、平成十一年十月二十六日に埼玉県上尾市で発生した女子大生殺人事件は、相談を受けた警察が対応しなかったための事件だとして長官に事実の解明を迫った。
 「事件発生の四カ月前に、被害者とその母親が上尾署を訪れて、女子大生の元交際相手から何度も脅迫電話があり、自宅に押しかけられたり、自宅周辺では誹謗中傷のビラをまかれているので助けてほしいという相談をしたのに、警察はなにもしてくれなかった」
 この議員の追及に端を発して、国会は予算委員会ばかりでなく地方行政委員会や法務委員会など各委員会で、一斉に警察に対する責任追及が始まった。
 田中長官は一日に百回も答弁に立つなど一カ月で五㌔も痩せてしまった。長官室には極秘で医師や看護師が待機し、国会から長官が警察庁に戻ると点滴を打っていたのである。
 長官だけではなかった。佐藤英彦次長も心労から救急車で病院に運ばれた。退院すると今度は林則清刑事局長も病院に収容されるなど、幹部がバタバタと倒れた。
 一方、治安は悪化の一途を辿った。
 神奈川県警は不祥事以降、「職務質問ができない」「交通取締ができない」「捜査で情報が得られない」状態が続き、新潟県警の不祥事でそれは全国の警察に拡大した。浴びせられた罵声は警察官の家族にまで衝撃を与えた。
 「おい! 税金泥棒! 税金返せ! こんなつまらないことばかりしやがって」……。
 ところが、その裏側では日本の治安の根幹にかかわる重大事案が刻々と進んでいたことを国民は知る由もなかった。
 それはテロの危険性だった。レバノンに拘束されていた日本赤軍を釈放するというのだ。二月中旬ごろだったと思う。警備局長が国会対応で不在が続いていたある日、警備局審議官が私にこう言った。
 「レバノン政府が身柄拘束していた(日本)赤軍を釈放するっていうんだよ。身柄の引き渡しを要求したのだが、拒否されてしまった…」
 初めて聞く大ニュースに、私は鳥肌がたった。審議官は続けた。
 「釈放されるメンバーがメンバーなので、七月二十一日の沖縄サミットを控えてテロが心配される…」
 日本では、初めて地方で開催される主要国首脳会議だが、沖縄は在日米軍基地があり、テロの対象とされやすいのだ。話している審議官は、私が警察庁担当になった平成八年以来、色々な場面で協力してきたし相談も受けた。その審議官はやつれて覇気がない。
 「たしか、岡本(公三)とか足立(正生)とか戸平(和夫)などが残っていましたよね」
 「そう、なにしろテルアビブ空港乱射事件を引き起こしたほか、スウェーデン大使館占拠など重大事件の犯人ばかりなんだよ。こうなれば警備を全部見直さなくてならなくなる。決済をとろうにも長官がいないしなあ…頭が痛いよ」
 「テロの危険性は大きいんですか?」
 「当然だよ。レバノン政府は第三国への国外退去処分にするから勝手に捕まえろと言うんだ。犯罪人引き渡し条約もないし…そればかりか、サミットに備えて収集している情報に危険なものがあるんだ。展開次第では国が転覆してしまう……」
 「赤軍の動きですか? 教えて下さいよ」
 「それは勘弁してくれ。まだ上にも(情報を)上げていないんだ」
 私はこれ以上聞くのを止めた。二人の間に沈黙が続いた後、審議官が言った。
 「国会は長官や官房長に任せて、うちの局長(警備局長)はここで仕事をするわけにはいかないのかね…」
 「そうですね……関口顧問(関口祐弘長官)も同じ事を仰っていました。直接言えばよいのに…」
 「いや長官職を離れたら現長官を指揮するような言い方はできないことになっているので貴方に頼んだと思いますよ」
 「そうですか……しかし、長官側に何かがあるらしく、夜は私たちマスコミも会えない状態が続いているんです」
 二人の間にさらに沈黙が続いた。そして私はこう言って席を立った。
 「分かりました。長官官房の誰かにそれとなく伝わるよう考えてみます」
 「なんとかしてほしい。それにこの件は書かないでくれないか…その借りはいつか返すから…」
 新聞記者は特ダネに生きるのだから「聞いたらすぐ書け」という先輩が多い。私が捜査一課を担当しているころ、その問題で大議論を交わしたことがあった。私は一歩も譲らなかった。記事も大事だが、記者で大事なのは信頼関係だからだ。
 事件現場報道の「切った!張った!」のネタ取りに比べて、キャリア警察官との関係はそれが大事だった。多くの情報源はその記者個人の財産になり、事件の仕事を続ける限り、それは付いてまわる。そう言えば土田さんもキャリア警察官だった。その土田さんとFさんとの関係に私は心酔しているのだ。
 五階の警備審議官室を出た私は、その足で二階の総務審議官室に向かった。廊下と階段で何人もの職員と出会った。すれ違うどの職員もみんな下を向きながら歩く元気のなさに私までも暗くなってしまった。
 総務審議官も不在だったが、なぜか数日後から警備も含めて局長クラスが在庁することになった。「警視庁から苦情が出たのではないか」と言う幹部さえいる。
 平成十二年に入ると、ピッキングという特殊な工具を使った中国人による侵入盗が一万件を超え、貴金属店の壁に穴をあけて侵入し陳列ケースから商品をごっそり盗むなど「人殺し以外はなんでもする」と言われた爆窃団による犯行が全国各地で続発。住宅街ではイラン人組織による覚醒剤密売が横行。中国人マフィアが密入国し、日本の暴力団を手足に使って地方の資産家を狙う緊迫強盗が多発。東京都内では過去最悪と言われるほどの「ひったくり事件」が相次いだ。
 このほか、五月三日には福岡県の九州自動車道のインターで十七歳の少年による西鉄の高速バスジャック事件。六月に入ると中国人の集団密航事件が続発した。
 さらに、強盗や殺人などの凶悪犯や窃盗犯などの刑法犯の全国認知件数は平成十年が二百三万三千件だったが、十一年には十万件も増えて二百十六万五千件、十二年には一気に三十万件増加し二百四十四万三千件になるなど数十万件単位で増え続けた。
 二十二万六千人の警察官は発生処理に追われて余罪の追及もできないため検挙率が減少。「世界一安全な国」と言われた日本の神話は崩壊してしまった。
 もともと私が命をかけようとしていた警察組織。それがこんなにガタガタになってしまった。その原稿を私が書いている。時には厳しい批判記事もあるが、胸の内には警察を救わなければならないことばかりが強かった複雑な日々が続いた。時には余りにも媚びる原稿を書いてボツ(不掲載)にされたこともあった。
  日本警察再生への道
 四月に入ってからだった。久しぶりに田中長官室に入った。かなりスマートになっていた。田中長官はソファに座るなり私にこう切り出した。
 「こんな状態になって第一線の警察官らは何を考えて仕事をしているのかと思うと夜も寝られないんだよ。それで、俺が一線の警察署を回ってみようと思ってるんだが、どうだろうか」
 記者クラブでは朝日新聞のポーさんと私が年長なので長官だけでなく、各局長などからも相談を受けることが多かった。
 「それは素晴らしいことですが初めての試みなので現場では戸惑いもあるでしょうね。カチンカチンになるか、本部長は想定問答集をつくるんじゃないですか…そうすると本音が分からないのではないでしょうか」
 警察という階級社会のなかでトップの警察庁長官が、県警本部長を飛び越えて第一線の警察官から意見を聞くなんていう話しは過去に例がなかった。だから私はそう答えるしかなかった。暫く考えた後、田中長官が言った。
 「それじゃ意味がないんだよ。頼みがあるんだが、どこかの本部長にそれとなく打診してくれないかなあ……ボーさんにも頼んであるんだ」
 私は駆け引きなく話せる滋賀県警本部長に電話、田中長官の胸の内を伝えると「この情勢に嫌がる本部長はいないと思いますよ」の回答を得た。
 その旨を伝えると、田中長官は即実行することとして埼玉県警が選ばれた。私は例のごとくその内容を記事にはしなかった。
 埼玉、千葉、福岡、奈良県警の所轄を回った田中長官は「懇談会の内容は秘密にすると警察官と約束してあるので勘弁してくれ」と前置きして、こう切り出した。
 「懇談会では二十代から五十代までいろんな意見が出された。その中のひとつだけど、失った信頼を早く取り戻して魅力ある警察にしてほしいという意見が出された。具体的には若者が憧れる警察組織にするために制服を変えるなど思い切った改革を望んでいる若い警察官もいた」
 お茶を持った秘書が入ってきたので一時、話が途切れたが、田中長官はさらに続けた。
 「まず警察手帳を変えてほしいというのだ。指紋から血液型などまで記した分厚い黒革なんてもう古いというんだよ。これには俺も納得できると思って定例会議で検討するよう言った。そうしたら偽物ができるなどと反対されちゃってね」
 「長官がおっしゃるのは、あの米国のFBIのように徽章が付いていて、相手にかざすとパカッと開いて写真が出てくるやつでしょう。若者が憧れそうですね」
 「そう思うでしょう。でも…」
 「分かりました。私に任せて下さい」
 そう言って長官室を出た。翌日から人事課長と総務課長など長官官房を回り、こう言った。
 「長官が警察手帳を変えようとしているのに、偽物がでるからと反対している幹部がいるそうですね」
 相手は怪訝な顔をしている。
 「今、警察は信頼回復と同時に国民に好かれる組織にしなければならないでしょう。手帳はその中のひとつで、第一線の若い警察官の意見だそうですよ。長官はむしろ偽物がでるぐらい人気が出ればいいんじゃないのかとおっしゃっていますが…」
 二人とも揃って返してきた言葉は次のようなものだった。
 「いや確かにあの時、反対意見も一部にはありました。でも、私は違いますから…むしろ積極派ですよ。それでこれを原稿にするんですか?」
 私が警視庁の捜査一課三課、さらに静岡県警などを担当したばかりかカメラマン時代から二十年ちかくは第一線の警察官との接点があった。だから私は第一線の警察官に勇気と希望を与えるような仕事をしたいのだ。
 「このまま潰されるようなら、これじゃ改革は無理だよと書こうと思っています」
 反対者に伝わることを祈って言ったのだが、少し厳しかったような気がした。ところが、この作戦が見事に成功。次の週の会議で合意できたと田中長官に血気が戻った。早速、試験品を作ることになった。
 二つ折りの革ケースを開くと上部に写真と名前、階級がかかれ、下部は警察の記章が入ったエンブレムになっている。縦開きと横開き、それに素材などいくつかの試作品が検討された。
 この年の秋に外観の色などを含めた数種の試作品が完成。警察庁と警視庁で展示して黒革性の現在の手帳が選択された。
 希望した警察官になれなかったものの、少しは関与できたという満足感あった。模造品が登場したのは二、三年後だった。
 第一線の警察官が事件発生の処理、警察庁キャリア幹部が国会対策に追われ、春の到来が待ち遠しかった二月中旬にレバノン政府が第三国に出国させると言っていたあの赤軍メンバーが、三月四日に無事移送されて逮捕できた。
 レバノン政府から国外追放されたのは岡本公三、足立正生、和光晴生、山本万里子と戸平和夫の各容疑者。このうち岡本容疑者は政治亡命だった。
 レバノン政府が第三国経由で日本に身柄を引き渡してきた背景には経済的支援を受けているため拒否できなかったのだという。身柄を確保できたことで警察庁はほっとした。
 こうした日本警察最大の危機を救ったのが、小渕恵三内閣だった。
 小渕首相は「警察にはまだ自浄能力はあるが、身内の問題でもあり、第三者機関を設立して再生したほうが国民の信頼を得られる」と判断して、民間人からなる「警察刷新会議」を設置。同会議は、平成十二年三月二十三日の第一回会議から七月五日まで十回の会議を開き、警察改革を提言した。
 提言の内容は、監察制度や公安委員会の権限強化。警察運営には警察署ごとに警察署協議会を設置して民間人の意見を取り入れるなど多岐に及んだ。そして、ストーカー行為による桶川女子大生殺人事件を痛ましい教訓として、十一月二十四日にはストーカー規制法も誕生した。
 提言は、外部からの規制に重点が置かれているため、警察内部の組織の立て直しも必要とし、管区警察局の監察制度の強化や警察手帳を変えるほか、制服警察官の所属などが一目で分かるようなプレートをつくり、制服の左胸につけるなどの改革も行うこととした。
 とはいえ、現実の数字は期待通りにはなかなか動かなかった。
 平成十三年の刑法犯認知件数が、前年より約三十万人増えて三百万件に迫り、検挙率は一九・八%と史上最悪の数字を記録した。
 警察庁は「緊急治安対策プログラム」を作成。全国の警察は田中長官からバトンを受けた佐藤英彦長官のもとで、十六年度を初年度に十八年度までの三年間を犯罪抑止に全力挙げることになった。
 神奈川県警に端を発した国民による警察バッシング――。
 一連の取材を通して私が感じたのは、「俺たちは犯罪を取り締まる警察官だ」というプロ意識が欠落していることに尽きる。
 本当に警察を愛し、一生を捧げるような人物の採用こそ大事なのでないかと……。
 警察への信頼がほとんど地に落ちていた平成十二年頃、私は再び日本警察の行く末を案じる事案が出できた。それは警察庁で親しくしていた人事課長との、ふとした会話の中でのことだった。
 「大変な事になってしまったよ。平成十六年から大量退職時代に突入するんだ。そうすると、二十六年までの十年間で二十二万警察官の半分が新人と入れ替わることになるんだ。それなのに誰も危機感を持っていない」
 課長の言葉に頭をガツンと殴られた思いがした。
 半分交代する新人警察官に、この国の治安が任されるのだろうか……。そう思っていると課長が言った。
 「この事実を書いて、人々に伝えてくれないかな」
 各県の警察本部とか所轄担当の記者は、仕事が終わった後の夜に一対一で話しを聞くため自宅を訪れる〝夜回り〟という習わしがある。しかし、警察庁のキャリアは夜回りという行為を一切、受け付けない。全て庁内での取材になる。だから「人対人」の信頼関係が大事になる。
 一も二もなく課長から資料を受け取って、私はすぐに記事を書いた。
 この危機感を国民が共有して、若い警察官に一層の奮起を期さなければならない――。記事は、翌朝の朝刊の一面扱いとなって大きく掲載された。
 そして長官室にし「警察官増員」を求める各県からの陳情団で行列ができるなどの現象も見られた。この結果、十六年度まで待つことなく十三年度から対策を講じることとした。
今、振り返れば、あこがれの警察官に、たった身長三㎝の差でなれなかった男の哀願にも似た記事だったと思う。
     
 こうして八年間にわたり警察庁を担当して、定年を迎えた。
 「警察官になる」の夢が潰えて、「警視庁キャップ」の最後の願いも叶わなかった。これで人生終わっていいのだろうか? 
 そう思った私に閃いた事は、「警視庁の交番相談員」だった。
 空き交番をなくするため警視庁は、定年退職した警察官を再雇用して交番に配置。地理案内などをする地域住民サービスの制度があった。
 (もしかしたら交番の前に立てるかも…)
 若かりし時のあの夢をせめて少しだけでも叶えてみたい。そう決心したが、公募はしていない。悩んでいると、警察庁の某幹部が私にこう言ってきた。
 「産経を定年退職しても、クラブには残れるのかな」
 待っていましたとばかり聞いてみた。
 「警視庁に交番相談員がありますね。あれは一般人ではだめですか?」
 「えっ、あんな仕事やりたいの?」
 絶句した幹部。私は答えた。
 「警察官になれなかった男が、その警察の危機を目の当たりにした新聞記者として論評を書いてきました。余生はどれほどできるか分かりませんが警察再生の一役を担いたいのです」
 そして翌日、警視庁の人事から、警察庁記者クラブのデスク席にいた私に電話が入った。
 「ちょっと来て頂けますか」
 幹部五人ぐらいはいたと思うが、その席に通された。
 「交番相談員を希望されたそうですが、あれは地理案内で何の権限もありませんが、緊急の際には交通整理などができなければなりません。同じ相談員という職名ですが、生活安全相談員というのがあります。これはだめですか?」
 この相談員制度は、平成十一年九月の神奈川県警の不祥事から始まって、十二年の新潟県警幹部の「雪見酒」事案。桶川のストーカー殺人など一連の不祥事で警察は大きな改革を求められたなかで、「民事不介入」などという原則を破棄して国民を救うことを大前提に、全国の警察が相談部門の強化を図る目的で誕生した――という経緯があった。
 当然、相談業務の充実については、担当記者として「どうあるべきか」の持論を持っていたため、二つ返事でお願いすることになった。結果的にそれが面接となったのである。
 「第二の人生が決まった」ことと、警察官ではないが職員と同じ仕事ができると妻にも話した。
 「心臓が健常者の三分の一なのに、できるの?」
 反対のようだったが、一度決めたらテコでも変えないという性格を知っていたので、それ以上、反対することはなかった。
 そして数日後、今度は警察庁からこのような依頼があった。
 「警察改革では、警察官教育に幅広い人材を求めることになっている。警察大学の非常勤講師としてやってくれないか?」
 カメラマン十四年、記者二十一年のなかで、大半は事件現場取材。その仕事を通して第三者の立場から警察を見てきたこともあり、引き受けることにした。
 担当は、全国の警察官で昇任した警部ばかりを集めた警部任用科。そして本部の課長か署の副署長が対象の運営科を受け持つことになったのである。
           
「警視庁生活安全相談員」のほうは、定年退職した翌日から仕事を始めて、月曜日から金曜日まで出勤した。
 警視庁の相談センターには全国から相談電話がかかる。夫婦間暴力やストーカー被害からヤミ金問題……。なかでもリストカットの娘さんに対する対応。「私はこれから飛び降ります」と叫ぶ自殺志願者の扱いには精根尽き果て、夜も寝られない日も何度かあった。
 本部だけでなく、近隣の人間関係の悩みなどが多い所轄の小金井署でも相談員の経験ができた。
 この時にこんなエピソードがある。
 「自宅の屋根裏に人が住み着いているので助けてほしい」
 普通ではあり得ない相談だったが、私はパトカーを出動させた。当然、パトカーを担当する幹部から小言を言われた。
 「常識として考えられないことぐらい判断できないのか。いちいちそんな事でパトカーを出していたら、パトカーが何台あっても足らない!」
 当然、反論した。
 「不安を持っている国民から相談を受けたら、それを助けるのが警察官の仕事でしょう。警察刷新会議で問題になったのはその部分ですよ」
 後日、小金井市の市民相談室からお礼の電話があった。
 「あの方は常習者で二年も前から困っていました。パトカーを出して頂いたらしく、その後、ピタリと治まりました。ありがとうございました」
 五年間の任期を終えた私は、相談業務を通して私なりに感じたことがある。それは私の人生の反省だった。
 「正義を絶対的な善と考え、私は、それを大義名分として尖って生きてきた。時には他人の正義を無視していたのかも知れない。それが強引な行動を起こしていたのだ」と…。
 定年退職後に私の我が儘で始まった警察安全相談員も非常勤講師も全て終えた平成二十一年四月。私は〝警察ジャーナリスト〟として執筆に入った。
 犯罪認知件数の増加、検挙率の低下という治安の危機は、十六年度からの犯罪抑止策が功を奏して、私が全てを終える前の平成二十年には認知件数が百八十一万八千件に減少。検挙率は三一・五%まで回復。日本警察は見事に復活していた。
 「これが人生の区切り」として、病院に心臓の点検に行った。その結果、主治医に言われた言葉に衝撃を受けた。
 「心臓の動きが鈍っているばかりか水がたまっている。至急、心臓のバイパスをつくる手術をします」
 胸を切り開き、詰まった部分を避けるバイパスをつくろうとしたが、そのうちの一本の動脈に触っただけでズタズタに切れてしまった。
 私は全身麻酔で分からなかったが、手術の途中で外科医を待機させるなど緊迫した手術だったようだ。左腕と左足の血管をおよそ二〇センチずつ切り取り、ズタズタになった血管を修復したという。
 「あと十日も遅ければあなたの命はなかった」
 身も心も傷だらけの人生だった。
   ドラマの現場に立ち会って
 調べ官「あの日、タダシ君と妹や弟は帰らない母親を待った」
  優しい語りかけが調べ室に流れる。
    「夜には母親が出るはずの寄り合いがあった。タダシ君は母の代わりに『お母さんは急に来られなくなりました』と報告に行ったそうだ」
 男「………」
 調べ官「タダシ君が寄り合いに出た後、末っ子のケン太君が腹をすかせて『おねえちゃん、お腹すいたよ』と泣き出したという…」
  男は身動きしないで聞いている。
 調べ官「そこにタダシ君が帰ってきた。母親はお前から金を受け取ったら帰るつもりなので食事の支度はしていなかった。どうしたと思う? うん?」
 男「………」
 調べ官「食べ物をさがしてみたがカップラーメン一個しかなかったそうだ。タダシ君はこの、たった一個のカップラーメンを三等分して食べたんだよ。タダシ君はお前の子供だろう。立派に育っているぞ」
 男「………」
  男は青ざめ、幽鬼のような顔になっている。
 調べ官「なあ、優しい子じゃないかよ。えっ、お前のやったことに比べて恥ずかしくないのか? どうだ、もうそろそろ全てを吐いてきれいにしたらどうなんだ」
 男「………」
  男は次第にうなだれ、やがて声を上げて泣き出した。
      
 これは平成二十二年五月三十一日、テレビ朝日系で午後九時から放送されたスペシャルドラマの台本の一部だ。
 原作は、私が記者時代の最後に書いて平成十九年九月に発刊された『落としの金七事件簿』(産経出版)。
 主人公の調べ官は、実在した警視庁捜査一課の刑事で小山金七。いつも犯人を優しく包み込むように接して、人情で自供させることから〝落としの金七〟と呼ばれていた。
 この金七役を柳葉敏郎、犯人の男役は羽場裕一が演じた。監督は和泉聖治で、他に大杉漣、岸本加世子、石黒賢、榎本孝明、甲本雅裕、平泉成、寺脇康文ら豪華メンバーが名を連ねている。
 撮影場所は京都市右京区の東映京都撮影所だ。私は指揮を執る和泉聖治監督の脇で撮影現場に立ち会った。
 カメラリハーサルが終わった和泉監督。
 「はい次、本番に行こうか」
 さすがベテラン俳優たちだけにリハーサルはこの一回のみ。但し、調べ室のガラス窓の外の木の枝の揺れに注文が付いた。
 「もうちょっと風を強くして動きが分かるようにして下さい」
 実に細やかな気配りだ。そして本番。リハーサル映像と違っていたのは本番ではバックグラウンドミュージックが流されたことだ。
 柳葉の声…羽場の表情の変化…木の枝の揺れを含めた調べ室の息詰まるような雰囲気…それが羽場の自供でクライマックスに入った。その流れに沿って流されるミュージックがそれぞれの場面を引き立てている。文章だけでは表現できない部分だ。
 和泉監督が最後に「OK」を出した時、私は涙が出ていた。和泉監督を挟んで私の反対側にいた記録係の女性が言った。
 「監督…泣けましたよ…これ…」
 彼女の声が震えていた。私は柳葉の両手を握り「ありがとう」を連発した。
 ドラマのシーンは、昭和五十九年に東京・世田谷の造成地で女性の他殺体が発見された殺人事件の取調室。女性は夫と別れ三人の子供と生活していた。調べ官は勿論、小山金七。
 女性が子供たちの養育費を受け取りに、元夫に会いに行って殺害されたものだが、受け取りの待ち合わせ時間、受け取りの場所(巣鴨)、犯行前後の元夫のアリバイが複雑に絡み、捜査は難航した。しかし、被害者の着衣に付着していた僅かな土砂が決め手になって、元夫が浮上。自供に追い込んだのだ。
 この作品は、前年の平成二十一年十二月二十一日午後八時からのテレビ東京の「伝説の刑事」でも扱われ、その時の金七役を六平直政が演じている。
 
 小山金七刑事とは私が捜査一課を担当した昭和六十一年に知り合った。
同じ宮城県出身で、私より二つ年上。性格は明るく、普段は剽軽者だが仕事に入ると人が変わったように厳しくなる。それでいながらふところは深く、どんな壁にぶち当たろうと冷静に判断する。金さん(そう私は呼んでいた)と会う度に、常に尖って生きている私は心が洗われる思いがした。
 二人とも酒が好きで、いつも金さんの自宅でご馳走になるのは「浦霞」だった。宮城県の銘酒で口に含むと米酒らしい独特の苦みと酸味がジワッと口内を駆けめぐり、複雑な味がする。
 仕事を終えて帰宅すると食事の前に一杯が始まる。
 「殺人犯など凶悪犯の調べ室は〝戦場〟なんだよ。生きるか死ぬかだ。調べ官はあらゆる情報を持っていなければ犯人には勝てない。だから俺は、生い立ちまで徹底的に調べる。人には必ず弱点があるものだ。その弱い部分を突くのだ。〝ネタ〟はそれほど大事なものだ。だから事件が終わるまで俺は何も言わない」
 そう語る金さんの目が輝いている。新聞記者としては、彼に夜回りしても何も収穫は得られない。だが、私は仕事が辛くなると必ず金さんの家におじゃました。人生に勇気を貰うためである。
 その金さんは、私が静岡に二度目の転勤になった時は、八王子署の刑事課長だった。胃の腫瘍が静かに進行していた時だ。
 「夜中に唸りだして、暫くすると一階の台所に降りて行くんですよ。私、そっと見たら酒を口に含んでいるんです。痛みを抑えるためだったんですね。もっと早く気づけば……」
 奥さんのシゲ子さんはこう述懐する。
 私が警察庁を担当していた平成十一年の秋だったと記憶している。金さんから突然、電話があり、「すぐ会いたい」と内幸町の帝国ホテルを指定してきた。開口一番、こう言った。
 「俺、今度、警察庁長官銃撃事件を担当することになったんだ」
 いつものように目が輝いていた。八王子署の刑事課長の時に胃潰瘍の手術を受け、私同様に身体はぼろぼろになっていた。八王子から捜査一課の管理官として異動になり、長官銃撃事件を担当するのだという。会う理由はその報告だった。
 この事件は、公安、刑事両部の必死の捜査にもかかわらず、犯人が特定されていなかった。金さんはその特命管理官に就任したのだ。
 「警察庁担当じゃ関係ないだろうが、おそらく、この事件が最後だろうと思う。俺…命をかけて挙げてやるつもりだ」
 青かった顔色が見る見る赤くなっていく。
 「人によって生き方は様々だが、お互いに天から与えられた職業だからさ、楽しく生きなくては…」
 金さんの並々ならぬ決意を聞いて、「これが警視庁の名刑事か…」と思うと込み上げるものがあった。
 「これ、田舎から送られてきたから食べてくれないかな」
 ぶっきらぼうに差し出された袋の中味は、宮城県産の生きたアワビだった。そして金さんは別れ際にこう言った。
 「俺は幸せだったよ…じゃあな」
 手を振って帰って行った後ろ姿を忘れることができない。
 それから四カ月後の平成十二年三月三十一日、金さんは五十七歳で帰らぬ人となった。「金さん、ありがとう」と私は心の中で何度も叫んだ。
 同じ宮城県出身で同年代。金さんは警察官どころか憧れの刑事になり、天職を全うした。付き合いは僅か十四年だったが、与えられた勇気は何百倍ではきかない。
 金さんが最後に言った「天から与えられた職業」という言葉は、希望通りの警察官になれなかった私の心にぐさりと刺さった。
 希望通りの人生だったとやっぱり胸は張れないけれど、天が私に与えてくれた職業が新聞ジャーナリストであったのなら、我が人生に悔いはないと、今なら言える。

あと書き
 生命の危険を承知で現場に飛び込み、決定的瞬間を読者に知らせる丨報道カメラマンの天命である。危険な現場であればあるほど燃えるものだ。
 昭和の激動の時代、十四年間のカメラマン生活で、自他ともに「生死の分かれ目」には何度も遭遇した。私に危険な現場に飛び込む勇気を与えてくれたのは一件の交通事故だった。
 あれは昭和五十年代のはじめごろの話である。新学期の二日目、近所の仲の良い二人の男児が手を繋いで登校する途中の出来事だ。
 東京・台東区の交差点に差しかかった二人。うち、一人は友達の「やめようよ」の制止も聞かずに信号が黄色の点滅で渡り始め、途中で赤になったが渡りきった。
 もう一人は、先生の教え通りに信号を守って歩道に居残った。ところが信号を守った男児のいる歩道にダンプカーが突っ込み、死亡してしまった。
 現場にいた警察官に状況を聞いて怒りが込み上げてきた。「人の命は誰が左右するんだ。神様はいないのか…」。待ちに待った小学一年生…だがこの子は七年しか生きられなかった。これを運命と言うのだろうか? 涙が止めどもなく流れた。
 人生七十年丨そう言えば私も所々に分かれ道があった。幼少の頃のDV(夫婦間暴力)、先生の強引な体罰…虐げられた少年は当然、非行に走り出した。運が良かったのは村の駐在さんとの巡り会いだ。柔道を通して私は「正義」を芽生えさせてもらった。
 与えられた「正義感」を生かす仕事と言えば警察官。そう決めて二度の試験に挑戦したが不合格だった。体格(身長)という規律の壁が立ちはだかったのだ。
 そして運命は私を「警察官」から、「報道カメラマン」へと誘導した。しかし、飛び込んだ世界は太平洋以上に広かった。警察官志望の私の分相応と言えば「芸術」ではなく「現実」への挑戦。
 芸術的なセンスの低い私は、報道写真という使命感から、ただひたすら事件・事故のまっただ中に攻め込んだ。そして十四年丨その先に待っていたのは「まさか」の坂だった。
 「警察官になれないのなら警視庁のキャップになればいい」
 当時の土田警視総監の一言で私は、別の坂を上りだした。三十八歳で記者の新人となったのである。
 一週間後に警視庁キャップになる内示を受けたその日の夜、私は心筋梗塞で入院してしまった。
 血液どろどろの中でのカテーテル治療で私の心臓は三分の一が壊死。過激な仕事は禁止され、警視庁キャップは頓挫した。
 また運命が別の道を選ばせた。今度は「坂道」ではなかった。警察庁担当記者で、八年間勤め上げ平成十六年に産経新聞の定年を迎えた。この実績もあり、私は警視庁の臨時職員に採用されたのである。
 仕事は警視庁の生活安全相談員だ。現職警察官らと友に全国からヤミ金や振り込め詐欺などの相談を受けて、それらの「悪」から国民の財産を守ってきた。最後の最後に期せずして「正義」を守る警察官らしい仕事ができたのだった。人生って分からないものですね。
 お世話になりましたありがとうございます。
                    小野義雄

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