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2019年4月10日 (水)

昭和・平成の激動の時代に生きて

第二章 日本を憂えて
 夜の新宿歌舞伎町
 東京で渋谷、池袋と並ぶ副都心のひとつ新宿区。中でも新宿は昭和初期から大歓楽街として知られ、昭和三十九年の東京オリンピックの後、急激に発展の時代を迎える。
 アンダーグラウンドの街・新宿は団塊世代から支持され、若者の街として話題になっており、私がカメラマンとして東京に出て来た頃、流行ったのが藤圭子の「新宿の女」だ。
 田舎育ちの私にとっては東京で見るもの全てが感動を与えてくれた。しかし、聞いているのと実際に見るとでは大きな違いがあった。
 なかでも歌舞伎町は区内を東西に走る靖国通りから西武新宿駅前通り、職安通り、新宿区役所通りに囲まれた六百㍍四方の区域だ。
 この中に映画館や劇場、ボーリング場、パチンコ店、ゲームセンターなどのアミューズメント、漫画喫茶、キャバクラ、ホストクラブなど混在する若者の街。流行のファッションなど時代の先端を行く「若者文化流行の発信地」と言われた。
 新宿コマ劇場や新宿東宝映画館前の道「歌舞伎花道通り」の夜は不夜城と化し、日中も非日常的な生活を送る人々で賑わう。
 一方で、同地域は指定暴力団・住吉会住吉一家向後睦会の縄張りになっているばかりでなく稲川会や極東会、松葉会などの傘下団体も拠点を持っているなど暴力団まで混在している。
 さらに、外国人が闊歩する街としても知られていた。中国や韓国だけでなくロシアやタイ、ナイジェリアなどの不良外国人(来日外国人)の摘発は都内一だった。
 特に新宿駅周辺はシンナーを詰めたビニール袋を口に当て、シンナーを吸う〝あんパン〟遊びや、制度という既成の価値観に縛られた生活を否定、脱社会的行動をとる「ヒッピー」族などアウトローのたまり場だった。
 私は進みたい道にも入れず不慣れな環境の中で命をかけているというのに、シンナーや覚醒剤に溺れたり、ゲバ棒を持って国の治安を乱す若者……これほど日本の若者は腐りきっているのかと思うと居ても立っても居られなかった。
 産経新聞では毎週水曜日の夕刊で写真の特集ページを組んでおり、カメラマンが交替で担当する。一週間の取材時間が与えられ、素材はニュース的なものだ。その憤りを表現する最高の場でもある。
 「正義を追及する社会派カメラマンとして、こうした腐りきった闇社会は放置できない」
 私の体に闘志がメラメラと湧いている。狙いを聞いた担当デスクが言った。
 「社会派カメラマンとして生きて行くなら、その表現力を見てやる。新宿は時代の世相が分かる街だ。しかし、田舎から出て来た君には分からないだろうが、極左過激派の取材以上に身の危険が伴う仕事になる。それでもやるか…」
 東京のカメラマンになって二年、私にとって厳しい試練である。先輩がヒントをくれた。
 「若者の街であると同時に日本のマフィアの住む街、流行に敏感な街をどう表現するかだ。まあ、歌舞伎町の二十四時間をルポするしかないだろう」
 こうして企画は決定したが、警視庁の協力なくしては危険な仕事だ。警視庁の特別のはからいで新宿署の歌舞伎町交番への潜入取材が許可された。
 但し、取材には厳しい条件が付けられた。
 「歌舞伎町は一一〇番があってもパトカーが一台で行くのは危険な街だ。酔っぱらった群衆による暴動がおきる危険性があるのだ。そんな街でカメラを見せたら、いくら警察でも貴方を守れない」
 当時、警視庁の交番では第一係から第三係と三つの班に分かれて交代で当直などの勤務体制を組んでおり、私がお世話になったのは第三係だった。
 中でも私の取材に最も協力的だったのが新宿署地域課のI巡査部長。I巡査部長は歌舞伎町交番で第三係の〝箱長〟(警部補)を含めた五人の中では最も体格に恵まれていた。交番の仲間はこの屈強な男を「あにい(兄貴)」と呼んでいた。
 通常は「報道」の腕章を付けて警察に同行取材するが、カメラが見つかった場合に、大きなトラブルに発展する危険性もあると警察に注意されたこともあり、私は隠しカメラで取材に臨むことにした。
当時は報道カメラマンにとって最高のカメラと言われた小型の「ニコンSP」一台だけを使用することとした。A3サイズの書類を入れる段ボール製の箱にレンズ用の穴を開けてカメラを固定。シャッターを押すため上部に指が入る程度の穴を開ける。
 黒いハーフコートを纏い、隠しカメラボックスを小脇にかかえて制服警察官に同行して現場に急行すれば怪しまれずに済むばかりか、周囲の群衆に気づかれないように逮捕の瞬間を撮影できるのだ。
 一夜に二、三度は出動するチャンスがあり、三日目に暴れる男をあにいが路上に組み伏せる瞬間に遭遇した。ところが余りにも暴れるので、ばたつかせる足を押さえ込むのを手伝ってシャッターチャンスを逃してしまった。
 迫力のある写真が撮れないまま担当の一週間が過ぎた。これまで撮影した写真を見た担当デスクが呟く。
 「これでは暴力の街・新宿が表現されていない。事件の瞬間で警察官の入っていないものがないのか…」
 一一〇番で警察官と一緒に現場に行くのではなく、カメラの前で起きた警察官のいない事件の場面が必要だという。
 こうなったら開き直るしかない。逆境に立つと私が呟く言葉がある。
 〈ひとのやらない事をやれ〉だ。
 「苦労するね、あんたも…。だったら、車のトランクに隠れてやればいいだろう。狙っている場所付近の警らを控えてやるよ」
 あにいのアイディアである。翌日から、わが社の自動車課から社有車のベンツが出動した。「歌舞伎花道通り」が見える位置にベンツを止めトランク内に隠れて撮影しようというのだ。
 ベンツには無線が付いており、私は運転手との連絡用のハンディトーキーを持ってトランクに潜り込むのである。
 トランクの中では五㌢くらいの隙間をつくり、腹這いになってその隙間から二〇〇ミリズームレンズで花道通りを見張るのだ。
 現場で乗り込めば周囲にばれてしまうので、離れた人通りの少ない場所で乗り込み、現場に着いてから、無線で連絡しあって撮影ポジションを決める。終了する場合も無線で連絡しあう。
 キャッチガールやポン引き(客引き)の連中は常に見張り役をつけて連絡を取り合っているため、通りに警察官の姿がないとわかると一時間も経たないうちに、〝無法地帯〟になるのだ。
 警察官のパトロールは、酔客のにぎわいが始まる夜九時過ぎから深夜の午前二過ぎまで控えてもらった。その間に何か事件を目撃した場合は交番に速やかに連絡することにした。
 第三係が宿直の夜だった。周囲の人通りから判断して午前〇時は過ぎていたと思う。歌舞伎花道通りを靖国通りからベンツに向かって道路左側を一人の女性が歩いて来た。黒っぽいハーフコートに、はやりの超ミニスカート。どう見てもOLには見えない。
 突然、左側の路地から黒ずくめの男が一人、道路上に飛び出してきた。男は女性と並んで歩きながらなにやら話しかけた。女性は逃げるように急ぎ足になった。
 その時だった。男は女性の前に両手を広げて行く手を阻んだ。それでも右に左に逃げようとする女性。次の瞬間、男は両手で女性のコートの襟を掴み締め上げるようにした。女性の表情が歪んだ。連続でシャッターを押し続けた。数十秒間だったが女性は男に路地裏に引きずられるように消えた。
 「これで撮れた」
 私は撮影の後で交番に駆け込み、その出来事をあにいに報告した。女性が事件に巻き込まれた可能性があるからだ。
 「時間的に見てOLとは思えないが、男はおそらくポン引き野郎だろう。あそこはヤクザもんなどの店でゴチャゴチャしているから…今のところ一一〇番がないからこのままでいいよ。それより撮れてよかったじゃないか」
 例え情報があったとしても警察官一人で現場に駆けつけるには危険過ぎるので、一一〇番があって初めて隣接する四谷署と連携を取り現場に行くことになっているのだという。
 こうして「夜の新宿歌舞伎町」の取材は完了した。
 写真は周辺の道路が暗くて行き交う人も少ないことから深夜の歌舞伎町を表現するに充分だった。
 女性と男の絡みの背景にネオンが煌めき、まるで背後からスポットライトを充てたようにもみ合う二人のシルエットが浮かぶ。女性が首を絞められて仰け反る姿。引きずられるようにして地面でもがくミニスカートの両足…写真は「やめて! 何するの?」という女性の叫び声が聞こえてくるような動きの激しさを表現していた。
 合わせてアミューズメントを闊歩する黒服姿の集団。一一〇番で駆けつけた警察官に抵抗する大男など自信に満ちた作品になった。ところが紙面編集の段階で、この写真が問題になった。
 「もし犯罪に関係あったとすればこの写真を新聞に掲載することは如何なものか?」
 私は主張した。
 「このシーンの撮影の後、警察に通報したが被害の訴えが出ていない。警察はあの辺は暴力団の店が多いのでぼったくりかなにかではないのかと言っている」
 こうして編集担当者との妥協点は「女性の顔を分からないよう配慮する」こととして掲載することだった。
     □   □
 この取材では裏話があった。人生なにがあるか分からない。まったく予想がつかない事がおきるのである。
 あれは交番潜入取材中の寒い夜だった――。〝眠らない街〟と言われた東京は新宿の歌舞伎町もこの時間帯だけは閑散としている。
 昭和四十六年二月十七日午前六時前、日本最大の歓楽街・歌舞伎町を管轄する〝マンモス交番〟卓上の警察専用電話のベルが鳴った。そのベルの音は短くテンポの速い音だった。この音を聞く度に交番内に緊張が走る。それは緊急事態を知らせるベルだからだ。
 私は机の脇に立ちメモ帳をポケットから取りだした。
 少年時代に見た映画に出てくる東京――その東京の繁華街である新宿・歌舞伎町にいることを実感した瞬間だ。
 緊急電話を受けたのはあにいだ。あにいは黙ってメモをとっている。メモを覗く私…。
 「栃木県真岡 猟銃強奪 赤羽の検問突破 緊配…」
 警視庁本部からの一斉手配である。受話器を置いたあにいが私の顔を見て言った。
 「俺は何も言わんよ。君が勝手にメモを盗み見たんだよな」
 あにいは相棒のKやんことK巡査長に念を押すように目で同意を
求めた。Kやんはあにいとは逆に交番内では最も身長は低いがすばしこい警察官であにいとは名コンビである。
 私は「マフィアの街・新宿」をルポするための事前取材で三日前から交番で第三係と寝起きを共にしていた。一一〇番があるたびに出動する警察官に同行するのだ。本格的な仕事に入る前に、とんでもない事件にぶち当たったのである。
 「真岡で猟銃強奪事件があり、しかも都内に逃げ込み、それを警察官が追っている…銃撃戦になるのでは…」
 私はあにいの言葉が終わらないうちに交番を飛び出し公衆電話に走った。本社に第一報を入れるためである。
 「大変です。栃木で猟銃が強奪されました」
 写真部の宿直室で眠そうな声の当番デスク。
 「なんだと…そんなのは宇都宮に教えてやればいいだろう…いちいちこっちを通すんじゃねえよ」
 「事件は栃木ですが、強奪の犯人が都内に逃げて来ているのですよ」
 「なんだと? それを早く言えよ。何で君はそんなことを知っているのだ? …何処に行けばいいんだ」
 「赤羽の検問が突破されたので赤羽でしょう」
 写真部の泊まり班は何も知らなかった。宇都宮支局からも一報が入っていないのである。
 赤羽の検問を突破した犯人は、近くのアパートの敷地内に隠れているのが見つかり御用となった。その瞬間を撮影した裕カメラマンの写真は産経新聞の特ダネとなり夕刊を飾った。
 それだけではなかった。当時、産経新聞のグループとしてフジテレビ、ニッポン放送、文化放送があり、全国に通信網を持っている産経編集局にニュースセンターを置いていた。当然、この速報がグループに流された。お陰で私は「ニュースセンター室長賞」を受賞した。これが産経での初めての賞だった。
 事件の概要は、栃木県真岡市にある真岡鉄砲店共産党左派、京浜安保共闘の三人の男が鉄砲店の勝手口から押し入り、猟銃十丁と空気銃、銃弾二千三百発を強奪して逃走した、というものだった。
 緊急手配を受けた警視庁赤羽署は埼玉県境にかかる橋で検問を実施。男二人が乗った栃木ナンバーの車を職務質問したところ、突然、逃げられたのである。
 ところが、その車がカーブを曲がりきれず民家の外壁に衝突したため男たちは車を乗り捨て走って逃げた。
 赤羽署は警察犬の出動を要請、警視庁は名犬「アルフ・フォン・ハイム号」を出動させ、車内に残っていたスキー帽を源臭に男たちを追跡し、現場から約三百㍍離れたアパートのゴミ集積場でブルーのシートに隠れているのが発見された。
 しかし、この事件は後に重大な事件の引き金になるとは誰も想像できなかった。
   □     □
 この真岡猟銃強奪事件には後日談がある。事件から約八か月が過ぎていた。宇都宮支局から若い記者が社会部に転勤になった。その名はS記者。
 「宇都宮からあがってきたSと申します。よろしく…」
 丁寧な挨拶である。しかし、私は宇都宮支局と聞いてひとこと言わずには気が済まなかった。
 「今年の二月に猟銃強奪事件があったよな?」
 「ありました」
 「あの時は何を担当していたの?」
 「県警です」
 「あの事件の第一報を本社に入れたのか?」
 「(県警から)連絡があったのは朝方で、本社に連絡したらすでに知っていました」
 「何言っているんだよ君、事件担当のキャップだろう? 猟銃だけでなく銃弾二千三百発も奪われているんだぞ。ダラダラと仕事やってたんじゃねえのか。今度は本社の社会部に来たんだからしっかりやれよ。できないなら辞めちまえ」
 第一報は俺が入れたとは言わなかった。ただ許せなかったのは記者としてピンと来るかどうかだ。警察当局は暴徒化する過激派対策もあって銃関係の事件には敏感になっており、事件記者として警察以上に敏感にならなくてはいけない。
 ところが、このS記者は、後に私が社会部多摩支局に異動になった平成六年には東京本社の編集局長になっていた。
 多摩支局デスクの時、支局の若い記者とS邸に招待を受けたことがあった。広い居間にピアノとソファが置かれた豪邸だった。
 その翌年の春、千代田区の千鳥ヶ淵で花見を開いた時だ。編集局長の肩書きで私の前に座った。当然、あの時の話が話題になった。
 「いや~若いころはいろんなことがありましたよねえ。あの時は怖かったなあ~」
 S局長は私の顔を見ながら笑顔で話す。本社社会部にあがってきた時「できないのなら辞めろ」と私が怒鳴った話だ。
「それを言われると、私は穴に入りたいですよ」
「事件やっているんだから、常に緊張感は必要ですよね。あの時に教わりましたよ」
 私は言葉に窮した。
S局長の出世はそれだけではなかった。なんと平成十六年には社長に就任したのであった。
 人生は「勝った」「負けた」の勝負をしているのではない。人それぞれに生きる道がある。上か下ではなく自分がこうと決めた生き甲斐のある仕事ができることが幸せと言うものだ――これがS社長から得た私の人生観なのである。
 そのS社長は、平成二十五年六月十一日、多発性骨随腫で帰らぬひととなった。六十八歳だった。
 編集局長になったのも六月、大阪本社代表になったのも六月、社長に就任したのも六月、相談役になったのも六月、他界したのも六月と「六」に縁のある人だった。
   覚醒剤を追って
 昭和五十二年、全国の警察による覚醒剤取締法違反の検挙者数は一万四千四百四十七人と過去五年間で三倍に激増。警視庁管内でも昭和五十三年三月までの検挙者の中に未成年者が三十五人も含まれており、前年の三倍になったというニュースが流れた。
 このニュースに子供のころを思い出した。母が山形県板谷峠の鉄鋼会社に勤めている時のことである。
 私が小学六年生の夏休みに母のところ泊まりに行っていた時の夕方だった。けたたましいサイレンが鳴り響きパトカーが何台も集まってきた。長い警棒を持った警察官が駅を囲みハンドスピカーで怒鳴っている。映画でしか見たことのない光景に私は恐怖で震えた。
 板谷峠には国鉄の峠駅があり、滑川温泉の入り口だ。母の住んでいる下宿にも警察官が来て何か話している。
 その時、お袋から聞いた話はこうだった。
 「ヒロポンの中毒男が列車の中で暴れているんだって…怖いねえ。危ないからここを出ちゃだめだからね」
 子供の私には「ヒロポン」が何かは分からなかったし、説明を受けても理解できなかった。ただ一言、母の言葉が耳を離れなかった。
「人の身も心もぼろぼろにする悪い薬なんだよ…」
 ヒロポンとは後に知ったことだが覚醒剤だ。戦後は合法的なもので街の薬局で売っていた。服用すると中枢神経の興奮作用が強く、幻覚、混迷、人格障害などの精神分裂病に似た症状を引き起こす麻薬だ。
 昭和二十九年四月に東京・文教区内の小学校のトイレで小学二年生の女児が殺された事件があり、半月後に別件で逮捕された犯人の男もヒロポン中毒だった。
 麻薬、覚醒剤の怖さは峠駅の事件で母に嫌というほど聞かされていた。
 その危険な麻薬を未成年者が利用しているというニュースを見た時、これらの撲滅こそ正義であると決心して企画案を提言。聞いたデスクが言った。
 「お前が好きそうなネタだな…」
 危険なので「取材せよ」の直接的命令ではなかったが、「取り込まれるなよ」と暗に了解したようだ。早速、私は暴走族取材で知り合ったリーダーのW君なら情報を持っているだろうと思い電話をかけた。
 「やばいですよ…自分たちには関係ないことだから…」
 いとも簡単に断られてしまった。そして思い出したのが麻薬取締官のHさんだった。Hさんは関東甲信麻薬取締官事務所の幹部だ。遡ること六年――昭和四十七年の沖縄返還の年のことだった。
 沖縄は覚醒剤が一般市民まで浸透している丨として返還後に厚生省(当時)の麻薬取締官が潜入捜査することになった。この情報を得た私はHさんに同行取材をお願いした。
 「潜入捜査に同行はできない。貴方も個人で潜入すればいい。もし、うちの取締の現場に貴方がいた場合は暗号で確認して釈放してやると言うのではどうだ」
 Hさんの了解は得て、出張届けを出そうとしたが会社は「危険きわまりない」として許可が下りなかった。
 当時からの人間関係は続いており、今度は「警視庁管内の覚醒剤取締法の検挙者に未成年者が多い」の情報をHさんにぶっつけてみた。
 「あれは警察がやっているので我々の出番ではない。得ている情報では新宿の東地区にあるディスコだと聞いている」
 新宿区東地区と言えば歌舞伎町の南東に位置し駅から五〇〇㍍ほどの新宿二、三丁目付近を指す。二丁目と言えばゲイバーが多いところだ。
 新宿駅東口でたむろしているヒッピー族の一人に聞いた。それは某ビルの地下一階にあると言う。
 ディスコを探し出したのは三月二十七日の午前0時ごろだった。階段を降りて地下一階の鉄製の扉を開けて中に入るとビートのきいたロックが流れ、ミラーボールのカクテル光線の下でジーパン姿の十代から二十代前半の若者が踊り狂っている。黒人の姿も見える。
 私は生まれて初めて見る光景に圧倒され、しばし壁際に立ちつくした。勿論、どうすれば客になって仲間に紛れ込めるかさえ分からなかった。いや、「分からない」と言うよりは勇気がなかったのだ。幸いしたのは店員にも若者にも気付かれることはなかった。
 薄暗くてどこに何があるのかさえ分からない。私は壁伝いに奥に進んだ。そこはトイレの入り口だった。
 「トイレに隠れて危険そうでない客が来たらシャブ(覚醒剤)の話をしてみることにする」
 そう決心した私はトイレに入った。暫くすると十代後半の少年が一人で小便しに入ってきた。周囲に誰もいないことを確認して用事を済ませた少年に声をかけた。
 「よおっ! シャブ持ってねえか…」
 少年の顔が引きつった。
 「ぜんぜん…俺、関係ねえすから」
 少年はそれだけ言うと出て行ってしまった。トイレの入り口は右が男で左が女子用だ。フロアに戻ろうとして出口まで来た時、茶髪で超ミニスカートの少女に声をかけた。
 「シャブねえかな…」
 少女はびっくりしたようにトイレにも行かずに踊りの中に消えてしまった。
 ついに午前四時、閉店の時間だ。何の収穫もなく終わってしまった。私は周囲の若者と服装が違うばかりか風体も余りにもかけ離れている。もし店員にばれたら大変なことになると判断。音楽が止むと同時に店の外に飛び出した。
 翌日の昼過ぎ、今度は若者の街、原宿に行った。いるいる、髪を雀の巣のようにして小型のバッグを型から提げた「サイドバック族」だ。その連中の中に黒ジャンパー姿の角刈りの男がいた。
 白のタートルネックに白のカラーパンツ、白のエナメルの靴を履いた二十歳前後だ。思い切って声をかけた。
 「誰か待っているの?」
 声をかけるともう一人の髪を赤く染めた男が近づいてきた。
 「おじさん、なんだよ」
 「いや、誰かを待っているのかと聞いただけだけど」
 白のエナメル靴の男が答えた。
 「軟派してるだけだよ」
 舌をぺろりと出した仕草に幼さを感じた。私の「学生か? 」の問いには答えなかったが、赤髪の男が言ったことによると板橋を縄張りにしている暴走族だという。
 私は思いきって聞くことにした。周囲の人通りも多いので暴力を振るうことはないだろうと判断したからだ。右手で注射をうつ真似をして言った。
 「これしたいんだけどさ…」
 二人の男同士が顔を見合わせている。その顔が引きつり、同時に脱兎のごとく逃げられてしまった。
 JR原宿駅から明治通りの竹下通りを行ったり来たりするもどうしようもない。「きょうもだめか…」と諦めて表参道と明治通りの交差点に二月に開業した若者向けのファッション店「ラフォーレ」の前に来たときだった。
 革ジャンパーにサングラスの男が目に入った。長髪なので暴力団ではないと判断。声をかけた。
 「よっ!暇かね」
 「ダチ公(友達)待ってるんだよ。何か用か?」
 「ちょっと聞きたいんだが…最近、シャブが簡単に手に入るっていうそうだが、相場を知っているかね」
 「あんた週刊誌の記者か?」
 「いや、新聞社のカメラマンだ」
 「おお怖っ」
 怒るふうでもなく逃げる様子もない。人の良さそうな若者だ。私は続けた。
 「俺が買うんじゃなくてさ、やっているところを写真に撮りたいだけだよ」
 「そんな事やったら捕まっちまうだろう。知っていても言えないよ」
 「俺もプロだよ。分かる様なことするわけないだろう。共犯者になっちまうからよ」
 暫く無言が続いた。
 「知らねえな」
 最後にこう言い残してラフォーレに入って行ってしまった。
 夜、久しぶりに自宅に帰った。昭和四十九年に結婚して生まれた四歳の長女は既に寝ていた。私の顔を見るなり妻が言った。
 「どこで何をしているのよ。子供もいるのよ! 家庭をなんだと思っているの?」
 詳しい訳は言えなかった。
 「例によって写真グラフだよ。今度は難しいんだ」
 「そお…危なくないのね。帰らないのなら電話ぐらいして頂戴」
 仕事の話をしないことは妻も分かっている。もし、明日だめならこの仕事を降りるしかないと思いながら寝ることにしたが寝付けない。色々考えていると不良少年を追いかけた時に同行した警視庁の少年補導センターの女性警察官を思い出した。
 女性警察官は新宿駅東口の植え込みのあるロータリーにたむろしている少年に近づいた。「君っ、警察よ」と言っていきなり左手を捕まえ、腕をまくったのだ。シャブ痕を見たのである。「怖くないのですか?」と聞く私に女性警察官は答えた。
 「怖々やるから怖いのよ。警察ですなんて丁寧なこと言っている暇ないの」
 あの凛々しい女性警察官を思い出した。「やっぱり…新宿東口か」と決心した私は昼過ぎに現場に着いた。取材を始めて三日目である。
 三月の初旬だというのに今日は暖かかった。ロータリーに腰掛けてそれらしい者を目で追った。
 腕時計を気にしながらロータリーに腰掛ける若者が目に入った。年は二十二、三歳、長身でサングラスをかけている。座ると同時になにやら植え込みの中を探している。
 「何かの取引かな?」と気になった。植え込みを手でかき分けながら暫く探したが何も見当たらないようだ。今度は、ロータリーを数メートルずつ移動しながら探している。何度か繰り返し、駅舎にある東口交番の反対側のロータリーの植え込みから男はビニール袋を取りだした。明らかに「あんパン」遊び野郎だ。
 「あんパン」遊びとは、揮発性のあるシンナーをビニール袋に入れて匂いが外に漏れないようにして蒸気を吸い込むのだ。
 シンナーには主成分のひとつとしてトルエンが入っており、それは中枢神経を麻痺させる作用がある。袋の中の蒸気を吸うことで陶酔感を楽しむ遊びは昭和四十年代に若者に流行していた。
 「よし、これだ」
 私はその男に近づき、こう言った。
 「ルポライターだけど…シャブやっている人を知らないか?」
 一瞬、ギョっとなった男はビニールをうしろに隠すようにして言った。
 「本当にルポライターか? なんで俺に聞くんだよ」
 男は私の頭の先からつま先までなめるように見て言った。
 「いや、ご免…実は写真を撮りたいんだよ。ばれないように隠し撮りするからさ」
 「そんなの俺、やってる訳ねえだろう」
 「そうか…君はシンナーだものな。だれか知っている人いないかね…」
 暫く考えた男が意を決して言った。
 「俺は知らないよ。この辺で会った男が言っていたがアイリーンとかいうスケバンを捜してみな。聞いた話だけどよ」
 やたらと「聞いた話だ」を強調する。
 「聞くところによると、新宿を根城にする不良中高校生のグループを仕切っているらしい。聞いた話だけどさ、歌舞伎町のディスコ・Tに良く来るらしい」
 「ようやく姿が見えてきたぞ」。私の声が上擦っていたのが分かった。「ありがとう」を連発して歌舞伎町方面に歩き出した。後から男が言った。
 「よっ! ディスコは今ごろからやってねぇよ」
 聞いてしまえばこっちのもの。私は振り向かずに前を見たまま男に手を振ってそのまま進んだ。
 いったん会社の写真部に戻って仮眠ベットでひと眠りし、ディスコ・Tに行ったのは午前一時を過ぎていた。前に入った地下一階の店と同じような造りだ。音が外に漏れないように普通のドアより分厚い板が張られている。
 ドアを開けると、もの凄いロックの音で鼓膜が破れそうだ。踊り疲れて一休みしている若者の耳に「アイリーン来ているか?」と聞いてみるも「知らない」の言葉が返ってきた。最後に、店員に「自分はルポライター」と名乗って直に聞いたが知らないという。
 時計を見たら午前三時を過ぎている。どうしても諦められない。もう一度東口のロータリーに行くことにした。
 午前四時になろうとしているのに若者が数人、ビニール袋を口に当てている。警戒が厳しく、人影を見るとロータリーの植え込みに袋を隠してしまうのだ。
 角刈りで作業衣を着た二十歳くらいの二人連れに近づいた。私の姿を見るなり睨んできた。
 「聞きたいことがあるのだが、いいかな」
 「なんだ。サツか…話すことなんかねえよ」
 ドスの利いた声だ。
 「警察なんかじゃないよ。スケバンでさ、アイリーンっていう娘を知っているかな」
 「保護者か?」
 「俺はルポライターだ。新宿の裏社会を書きたいんだが、知っていたら教えてくれないかな」
 長髪の男が答えた。
 「俺たちでいいならアンパンしているところを書けばいいだろう。学生じゃねえから…社会人だからよ。写真も撮らせてやるよ」
 「いや、シンナーはいい。シャブだよシャブ」
 黙っていた角刈りの男が口を開いた。
 「あいつらは俺たちと人種が違うからよ。区役所通りの茶店に行ってみな。あのへんを根城にしているらしいぜ。ただガキが多いからよ。金曜日の夜とか土曜日などが確実だと思うよ」
 自宅に帰って仮眠した後、男の言った喫茶店に向かった。金曜日だが夜になる前なので店内は静かだ。どう見てもシャブのやる人間が来るようなところではない。コーヒーを二杯飲み、帰ろうとしたその時、入り口からそれっぽい女の娘と長身で雀の巣のような頭のアベックが入ってきた。店員の隙を見て二人に近づいた。
 「申し訳ないんだけど…あんたアイリーンさんですか?」
 女は黙っている。男が私の顔を見た。
 「なんだ。あんたアイリーンの親か?」
 「違います。私は新宿の夜を追っているルポライターですよ…」
 それを聞いて納得したように今度は女が男に同意を求めるように口を開いた。
 「会うのは無理よね。なんてったって中学生のような若い子を引き連れてさ。新宿から原宿まで歩き回ってるんだから、あの娘は」
 また、暗礁に乗り上げてしまった。最後の願いだと念を押して聞いた。架空の人物ではないのかと思ったからだ。
 「アイリーンの人相を教えてくれないかなあ」
 二人は顔を見合わせながら男が言った。
 「本当に警察じゃないんだな」と確認してきた。私は、右肩にかけた背広の内側のカメラを見せると納得した二人。年は十六、七歳で身長は中ぐらい。特徴は髪をブロンドに染めたアフロヘアーだという。
 (今日が最後にしよう。できなかったらデスクに何と言おうか…)言い訳を考えながら、新宿駅東口の植え込みロータリーに腰をかけ、ぼお~っと人の流れを見ていた。取材に着手して五日目の午後七時ごろだった。突然、私は肩を叩かれた。
 「おいっシャブを追っているブンヤっていうのはおまえか? 」
 見ればサングラスをかけた二十四、五歳の男だ。風袋などから暴力団ではないようだ。
 「俺が買うのではないんだが…写真を撮りたいだけなんだ…」
 「ここは俺が仕切っているんだよ。見せてやってもいいが患者に知られると怖いぞ。なにしろ奴らはシャブが入ると気が大きくなり何するか分からないからな」
 「患者」とは、シャブ仲間の使う言葉で、利用者のことを指すようだ。私は返答に困ってしまった。
 「私は、ルポライターなのでお金は出せませんが…何処に行けばいいんですか?」
 「場所なんて言える訳ねえだろう。いいから言うとおりにしてもらうぞ。歌舞伎町でなく新宿通りを右に行って明治通りを六丁目交差点のほうに歩いて行けよ」
 そう言った男は私の前から姿を消した。私は言われる通り新宿通りを右に曲がり明治通りに向かって歩いた。ひとつ目の大きな信号を左折すれば明治通りだ。
 明治通りに入り、さらに数分歩いた。突然、私の横にタクシーが止まった。先ほどの男だ。
 「乗れ!」
 タクシー運転手に一一〇番されると困ると思ったのだろうか、笑いながら次のように同意を求めてきた。
 「面白いところに連れて行ってやるからさ。ただ、みんなにバラされると困るので目隠ししてくれないか。ハッハッハー」
 それにしても用意がいいものだ。持っていた手拭いで目隠しされてしまった。タクシーは二、三回だったと思うが角を曲がったような気がした。ただ、他に車の音が聞こえないので静かな所を走っているなと思った。
 「運転手さんよ、ここでええよ」
 そして今度は私の手を取りながら言った。
 「躓くと困るからさ、俺が先に降りて手を引いてやるからさ」
 二、三分は歩いただろうか、実に静かだった。
 「止まれよ」と男は言って目隠しが外された。目の前に二階建ての木造アパートがあった。かなり古いようだ。表札もなく廃屋のようでもあるが、新宿を出発して十五分は過ぎているのでそんなに遠くはないようだ。
 建物内に入るとすぐ二階に上る階段がある。埃がないので廃屋ではないようだ。廊下に蛍光灯がついている。傘の部分が錆びていてかなり古いような気がした。
 二階に着くと低いが音楽がどこからか漏れている。廊下の左側に三室あり、一番手前の部屋の前で男が止まった。
 「ちょっと待ってほしいんだよ。ここに入ってくれないか」
 入れられたのはトイレだった。ドアを閉めた男は何やら誰かと話している。まもなくトイレのドアが開けられた。
 男はトイレの真向かいの部屋のドアを少し開けながら私に小声で話かけた。その時は男が邪魔になり部屋の中は見えない。
 私は背広の内側に隠していた小型カメラ「ニコンSP」を取りだして構えたが、明るさが分からない。とりあえずシャッタースピードを手ぶれしない程度の八分の一、絞りは二・五にセットした。黙って見ていた男が小声で言った。
 「いいか? 行くぞ。ドアには触るなよ」
 男はドアに五、六センチの隙間をつくった。相手から私を見えないように隠してくれているようだ。男はドアノブを持ったまま左に動いた。隙間から僅かに部屋の中が見えるようになった。
 男たちがテーブルを囲むように三、四人はいる。テーブルの真ん中付近にローソクがたてられている。光源はそれだけだ。
 黒いシャツを着た男が注射器らしいものを右手に持っている姿が目に入った。覚醒剤を溶かして使用する通称「ポンプ」だ……。
 「はやく……」
 小声のため聞こえない。同時に黒シャツの左側にいる別の男が、注射器を持った男の左腕をまくりあげた。そして次の瞬間、黒シャツが注射器をその腕に刺した。
 見えた! 私は夢中でシャッターを押した。二、三回はシャッターを押しただろうか。もう一度、角度を変えて全員が写る写真を撮ろうと右に動いたその時、ドアは閉められた。時間にして十秒はなかった。
 「はい、終わりだ。中にばれたら大変な事になるんだよ」
 私の耳元に口を寄せて囁いた。二人で音を立てないように階段を降りた。目隠しをされて十㍍ぐらい歩いただろうか。そこで車に乗せられた。今度はタクシーでなかった。男が言った。
 「あれで高校生って言うんだから、しょうがねえよなあ」
 目隠しを取られた場所は新宿の伊勢丹前。既に車は発車しており、ナンバーを見ることはできなかった。

   女性八人殺し 
 赤城山など上毛三山のひとつとして知られる榛名山の群馬県立榛名公園内で土の中に埋められている死体が発見された。死体発見と同時に同僚のE君が現地に行っていた。
 私が現地出張を命じられたのは死体発見の翌日。その日、私は日勤で午前十時に出勤、ロッカーからカメラ、望遠レンズ、ストロボなど取材用具一式が入ったカバンを出して点検している時だった。
 「はっきりしないんだが…どうも警察の動きがおかしいらしい。それで社会部も遊軍を出すと言っているから頼むよ。Eと交替してくれ。展開によっては山間部の取材になるかも知れないので、暗室カーを持って行ってくれないか。機報課には言ってある」
 暗室カーとは小型のバスで、車内で写真の現像・引き伸ばしができるほか、写真を東京本社に送稿(電送)もでき、「動く編集車」とも呼ばれている。機報課とは写真送稿の機材を扱う専門家で無線通信の資格を持つ技術者の集団だ。
 先行している同僚カメラマンのE君と交替するため私は、暗室カーと乗用車の二台で現地に入ることにした。重装備の暗室カーを〝前線基地〟にして取材活動には小回りのきく乗用車が必要だからだ。向かったのは群馬県警が捜査の前線本部としている前橋署だ。
      
 昭和四十六年五月二十一日午後五時過ぎ、榛名山の公園管理人が巡回中に異様に盛り上がっている土の山を発見した。それは、比較的新しいものだった。
 一度、掘ってから埋めもどしているので雑草の根が切られており、掘り下げはスムーズに進んだ。
 六時になろうとしており、周囲には人影もなく静まりかえっている。焦る管理人。今度は思い切ってスコップを垂直に刺した。その時、何かに当たったような手応えを感じたのである。
 「なんだろう…スコップが跳ね返るようなものだが…石のような硬いものではない」
 物体に傷をつけてはならない。管理人は今度はスコップを寝かせるように慎重に掘り下げた。五十㌢ぐらいは掘りさげただろうか、人間の髪の毛の塊のような物が見えた。
 その上の土を手で払って確認すると、それはまぎれもなく人の頭部と分かったが同時に刺激臭の強く、腐ったような異様な匂いが管理人の鼻を突いて呼吸が困難になり、穴から飛び出して嘔吐してしまった。
 「埋められていたのは腐敗した遺体…」
 管理人は管理事務所に駆け込み、自ら電話で一一〇番通報した。司令室は管轄の高崎警察署に連絡。本部鑑識班とともに遺体を発掘、調べた結果、遺体は三月三十一日から行方不明となっている津田美也子さんと分かった。
 実はこの時点で群馬県警はひとりの男を逮捕していた。
   □   □
 それは藤岡警察署への一本の電話から始まった。時は昭和四十六年五月十日午前一時三十分だった。
 「わたしの妹が夕方に出かけたまま帰らないのですが、市内のどこかで交通事故などは無かったでしょうか…」
 当直署員が答える。
 「お名前とお年はいくつの方ですか? 」
 電話の主は藤岡市内の三十六歳の製作所社長で、不明になっているのは会社員の竹村礼子さん(二一)。社長は訴えた。
 「すみませんが…市内の飲食店や神社などを探してもらえませんか。服装は水色のジーパン、エンジのワイシャツなんですが…」
 兄の悲痛な訴えに対して電話を受けた当直員は、単なる家出人と判断。管内派出所に手配すると同時にパトカーではボーリング場や神社、湖畔などを重点的に捜索したが見つからなかった。
 そして九時間後の午前十時過ぎ、届け出た社長から再び電話が入った。それは次のような内容だった。
 「妹が家を出るとき乗っていた自転車が見つかりました」
 ホットする地域課員。次の言葉で心臓が高鳴った。
 「自転車を見張っていたところ、不審な男が来たのですが、すぐ逃げられました」
 「不審な男と判断したのは何故ですか」
 「自転車は今朝六時過ぎに信用金庫の階段下にあるのを見つけました。もしかして礼子が取りに来るのではないかと見張りをしていたら、九時過ぎに一台の車が止まり、なぜか、礼子の自転車を持ち上げたのです。その時、あたりをキョロキョロして私を見つけてやって来て話かけられましたが、私の製作所の作業服を見たとたんに慌てて帰っていきました」
 「車の特徴はわかりますか? 」
 こうして藤岡署は、社長から得た男の車のナンバー「群55……85」を照会した。
 その結果、五人の所有者が判明。車の特徴から高崎市に住む大久保清(三六)所有のマツダロータリークーペと断定した。
 刑事課に照会した結果、強姦致傷などの六つの前歴があることが判明。大久保の身辺捜査が開始された。ところが行方がまったく掴めないばかりか被害者の捜索も実施したが見つからなかった。
 大久保を最初に発見したのは警察ではなかった。礼子さんの兄が社長を務める製作所の従業員らが、十台ぐらいの自家用車を動員し、藤岡市内やその周辺を走っていた時に「群55……85」の車を安中市で発見。追跡したが逃げられてしまった。
 藤岡署は県警捜査一課に連絡。捜査一課は別の事件の捜査本部員まで引き揚げて、「大久保の身柄確保」に全力投球した。だが結局、大久保の身柄を確保したのも民間人だった。
 十三日になって「前橋市内で対象車両を発見」の通報を受けた県警は周辺各署で緊急配備を実施。そしてやはり追跡していた民間人が前橋市内の総社町で取り押さえた。
 調べに対して大久保は「(竹村礼子さんを)強姦しようと車に誘い、高崎などをドライブした後、連れ込み旅館に入ろうとしたら逃げられた」と供述。このため藤岡署は大久保を「わいせつ目的誘拐罪」容疑で十四日未明に逮捕した。
 さらに調べると大久保は隣の富岡警察署管内で女性を強姦していたことが判明。強姦致傷罪で再逮捕、前橋署に身柄を移した。
 「死刑になるのは覚悟している」「官憲とは闘う」「女は関西の暴力団員に二十万円で売った」などと供述するなどノラリクラリで調べは難航した。
 それも長くは続かなかった。調べ官の執拗な説得に大久保の態度は軟化。一部だが自供しはじめた。
 「強姦しようとして女を誘ったが抵抗したので殺し、死体を投げ捨てた」
 態度は軟化したものの同時にふてぶてしくなっていく。
 「それだけじゃない。十七、八歳の女もいた。前橋の二十歳くらいのセーターの女の子…伊勢崎では十九歳ぐらいの女の子などを誘ったよ。でもいずれも売り飛ばした」
 供述の変遷である。
 このため捜査一課は課内に指揮連絡センターを設置して、大久保のこの供述に基づいて県内の家出人捜索の出ている者の中から「原因が不明」で十六歳から二十数歳までの若い女性について検証した。
 大久保の行動半径に合わせてこれら女性の所在不明後の足取り捜査を行い、その中から九人の女性をピックアップして関連捜査を進めた。
 その結果、二人は間もなく所在が分かったことから残り七人について大久保に関係ある可能性が高くなり、公開捜査(警察内部のみ)に踏み切っていたのだった。
 津田さんの遺体発見の前日の二十日、大久保は「竹村さんを殺した」と言うものの、遺体遺棄場所は「勝手に探せ」と開き直り、弁護士の選任まで拒否した。
 このため捜査一課連絡センターは二十一日になって大久保を連れ出して現地を見せながら供述を得ようと試み、伊勢崎や富士見、大胡などの引き回しをしていた。津田美也子さんの遺体発見の連絡は、そんな最中だった。
 県警はこれを受けて榛名湖湖畔殺人事件捜査本部を設置した。しかしその捜査本部は、単なる春名湖畔の殺人事件だけでなく、逮捕のきっかけとなった竹村礼子さん殺害事件も視野に、その他の行方不明者を含めた事件の解明に向けて県警の全署挙げた捜査体勢を組んだのだ。県警は、大久保の調べ官に県警一の〝落としの黒ちゃん〟こと黒沢警部補を充てた。
   □   □
 私が同僚のE君とのバトンタッチで配置についてから、大久保ののらりくらりの供述が続き具体的な動きがなかった。
 前橋に来て四日後の二十六日も遺体遺棄場所になりそうな場所を探しに利根川上流をドライブ。夕方に前橋に帰り、夜の記者会見が終わってから事件の流れが変わった。
 「明日朝、身柄をとっている男を同行して遺体を発掘することになった」
 夜回りから帰ってきた支局の県警担当記者の結果報告である。「記者会見では出なかったのに…」と思っていると、彼はこう続けた。
 「今のところ我が社だけとなっている。場所は妙義山麓の桑畑としか分からない…」
 さらに続けた。
 「捕まっている男の逮捕容疑は津田さんでなく行方不明になっている別の女性に関する事犯だそうだ」
 産経も含めてこの時点では、大久保の逮捕要件が竹村さんを強姦しようとした「わいせつ目的誘拐」であることは掴んでいなかった。
 沈痛な面持ちの記者…社会部のOキャップが言った。
 「とにかく明日に全力をあげよう」
 そして写真部はどうするかと聞いてきた。
 「現地に暗室カーを持って行くつもりだ。大久保と同時間に出ると間に合わないので、夜明け前に妙義に向かって先行させたい」
 私がそう答えると、若い記者から意義が出た。
 「隣は東京新聞の支局なので、暗室カーや取材車が一斉に出れば折角の特ダネもばれてしまうんじゃないですか? 」
 これを聞いていたOキャップが口を開いた。
 「そんなの〝東京〟だって知っているよ。場所は桑畑までとは分からないかも知れないが…それより被害者は誰なんだよ」
 その日はまんじりともせず夜明けを迎えた五月二十七日午前四時、Oキャップが全員に声をかけた。
 「さあ、ボチボチ行こうか」
 小雨がぱらついている。社会部の車、そして私の車、暗室カーと時間をずらして支局前を出発した。先頭車両には大関キャップが、暗室カーには無線通信担当の機報課員が乗っている。
 私が乗る車が支局を出て五分後に暗室カーが出発した。支局前の道を南下してひとつ目の信号を右折する。その道は国道17号線。利根川の橋を渡り国道18号に入った。
 車はただひたすら妙義山の方向に進む。安中市を過ぎて松井田町に入って間もなく五科地区だ。
 現場は五科を過ぎて最初に左に折れる農道があり、その農道の碓氷川の橋を渡った桑畑が発掘現場と聞いている。
 先頭車両のOキャップから無線が入った。
 「碓氷川の橋を渡って進むとY字路がある。それを右に入ると急な坂道になる。民家を過ぎると桑畑が見える。急いでくれ」
 午前六時を過ぎていた。
 「おいまだかっ。東京新聞だって既に来ているぞ」
 前方に桑畑が見え、捜査車両や各社の車が駐車している。私が車を降りた途端に頭からすっぽり黒いコートをかぶった大久保が連行されて行く。その先を見ると数社のカメラマンと記者が待ちかまえていた。
 その光景を見た瞬間、カメラマンと記者の位置から想像するとこの路上で、大久保が車から降りる際には真正面に見え完璧な写真になっているはずだ。「やられた」と思うと気が滅入ってしまいそうだった。
 こうなったら、桑畑の中を走り抜けて反対側に出るしか方法はなかった。反対から撮影すれば他社とは違う写真が撮れるかも知れないし撮れないかも知れない。私は一か八かの勝負に出ることにした。幸い、そこには非常線はなかった。
  桑の木の高さは私の身長ぐらいだ。中腰になると隠れることができると判断。私は桑畑に飛び降りた。畑は粘土質が混じっているのだろうか地表が雨でヌルヌル。第一歩から足を取られて尻餅をついてしまった。ズボンの尻の部分が泥だらけなのだろう冷たく感じた。
 桑の葉の隙間から大久保とカメラの放列が見えた。頭から黒コートを被った大久保はカメラマンや記者の放列とは反対の農道を歩いている。あの場所では警察の広報がいるので自由に動けないはずだ。その点、自分は見つからなければ自由に動ける。低い身長をさらに低くした。
 「禍を転じて福となすとはこの事か…この桑畑を斜めに行くと大久保の前方に出られる」
 そう呟きながら前に進む。桑畑と桑畑の境目が堀になっている。渡ったその先が小高くなっていた。前方を見ると大久保が桑畑の方を指差して何か話しているのが見えた。
 私は三〇〇ミリレンズを付けているカメラを構えた。ファインダーを覗こうとするが桑の葉の水滴と汗で眼鏡が曇ってピントを合わせられない。
 眼鏡の水滴を手で拭いて再度、構えた。背広姿の二人の刑事に囲まれた大久保と私のカメラポジションの間に遮るものは桑の葉だけ。私は中腰をやめて普通に立った。桑の木から頭が出ているはずだ。
 タイミングが良かった。大久保は黒コートをめくり、手錠のかかった両手を胸元まであげ、前屈みになって手前の刑事を避けるように何かを覗き込んでいるのだ。
 右隣りに立つ刑事は男より長身でネクタイを締め、左手を男の後ろに回し、右手はズボンのポケットに入れている。これが竹村礼子さん殺しの犯人、大久保清。逮捕後に初めてマスコミの前に素顔を見せた瞬間だった。
 私の斜め前方から声が聞こえた。
 「あったっ、あった。ここだ…」
 捜査員が遺体を埋めた場所を発見した。大久保が左側の刑事の顔を見て何やら話している。表情は明るく得意気に見えた。
 結局、撮影が終わるまで、広報や他社に気づかれずに済んだ。この写真は後に群馬県警の出版した「大久保事件捜査概要」に掲載された。
 竹村さんは深さ一㍍、縦一五〇㌢、横八〇㌢の穴の中に全裸で埋められ、遺体の上に一〇㌢ほどの土がかけられ、その盛り土に直径二〇㌢ほどの小石が十個ほど置き、さらにその上から土をかけるなど、発見を遅らせる工作までしていた。
 竹村さんが自宅を出たのは昭和四十六年五月九日午後五時過ぎ。
 「絵のモデルになる打ち合わせに行ってくる」
 これが家族と交わした最後の言葉だった。
   □   □
 一週間近くはぶらぶらしたと記憶している。取材するネタがないので、前橋署の裏側に行くと留置場がある一階の壁の隙間から光線が漏れている。良く見るとなぜか鉄格子の内側の磨りガラス窓が二、三センチ開いている。隙間から建物の中を覗くと白っぽい壁に鉄格子の部屋があり、一目で留置場と分かった。
 私はとりあえず、試験的にシャッターを押した。見回りがあり長居は危険なので改めて時間を調べ、大久保の出入りの瞬間を撮影することにした。
 その日の夜、現像してみるとそれは明らかに留置場の鉄格子で、一部がキラリと光っていた。
 問題は大久保の出入り時間だ。見回りの警察官にも気付かれないように翌日も翌々日も狙うがタイミングがとれない。テスト撮影の留置場の写真を見た支局デスクが言った。
 「もう使ってしまいましょう。キャプションでなんとかしましょう」
 翌日の社会面を飾った写真に付けられていたキャプションは「なお頑強に全面自供しない大久保は、この留置場で長い夜を過ごしている」だった。
 「留置場まで取材された」――当然、捜査本部を含めて県警で大問題になった。そしてそれ以後、隙間は完全に密封され、見回りも強化された。若い支局記者が言った。
 「大久保が撮れるまで待てば良かったのに…」
 私は後悔してその日の夜は眠れなかった。結局、この内容の無い写真の掲載は、カメラマン同士の取材合戦に火を付けた。
 前橋署の刑事課は二階のデカ部屋の奥にあって、建物の裏側に位置し小さな窓際が付いている部屋が調べ室だ。時々だが窓が開いているときもあった。
 某社のカメラマンが取り調べ状況を見ようと、棒の先に鏡を付けて覗こうとしたのが発見され、翌日の記者会見で刑事部長が「捜査妨害だ」と激怒した。
 数日後だった。読売新聞の社会面を見て飛び上がった。「調べ室を出る大久保」の説明で丸坊主になった大久保の写真が掲載された。妙義山の桑畑の中では頭の天辺の髪の毛が薄くなっていたのだが、まるで別人のように髪の毛の全てが剃られている。当然、写真部デスクが怒った。
 「おいっ! どうするんだよ。これっ!」
 「この写真は隠し撮りでもなく完全に調べ室の中に入って撮っていますよね。どうして入れたのか分からないんですが…」
 「ごじゃごじゃ言い訳するんじゃないよ。抜き返せ! 隣の建物とか探せよ」                     
 そして翌日、前橋支局に一〇〇〇ミリという超望遠レンズが届いた。私はその日から望遠レンズを手に前橋署周辺の建物回りを続けた結果、署の二階の刑事課内にある調べ室の窓が覗ける位置がたった一カ所あった。
 それは署から七、八百㍍離れたところにある建設中のビルだった。工事現場の監督の許可を得て署の二階と同じ高さから望遠レンズで覗いてみた。しかし、ガラスが反射するのと遠すぎて、一〇〇〇ミリレンズでも大久保の表情なんて撮れる場所ではなかった。
 でも、それが幸運を産んだ。自分の位置から、署の建物の一階と二階の間に人がひとりかろうじて立てそうな庇(ひさし)が見えた。それに登って刑事課の窓のそばまで行き、そこから調べ室の中を狙えば距離にして一〇㍍前後で、顔の表情を撮影するのが可能になる。
 問題はそこにどうして登るか…その日の夕方。次のような作戦をたてた。
 ――調べが終わる直前に、警察官が署周辺の見回りする。その直後に庇にあがり、刑事課の窓で待機。調べを終えて調べ室を出る大久保を撮影する――
 この作戦に暗室カードライバーのKちゃんからアイディアが出された。それは暗室カーに積んである脚立を使うことだった。
 ――脚立は署の裏側にある草むらに隠しておく。見回りが通過すると同時に、草むらにある脚立を伸ばして梯子にする。巡回が厳しいので、庇に登った後、一旦また草むらに脚立を隠し、撮影が終わった時点で再びかける――
 ついにそのチャンスが来た。懐中電灯を持った警察官二人は我々の車の前を通り過ぎて行った。
 「今だ」
 Kちゃんが草むらから脚立を持ち出して壁にかける。私はカバンにカメラを隠して梯子を登る。ところが梯子は庇まで届かず、梯子の最上段まで登っても、私の身長では四、五㌢は足りない。もうぐずぐずできない。そう思った私は梯子の最上段で体を壁に押しつけるように垂直になり、飛び上がり庇に両手をかけ、懸垂のように登ろうとするが、カメラバッグが重いうえ力のない私には懸垂ができない。
 しかし、降りようとしても脚立との間が二、三十センチもあり、立てないかも知れない…。「もうだめか」と諦めた瞬間、Kちゃんが梯子を登ってきて私の足を支えてくれた。
 こうして庇に登ることができたのだが、庇からガラス窓までの高さは三、四〇㌢しかない。立って歩けば中から見つかってしまう。私はカメラバッグを背中に回し、匍匐前進して刑事課の窓に向かった。
 コンクリートの上だから両肘が痛い。着ている背広の肘が擦れて穴があくかも知れない――そんな思いで二〇㍍は進んだだろうか、ようやく到着した。
 そっと上体を起こして刑事課内を見ると、真正面に調べ室が見えた。入り口のドアが閉まっているが、ドアの上の明かり取りから、明かりが漏れていたので調べは続けられていると思った。だが、私の目の前に、後ろ向きだが刑事がひとり座っている。
 と、突然、その刑事が立ち上がった。窓から庇を確認している。私は庇と窓の間の三、四〇㌢の壁に身を伏せるように隠れた。
 署の前の道路を通行する車のヘッドライトで照らされた位置にあることから、ヘッドライトが途切れたところで上体を起こして部屋の中を覗いた。ところが今度は窓のブラインドが降りている。先ほどの刑事がブラインドを降ろすため立ち上がったのだった。
 腕時計を見た。午後八時だ。ブラインドで撮影はだめかと思ったが、一㍍ほど後ずさりして確認すると、ブラインドとブラインドの間に数センチの隙間があった。
 二〇〇ミリズームレンズで調べ室を覗くと、調べ室の出入り口が真っ正面に見えるばかりか、座っている刑事との距離ができたので、シャッター音で気づかれずに済むという最高のポジションだった。
 覗いて数十秒後に調べ室のドアが開いた。なんと大久保が腰ひもを付けられて出で来た。その頭は読売新聞が掲載したそのままだった。
 私は三回、シャッターを押した。正面と横から、三回目は後ろ姿だった。先ほどの刑事は立ち上がって大久保の方を見ていた。
 (撮った! 撮った! 俺はなんて運がいいのだろう)
 肘の痛さなんか忘れた。帰りは立ち上がって梯子のほうに向かって走った。私が庇から顔を出したのを合図に、Kちゃんが梯子をかけてくれた。しかし、カメラバッグを持っていたのではどうしても梯子の先端に足をかけるのは難しい。
 私は思い出した。新宿署の歌舞伎町交番に潜入した時、あにいに連行する際に使用する捕縄を貰ってカバンに入れてあるのを思い出した。さきほど大久保が付けられていたあの腰縄と同じものだ。
 その腰縄を使ってカメラバッグを先に降ろし、再びKちゃんに下から足を支えてもらい無事に地上に降り立った。
 自動車に戻り、私は無線で支局を呼び出した。
 「大久保の撮影に成功しました! 時間は午後八時。頭は丸坊主…原稿をお願いします」
 支局に着いた。支局員、社会部員が一斉に「良かったねえ」と私に賞賛の声を送ってくれた。嬉しかった。
 私は胸が高鳴るのを押さえて暗室へ。通常の現像時間でセーフライトにフィルムをかざして見ると、どうしたことか何も写っていない。
 「まさか…」
 さらにギリギリまで現像時間を伸ばして、定着液にフィルムを付けて安全な状態にして室内灯のスイッチを押した。やはり写真は写っていなかった。
 ガーンと頭を一撃されたようなショックを受け、手がぶるぶる震えた。暗室を出て、支局内の記者連中に頭を下げた。
 「ごめんなさい。写っていませんでした」
 みんなが「なんで?」と言うように顔を見合わせている。私はカメラを見た。シャッターは一二五分の一、絞りは十一…完全に私のミスだった。シャッタースピードと絞りを確認せずに撮影していたのだ。ASA400のフィルムだから、蛍光灯の下での露出はシャッタースピード六〇分の一、絞りは五・六が限界なのだ。
 Oキャップが本社直通の電話でこう告げた。
 「さきほど連絡した大久保の特ダネ写真ですが…失敗しましたので原稿からその部分を外してください。坊主頭は確認できているのでそのままで結構…」
 本社写真部のMデスクから私に浴びせられた罵声は「お前が丸坊主になれ!」だった。
   □   □
 大久保は二台の車を使い分け、ルバシカを着て画家を装い、「絵のモデルになりませんか」と、若い女性を次々にハント。応じた女性は全て大久保の毒牙にかかっている。
 着衣姿もあれば下着姿もあり、全裸もあった。中には遺体の上に石を置いて、その上から土をかけるなど惨いものもあった。ほとんどの遺体は腐敗が始まっており、水辺の遺体は特にひどく、捜査員ですら目を背けた。そしてその数は八人にのぼった。
 五月から始まった事件が全て立件されたのは八月に入るなど三か月半の長期にわたった。
 昭和二十年から二十一年の敗戦直後の食糧難に目を付け、食糧の提供や就職口の斡旋を持ちかけて女性を誘い、九人の女性を強姦して殺害した「小平事件」というのがあった。
 昭和二十一年八月、東京・港区の芝公園で十七歳の少女の死体が発見されたのが事件の端緒。なぜか大久保事件と似ている。
 当時は終戦直後の食糧難につけ込み、犯人の小平義雄は進駐軍の腕章を利用して「米の買い出し」を口述に女性に近づき、九人の女性を乱暴して殺害している。
大久保はルパシカを着て「絵のモデルになりませんか?」が口述だ。そして八人が毒牙にかかった。
 この時代は高度経済成長期のまっただ中。通信や交通網の発達も与って若者文化は旺盛時代に入っていた。戦後派若者を象徴する「太陽族」からはじまり「カミナリ族」「みゆき族」「ヒッピー族」……そして「アンノン族」が街を闊歩する時代の到来だ。女性誌に横文字が踊り始め、小粋なパリファッションは女性達の憧れを誘った。
 大久保は、そうした若い女性の心をくすぐり、「モデル」という殺し文句を使って犯行に及んだ。小平のほうは生活に直結して食糧や働き口という弱点を突いた犯罪だった。そのギャップが、私はただただやるせなかった。

                                                                      続く

 

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