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2019年4月10日 (水)

昭和・平成の激動の時代に生きて

 第三章 激動の時代
あぶり出し作戦

私が〝事件カメラマン〟になれた理由の一つに、安保闘争という激動の時代背景があったことは言うまでもない。
 闘争を展開する左翼勢力集団の中でも、日本の犯罪史上に残る過激な集団が「連合赤軍」だった。
 「連合赤軍」は、「京浜安保」と「赤軍」が昭和四十六年七月十五日に連合して結成された。連合赤軍のお披露目の集会は、蒲田の公園で行われた。それまでデモ隊が所持しているのは竹槍だったが、彼らが用意したのは鉄パイプ。
 私が集会の取材でカメラを向けると、誇示するかのようにカメラの前に数十本の鉄パイプを尽きだしてきたのには驚いたものだった。
 結成の二年前の四十四年九月三日に、米、ソ両大使館に火炎ビンを投げて「京浜安保」がデビュー。一方「赤軍」は同年十一月五日に大菩薩峠で武装軍事訓練を行い、翌四十五年三月三十一日には、羽田空港で日航機「よど号」を乗っ取るハイジャック事件。
 同年十二月には警視庁・上赤塚交番襲撃事件。警視庁土田警務部長夫人殺害事件、新宿交番爆破事件と爆弾を使用した凶悪犯罪を次々に引き起こしたのである。
 さらに同四十六年二月十七日の栃木県真岡の猟銃強奪事件で奪われた銃が京浜安保に流され、直後から赤軍派によって、関東近県の金融機関を襲撃した「M作戦」が展開された。
 M作戦とは「日本で革命を起こすし、赤軍派として世界革命の司令塔とする〝軍隊〟を組織化してアメリカとの間で革命戦争に持ち込むことが狙いでその資金獲得を敢行する」というふれこみだ。
 このため赤軍派は大菩薩峠を軍隊の訓練の場として大阪と東京で交番襲撃を行い、首相官邸襲撃に備えた。その資金獲得として四十五年二月に千葉県市原市の郵便局を皮切りに七件のM作戦を展開したのである。
  
 こうした情勢から警察庁は四十七年に入り、二月を「指名手配犯被疑者捜査強化月間」に指定。全国で過激派検挙に向けたアジトなどへの「ローラー作戦」を展開した。
 警察の中には〝あぶり出し作戦〟と呼称する幹部もいた。だが、追い詰められた連合赤軍のメンバーが、群馬県の榛名山や妙義山周辺の山中に逃げ込み、次々にアジトをつくっていた。
 それらのアジトを群馬県警が急襲したのは二月十六日から十七日にかけてだった。この急襲作戦はみごとに功を奏し、アジトで連合赤軍中央委員会委員長の森恒夫と副委員長の永田洋子の二人を逮捕。大量の武器・弾薬を押収した。
   □   □
 「長野本部から軽井沢、佐久、臼田の各局、一一〇番入電中…」
 長野県警通信指令台から至急報の無線が賑やかになったのは昭和四十七年二月十九日午前七時三十分を数十秒過ぎていた。
 群馬県警の捜索を受け、隣接する長野県警はこの日は朝から総員四十七人で捜索隊十班を編成。県境を中心とした捜索を実施していた。
 「至急、至急、長野本部から各局、本日午前七時五十九分軽井沢駅発の下り列車に、服装も髪の毛も汚れ放題で異様な臭いがする男女の四人連れが乗り込もうとしている模様…なお詳細は一一〇番受理中…」
 至急報はさらに続いた。通信司令官の声は次第に興奮気味となっていった。
 「長野本部から各局、軽井沢駅の四人組は人相着衣から逃走中の極左集団の可能性があり、各局にあっては受傷事故防止に十分留意した上で身柄の確保に努められたい。以上、長野本部」
 国鉄軽井沢駅周辺で警戒中の軽井沢署員が無線指令を受けて駅に駆けつけるまでには数分もかからなかった。下りの三番線ホームには既に列車が入線。不審者は乗り込んでいるのかホームに人影はなかった。
 署員たちは情報のあった男女四人の車内検索を開始したが見当たらない。列車の発車時刻が迫っている。検索を急ぐ警察官が先頭車両に移った時だった。無線手配に似た男二人と女二人を発見した。
 職務質問した警察官に抵抗する四人。押し問答の末に四人を列車からホームに引きずり降ろした。それでも抵抗は続きホームに降りた途端に逃げようと大暴れ、警察官の手に噛みつく者もいた。
 結局は応援で駆けつけた警察官に制圧され、登山ナイフや散弾銃の実包、鉄パイプ爆弾を所持していたことから銃刀法違反で現行犯逮捕された。この中に赤軍の爆弾闘争の連絡将校、青砥幹夫が含まれていたのである。
 軽井沢駅で逮捕された青砥など四人は連合赤軍派幹部。「重要手配中の幹部逮捕」で県警は活気づいた。
 「軽井沢駅で逮捕した被疑者の軽井沢への侵入経路の確認と未逮捕者の捜索に従事せよ」
 この指令を受けた分隊がある。長野県警機動隊の五人編成の町田分隊だ。時は午後二時三十分丨
 軽井沢で逮捕した四人の足跡を追っていた町田分隊が、北佐久郡軽井沢町レークタウンに到着した。その時、白い雪の平原に群馬県境方向から若草山にかけて数人の足跡を発見した。それは「さつき山荘」へと続いている。
 「まだ新しい。この時期に山荘利用者はいないはずだ。山荘に逃げ込んだ者がいるのでは…」
 足跡を追跡した隊員がそう呟いた。全員に緊張が走った。
 山荘内の人影を確認した午後三時近く、その予想が的中した。隊員が山荘の雨戸を開けた時だった。「バーン」と一発の銃声。隊員の一人が顔に被弾した。当然、分隊は応戦し、静かな別荘地は一転して銃撃戦場と化した。
 隊員との銃撃戦は約二十分間続いた後、犯人達は山荘を出て銃を乱射しながら雑木林へと逃げ込んだ。
 「警察をなめさせるな!絶対に逮捕だ」
 分隊長の檄に、顔を負傷して血だらけになった隊員を含めて五人の捜索隊員は必死で四人を追跡する。
 最初の銃撃現場から五百㍍ほど離れた北佐久郡軽井沢町大字発地のレークタウンにある河合楽器保養所の「浅間山荘」近くにさしかかった時だ。今度は、山荘から隊員めがけて二度目の銃撃を受けた。
 よく見ると山荘三階のバルコニーからのライフル銃による銃撃だった。この犯人たちは、山荘管理人の妻、牟田泰子さん(三一)を人質に立て籠もったのである。時間は午後三時半。これが日本犯罪史上特筆される浅間山荘事件のプロローグだった。
 じつは、そのころ私は、のんびりと猿の写真撮影に夢中になっていた。


   野猿との戦いを征して
 長野県警が軽井沢駅で連合赤軍幹部の四人組を逮捕したころ、私は「暴力猿」を追いかけて千葉県富津町の山奥にいた。
 富津市の高宕山一帯にニホンザルが群棲している。富津市はこの群棲地を観光資源として開園したのだった。
 昭和三十一年に大分県・高崎山の「猿観光」が全国的に話題になっていることから〝二匹目のドジョウ〟を狙い、京都大学の指導を受けて、野猿の餌付けに成功し、観光資源として売り出したのである。
 その後、天然記念物指定を申請。国の天然記念物に指定されるとニホンザルの群棲地は、県の援助を受けて「高宕自然動物園」として開園した。
 ところが客足はなく〝閑古鳥〟が鳴くありさま。おまけに猿の悪戯が周辺住民を困らせ、住民の間には次第に不満が鬱積していった。
 さらに県は、猿の生息地を縦貫する観光道路の建設案を出してきたため、同地周辺は「開発か自然保護か」で大論争にまで発展した。
 私はこの問題を夕刊特集で扱う事になり、取材のため昭和四十七年二月十七日から二泊三日の予定で現地入りしていた。
 国鉄(現在はJR)内房線の上総湊で下車、街はずれに民宿を確保し、タクシーでニホンザルの群棲地の高宕山に向かった。上総湊から国道465号線を山手に進み、途中右折して湊川沿いに二十分ぐらい走ると関豊地区に着いた。
 「自然動物公園の中でもあり、餌付けまでしているのなら、三日ぐらいで取材は済むだろう」
 到着したその日、高宕山周辺を一日中歩き回ったが、猿の姿さえ見ることができなかった。関豊周辺の農家で聞き込みをするため一軒の民家を訪ねた。白いエプロン姿の女性が縁側で縫い物をしていた。五十歳前後の主婦のようだ。
 「自然動物園なんていうものじゃないですよ。あん畜生らはとんでもない悪い奴らだよ」
 少し乱暴な言葉だ。こちらが怒られているような錯覚に陥った。
 「人を襲ってくるしさ…洗濯物を盗むし…ひどいのになると家の中まで入って仏さんの供養物まで盗っていくんだから…あんた、県の人か?」
 主婦の怒りは治まらない。相当、腹にたまっているようだ。
 「いや、新聞社のカメラマンですが、その悪党猿軍団を取材したいのですが」
 「やめときなさい! 襲われっから。あんた山ん中で襲われたら大変だよ。救急車はないし」
 「仕事ですから…」
 「奴らが活発になるのは春先だよ。川の上流の方ではあんた、大豆畑が荒らされ、果樹園の果物なんて売り物になんねえんだってさ」
 私は丁寧にお礼を言って主婦と別れた。翌日、さらに高宕山に近づき南側の関豊地区で取材に入った。
 子供達の通学路となっているが、すでに登校時間帯は過ぎていた。幅五㍍はある通学路をノソノソと歩いているニホンザルの親子らしい四、五匹の集団に会った。
 その集団でひときわ大きな猿と目と目が合った。
 「猿と顔を合わす時は目をそらすな」
 そんな教えを守り、飛びかかられないよう慎重に観察しながら一枚シャッターを押してみた。カシャ。音が聞こえた瞬間だった。
 「キッキ~ッ」と嘆くと集団は走り出した。私はその集団を追った。ところが橋のたもとに付くと、歯をむき出してボスザルが私を威嚇してきた。
 「目をそらすな」誰かが言った言葉を思い出し、睨み返した。その時だった。後ろにいた小猿が私の背中に飛びつき、肩を噛んだり髪の毛までむしりだした。
 「この野郎!」
 大声を出しても言葉は猿に通じない。カメラを振りまわすと小猿は離れて集団で山中に逃げて行った。結局は数枚だけしかシャッターを押せなかった。
 山の中で集団に襲われたら危険と判断した私は、関豊地区の農家を中心に歩き回った。夕方になっていた。三軒はあるだろうか民家に着いた。そのうちの一軒の台所の電気が付いている。
 「ごめんください」
 玄関の戸が開いてエプロン姿の老婆が出てきた。
 「どちらさん、で、す、か」
 私は名刺を出して取材の目的を話した。
 「写真を撮りたいのですが、猿は毎日来るのですか?」
 老婆は怒ったようになって答えた。
 「毎日、来られたんじゃかなわんですよ。で、新聞社が猿に用事でもあるのかね」
 「だから写真の取材なのです」
 老婆の会話は愚痴に変わった。
 「あそこに橋があるだろう。あれ通学路なんだ。この間なんか橋の欄干で子供達を待ち伏せして襲ったんだから…」
 私はその猿が出没する時間を聞いた。老婆が答えた。
 「こんな小雪がちらつくような時は山ん中でいるから出てこなんいだ。晴れると出てくっから…明日でも行ってみたら」
 翌日は見事に晴れた。しかも風がない。絶好の取材日よりだ。タクシーで前日、話した老婆の集落に向かった。
 タクシーを降りてすぐだった。昨日の老婆の後ろの電線にぶら下がるようにして老婆宅に近づいてくる集団があった。
 持っていた三百ミリ望遠でシャッターを押しまくった。それは五匹の集団だった。近くの竹藪の竹が異常な揺れ方をしているのでさらに集団がいると見られる。
 老婆の家は二階建てで、一階と二階の間に屋根がありその屋根に物干し竿があった。男物下着だろうか数枚と作業ズボンのような物とタオルが干されている。
 子猿と思われる二匹がタオルに飛びつき盗ろうとしている。男物の下着には親猿が飛びつき、あっというまにぼろぼろに引き裂かれた。
 良く見ると瓦葺きの屋根には五、六匹はいるだろうか。まるで運動会のように暴れまくっている。子猿がタオルを盗るのに成功して屋根の裏側に消えた。
「よし、撮った。泥棒の現行犯だ。これは使えるな」
 それにしても老婆は気づかないのだろうか、ひっそりとしている。
 「これじゃ怒るわけだよ」
 住民の怒りが納得できた瞬間だった。
 私は仙台市の八木山動物公園で放し飼いになっている猿の取材経験はあるが今回のような野猿の取材は初めてだった。
 過激派の火炎ビン闘争のまっただ中で取材したり、暴力団や暴走族を追っかけたこともあったが、同じ〝荒くれ者〟でも暴力猿集団には苦労させられた。なにしろ、言葉が通じないのに難渋した。
 周辺住民の苦痛を思うのと、意のままに写真が撮れないもどかしさに寝付かれない夜を過ごした。そして最後の日も晴れていた。
 三日目は湊川沿いの畑を回ることにした。この時期の収穫期と言えば春キャベツだ。群馬や長野県では夏、秋が収穫期だが千葉県や神奈川、茨城県などは三月が収穫期で別名「寒玉」と言われている。葉の巻きがゆるくみずみずしいため生食に向いているキャベツだ。人間がこれだから、当然、猿も同じだろう。
 そう思いながら湊川沿いの畑を川下から登って行った。川に近いというよりは山手の畑で春キャベツが植えられていた。良く見ると、所々に食い散らかした跡がある。
 遠くから望遠で除くと数匹が食べているようだが、後ろ姿のため回り込もうと近づいた。
 「キィーキィー」
 後ろを振り返ると小猿が一匹自分を見ている。一匹ではどうしようもないので右足でドンと地面を蹴り、脅した。群れのほうに逃げたので後ろを追う。畑の真ん中まで来てしまった。キャベツを踏んではいけないと思い、畑のはずれの土手側に移動した。
 今度は小猿が泣いて自分を見つめている。さらに集団に追い込むためカメラを持った手を振り上げて威嚇した。
 「キィーキィー」
 小猿が逃げた。面白いから後を追う。畑よりひときわ高い道路に消えたので、さらに追った。
 道路に出た瞬間だった。笹藪の中から親猿が出てきて歯をむき出しにして威嚇してきた。回りを見回すと十数匹の集団に取り囲まれていた。全身から血の気が引くのを感じた。
 エプロン姿の主婦が言った言葉を思い出した。
 「やめときなさい! 襲われっから。あんた山ん中で襲われたら大変だよ。救急車はないし」
 私はカメラをそお~とカバンにしまい、「ご免なさい」と集団に謝り、ゆっくりと後ずさりをした。這々の体で群れからようやく脱出した、午後三時を過ぎていた。
 地元の郵便局まで歩き、そこでタクシーを呼ぶことにした。歩きながら考えた。使えるカットは道路にたむろする猿。集団で電線にぶら下がる猿。民家の屋根で運動会をする集団。洗濯物のタオルを盗み姿を消すまでの連続写真……どう考えてももう一、二カット足りない。
 例えば家の中に入って仏壇からリンゴでも盗む写真が撮れたら最高だと欲が出た。
   □   □
 猿取材を終えて旅館に帰り、取材時間の延長を頼もうと電話をかけた時、受話器の向こうに出たKデスクは、火炎瓶飛び交う修羅場をくぐり抜けてきた先輩でもある。何が縁なのか事件の時は不思議に私と絡んでくる。
 「おい、お前、何をやってるんだ。何処にいるんだよ! こっちは大変な事になっているんだよ!」
 「富津で猿軍団追っていました」
 「なにっ富津だと、そんなのどうでもいい。すぐ帰って来い!」
 当時の産経は、取材内容が多様化していることから事件取材は事件班の責任者。特集などは企画班の責任者を置き、責任を明確にしていた。私の狙っていた「悪党猿集団」は企画担当Sデスクの所管。「すぐ帰れと言われても…」と返答に困っていた。
 「君には軽井沢に行ってもらうから…何があったって? お前には関係ねえ! タクシーでもなんでもいいからすぐ帰れ!」
 電話は一方的に切れた。いつもの怒号だ。確かに〝事件屋〟にとっては、あくまでも発生ものが優先だ。自分にとっても、猿の取材はどうでも良かった。ただ、このまま帰ったら「こんなの使えるか」と怒る企画担当デスクの顔が脳裏に浮かんだ。しかし、ともかく本社に帰ることにした。
 決心をすれば行動は早い。近くの国鉄内房線の上総湊駅まで僅か十分程度の距離だったがタクシーを呼んだ。その車内のラジオから流れていたのは鶴田浩二の「傷だらけの人生」だった。
 藤田まさと作詞、吉田正作曲で、鶴田が手を耳に当てて歌う姿に私は惚れていた。放送はいつも二番で終わることが多いが、私は特に三番が好きなのである。
 ♪まっぴらご免と大手を振って 歩きたいけど歩けない いやだいやです お天道さまよ 日陰育ちの泣きどころ 明るすぎます 俺らには♪
 三番が流れるといいなと思いながら、二番に聞き惚れていると歌の途中でニュースが流れた。
 「途中ですが先ほどもお伝えしましたが、本日午後三時過ぎ、長野県軽井沢の別荘地で逃走中の連合赤軍と見られる数人の男が山荘に立て籠もり、その後、包囲した警察官に発砲してきたということです。これまでのところ、けが人があるかないかは入っておりません」
 ニュースは同じ内容が何度も繰り返された。
事件の内容が分かってしまえば「お猿さん」なんて言っていられない。「一分でも早く現場に行かなければ…」焦る心を抑えて本社に着いた。

   浅間山荘事件
 写真部に着くと、すでに、私の長期出張の手配は整えられていた。
 猿取材で着ていた〝乱闘服〟(火炎ビンなどがとびかうデモ取材用に特別に仕立てた会社支給のカメラマン用の仕事着。機動隊員が着ている濃紺の服に似ている。機動隊員の服をそう呼んでいたように我々仲間の間でも同じ呼び方をしていた)に、腰まである厚めのジャンパーを急いでひっかけて、東京駅から長野行きの特急列車に飛び乗り、軽井沢駅に着いたのは夜の八時を過ぎていた。
 乾いた空気が頬をピリピリと刺すような寒さだ。携帯無線で長野支局を呼んで、現場を問い合わせた。現場は軽井沢町字発地の別荘地「レークタウン」内にある河合楽器保養所「浅間山荘」だという。
 客待ちをしていたタクシーに乗り込んだ。
 「レークタウンの河合楽器、浅間山荘の現場まで行ってください」
 いきなり現場と言われても運転手は困ったようだ。なかなか発車しない。
 「お客さんね、それはあの立て籠もりの現場かね」
 「そう。そこに至急行きたいんですよ」
 「行ってくれって言っても…さっき他の新聞社の人を乗せて行ってきたばかりだよ。非常線が厳重で現地には入れないよ。途中まででいいかね?」
 私も昂奮している。
 運が良かったのは、乗り込んだタクシー運転手が他の報道関係者を乗せていたことだった。タクシーは街を抜けて山道に入ると、まもなく非常線を張った警察官に止められた。私は腕章を見せながら聞いた。
 「すみません。産経の者ですが、現場は何処なんですか?」
 「この道から行くんだが、相手はライフル持ってるから車ではここまで。途中までしか行けないが、あとは歩いてください」
 警察官の「危険だよ」の声を背に、タクシーの精算を済ませ、警察官の言う現場方向に歩き出した。
 路上は五センチぐらいは積もっているだろうか、その雪で明るいのがせめてもの救いだった。所々に木造の家があるがどの家にも明かりがついていない。冬の別荘地はなんとなく物悲しいものである。
 着ているものと言えば、乱闘服に黒のジャンパーだが、履いていたのはくるぶしが隠れる程度の合成皮革の半長靴。どう見ても冬山に入る姿ではなかった。二十分は歩いただろうか人だかりがあった。ここにも非常線が張られているようだ。
 集団から離れ、一人で現場の方向を眺めている綿入りの半纏を着た長靴姿の四十歳前後の男の人に聞いた。
 「現場の山荘に行くにはどう行けばよいのでしょうか」
 「あんたは報道? 俺たちは近くに住んでいる住民だが、ここで足止めになっているんだ。もしここから入れるんだったら、道なりに行くと左側の林が突然開けて山が見えるから、その斜面にへばり付くように建てられているのが浅間山荘だよ。三階建てのように見えるからすぐ分かるよ」
 集まっている人たちはみな長靴を履いている。立番の警察官に腕章を見せて言った。
 「産経です。入ります」
 「この先にまだ非常線があるから、その警察官の指示に従ってくださいよ」
 第二関門は突破できた。十五分ぐらい歩いただろうか、地元の人が教えてくれたように林の木がなくなり、山が見えてきた。
 たしかに斜面にへばりつくように三階建ての建物がある。月は出ていないが雪明かりに照らされている。
 積もった雪で真っ白な山の斜面に一、二階はガラス張りで茶色っぽい外壁。三階に「へ」の字型の屋根とバルコニーがあり壁は白かった。手前の林はすっかり葉を落とし、木の部分だけが黒く点々としており、墨絵のようだ。
 二百ミリの望遠レンズで覗くと静まりかえっている。建物の斜面には人影は見当たらない。
 「よし、この光景を納めておくか…」
 背中に担いでいた三脚を伸ばしてカメラを固定した。その時だった。「パーン、パーン」
 それは乾いた音だった。真っ白な雪に覆われ、音ひとつない深閑とした夜空に銃声がこだました。
 「このぐらいの距離があれば弾は届かないだろう」
 勝手に判断して数回、シャッターを押してさらに山荘に向かった。いつの間にか道は急な登り坂になっていた。
 間もなく警察官四、五人が非常線を張っている場所に着いた。どうやらこの奥に犯人の立て籠もる山荘があるようだ。
 「ここからは入れませんよ。歩いて来たんですか?」
 驚いた顔で私に声をかける制服の警察官。
 「すみません。現地対策本部というか、報道関係者がいる場所はどちらですか?」
 若い警察官が答える。
 「この道は浅間山荘の前を通る道です。一部の報道の方が集まっているのは、この道の先の山荘の反対側にあるNHKの寮付近だそうです。そこに行くにはもう一度戻って下から回り込む必要があります。ここから先は危険なため、我々も含めて通行止めにしてあります」
 「通行止めは分かっているが、自分は報道です。途中から山に入り見られないようにするから通して…」
 食い下がる私。今度は年配の警察官が怖い顔でにらんでいる。その時だった。またパーンという銃声の後にパラパラという音が聞こえた。
 「聞いたかね。相手は銃を持っているんだよ。あのパラパラという音は散弾が木に当たる音だ。それだけではない。相手はライフルも持っている。だからここから先は危ないのだ。報道も警察官も関係ない。完全通行止めだ」
 どうやら諦める以外にはないようだ。運が良かったのはこの非常線から下の今歩いてきた道はカーブになっていて、五〇㍍も歩くと、通りから崖下の方に降りられる場所がある。警察官の視界から消える位置だ。
 「よし、道が通行止めなら山越えしてでも山荘に近づいてやる」
 そう判断した私は元来た道を引き返した。五〇㍍は歩いただろうか、前方から一人の男が近づいて来た。男が言った。
 「小野ちゃん! 小野ちゃんじゃないか」
 社会部のT記者だ。〝事件屋〟という異名を持つ記者だった。
 「この道では現場に行けないようだ」
 彼は用意周到で地図を手にしていた。地図を広げて山手の方を指差しながら説明を始めた。
 「現場の山荘は、この方向で山の斜面の中腹にあり、そこまではここから数百㍍は離れている。だからこの道を回り込むようにして山荘の前に出るしかない」
 「だめ。今、行ってきた帰りだよ。厳重な非常線が張られている。現地対策本部はこの道の延長にあるそうだ。この道からは行けないので今来た道を戻り、左回りで近づくしか手はない」
 T記者の地図を見ながら私は言った。
 「この先の非常線からでも山荘は見えないので、ここからこの林を抜けて山荘まで行こうよ。見つかって人質になったらいい記事を書けるじゃないか…」
 「それはやばいよ。その前に撃ち殺されるよ…」
 「グズグズ言ってないで警察が来ないうちにとにかく林ん中に入ろう」
 道の両側は枯れているので何の木か分からないが、分け入る隙間がないほど密集していた。二人はロープをまたぎ、雑木の枝を折りながら林の中に入った。所々にトゲのある木があるらしくそのトゲが突き刺さった。まもなく茂みを突っ切ると一面が雪野原になった。
 上のほうの数センチは新雪で、寒さのためサラサラした感じだ。二人はさらに進み、なだらかな丘を二つか三つ越えた。直径十センチほどの雑木林になっている。足下を見るとその木の影ができている。
 空を見上げると低い雲越しに月の周りがうっすらと明るくなっている。
 「事件取材でなければさぞロマンチックなんだろうな…」
 しばし見とれる私…。二人はさらに山荘目指して無言で雪中行軍を続けた。突然、林の木の本数が少なくなり見上げるような位置に、あの山荘が見えた。
 「山荘だ」
 振り返った私にT記者が叫んだ。
 「伏せろ!」     
 とっさに、着ている黒いジャンパーを白くして保護色にすることを思いつき、雪の中を転げ回った。
 「あ~良かった。バルコニーに銃を持った男が見えたんだよ」
 しばらく沈黙の時間が流れた。私は声が出なかった。T記者が続けた。
 「ライフルどころかピストルまで持っている。こんなところで取材していると警察と間違えられる。近づけば確実に撃たれる。身を引く勇気も必要だぞ」
 諦めざるを得なかった。ところが今度は山肌が滑るため歩くのが困難。匍匐前進で林の中に逃げ込んだ。
 全身が雪だらけになって逃げ帰った二人。元来た道を戻って行くことにした。しかし私にとっては後ろ髪を引かれる思いだった。
   □   □
 元来た道を何分歩いただろうか、パーン、パラパラという音がこれまでにない大きな音となった。
 そして十一時過ぎ機動隊による説得が始まった。
 「銃を捨てて出てきなさい」
 必死に説得する機動隊のがなりたてる声が夜空にこだました。
 その声に混じって聞こえてくるのが「バーン」「バーン」。その後にパラパラ。
 音の聞こえる方向に行く道を捜して歩く二人。別荘の入り口と思われる狭い坂道があった。二人で入って行くと、木造の二階建ての別荘に着いた。今度は銃声の後のパラパラの音は、今いる別荘の敷地内から聞えてきた。
 「この別荘の敷地内に着弾している」
 二人は同時にそう感じた。
 「見ろよ。あれが立て籠もりの山荘だ」
 三階建ての建物がはっきり見える位置だった。T記者は別荘の表札をメモして、携帯無線を使って本社経由で支局に連絡。支局から現地取材本部に同別荘の「所有者を割り出し」を依頼。借りるよう指示した。
 「だめだ。寒くて待てない」
 そう決心した私は別荘の郵便受けを捜した。手が凍えている。
 「絶対にあるはずだ」
 それは祈る思いだった。郵便受けのカギが空かないので、上部と左右の側面をなで、そして底の下に手をやったその時、何やら張り付けてあった。それはビニールに包まれた玄関のカギだった。
 「事後承諾」――勝手に決め込んで二人で建物に入った。
 確保した〝今夜のねぐら〟を現地取材本部に連絡して三十分は過ぎただろうか、T記者の携帯に本社派遣の自動車の運転担当から無線が入った。
 「何処にいるんだね。今、管理事務所からカギを預かって持って来た」
 自動車課のドライバーのYさんだった。カギを勝手に開けて入ったとは言えないので、管理人からのカギを受け取り、私は郵便受けの下部に元通りにカギを隠した。Yさんが言った。
 「キャップからの指示だが、建物内は電源を切ってあるそうだ。だからこの懐中電灯を使えという。くれぐれも言っておくが、危ないので火を使うなということだ」
 現地取材本部の計らいに感謝した。午前一時を過ぎていた。
   □    □
 部屋に入ると、匍匐前進で濡れた体がしびれてきた。全身が震えだした。ズボンの裾は凍っていた。この状態では凍え死にしそうなので、ストーブを借りることにした。しかし、それが見当たらなかった。私はガラス窓の状態を確認するため懐中電灯を向けて照らしたその時だ。
 「電気つけるな!」
 T記者が叫んだ。そして続けた。
 「相手に、わざわざ知らせるようなものだよ。近いし、ライフルならガラス越しに狙えるからな」
 途端に寒さに怖さも加わり、奥歯がガチガチと音をたて、悪寒状態になった。
 「せめて毛布があればなあ。借りようか…」
 「毛布だけじゃ足りないよ」
 私は懐中電灯を窓に向けないようにしてストーブを捜した。一階の居間では見当たらなかったが、二階に上る階段下に石油ストーブがあった。石油の残りは三分の一ほどだったが、凍った衣服を乾かすことができるだけでも命が救われる思いがした。
 ストーブの温もりに救われ、二人はいつの間にか仮眠していた。
ヘリコプターの轟音で目が覚めた。時計を見ると午前六時で東の空が明るくなっていた。
 カーテン越しに山荘を見上げると、夜に見た時よりは遠かった。およそ三百㍍は離れている。
 左側の壁から煙突が表に突き出てその近くの三階バルコニーに一枚の畳がたてられ、不気味なまでに静かだ。遠く離れていたヘリコプターが山荘に近づく。音が次第に大きくなる。報道関係のヘリだ。
 バッグから望遠レンズを取りだしてバルコニーを覗いたその時だった。ヘリコプターに向かって銃を構える犯人の姿をレンズが捉えた。
 「バーン」「バーン」
 ヘリコプターは音だけなので距離が分からない。何発も続けて撃つのではなく二発撃っては陰に隠れ、また二発撃つ。ライフルなのか猟銃か写真では棒のようにしか見えない。
 「しまった…。もっと長い(望遠レンズ)のを持ってくるべきだった」
 私は反省した。しかし、こんな事件は一カ所でどっしり構えるより事件の成り行きに合わせて移動することから、動きやすい機材を持ち歩くのが〝小野流〟だが、今回はそれが仇になった。
 金嬉老のようなアップ写真だ。ヘリコプターに向かって猟銃を向けるふてぶてしい顔が分かるまでアップにしなければ…。逃走している犯人を表現するには無精髭の顔を撮ることだ。
 しかし、手持ちの機材では無理だった。撮影位置を変えるため、いつの間にか窓のカーテンは全開状態だ。T記者が言った。
 「これでは向こうから丸見えだと思うよ」
 猟銃の射程距離はせいぜい百㍍。しかしライフル銃を持っている。そうなると三百㍍は完全に射程距離に入る。T記者が言い出した。
 「我々を警察と間違えて撃ってくるかも知れないが、受け取り方によっては人質の命にかかわることも考えられる。どうだろう、引く勇気も必要だ」
「人命優先」それが事件取材の鉄則だ。これには私も賛成し、この場での取材を打ち切ることにした。

  □   □
 報道陣の取材用ヘリコプターに発砲した夜明けから始まった籠城二日目――この日から長野県警は本格的な説得作戦に入った。
 「人質の無事救出を大前提に、持久戦もやむなし」と判断したからだ。
 機動隊の指揮車がスピーカーで説得するのだが、犯人たちはその度に指揮車めがけて銃撃する。
 県警は山荘裏側に張り込み地点を設けて被疑者たちの人定割り出しのため千㍉の望遠レンズを構えて写真撮影するのだが、銃撃は容赦なく続いた。このころ三階のバルコニーに犯人達三人が現れて畳でバリケードを補強した。
 そしてこの日、第一の山場を迎えた。現場から約百㍍離れた地点で、人質の夫・郁男さんがスピーカーで呼びかけた。
 「泰子、からだの具合はどうなんだ…俺がそちらに言って話したい…」なんの応答も無い。郁男さんの説得が続く。
 「元気なら顔を見せてくれ…」
 「泰子、電気がなくて寒いだろう…もうすこしだから頑張るんだよ…」
 そして郁男さんはこう訴えた。
 「山荘の中の皆さん、なんの罪もない泰子を閉じこめていることは皆さんの主義に反することだと思いませんか…」
 五分間にわたる郁男さんの説得だったが、山荘からはカタリとも音がしなかった。
 この後、泰子さんの叔父、郁男さんの父母に続いて近所の人たちも次々に説得を繰り返した。
 「顔だけでも見せて!」涙声で訴える人たちの声は標高千㍍の軽井沢高原に虚しくこだまするばかりだった。
 籠城三日目丨とんでもないことが起きてしまった。それはこの日の午前中の出来事だった。
 警察は、浅間山荘立て籠もり事件の前に、長野県警の町田分隊が足跡を追跡して発見した北佐久郡軽井沢町レークタウンの「さつき山荘」での銃撃戦の後に現場検証した際に、山荘から栃木県真岡の銃砲店から強奪された猟銃や実弾の一部を押収。さらに室内に付着していた指紋から、逃走したのは連合赤軍の吉野雅邦と坂口弘らだという確信を持っていた。その数日後には坂東国男の指紋も出てきた。
 このため現地指揮本部は説得作戦の〝最後の砦〟として吉野と坂口の母親を充てることとした。この日の朝は特に寒く感じた。午前九時半ごろだった。山荘周辺の静寂な空気を破ったのは母親二人の呼びかける声……。
 「ねぇ~出てきて…」
 それは腹の底から絞り出すような声だった。
 「どうして出てきてくれないの? だったら電話するから電話だけでいいから出て頂戴…」
 我が息子の罪を軽くする母親の必死の祈り……だが息子達の返事は銃撃だった。なんと母親めがけて発砲したのである。母親らは機動隊の特殊車に乗り込んでいたため難をのがれることができた。
 私はこの時、母親を思い出して何故か涙が出た。就職してから小遣いをせびり、死に目にも会えなかった……親不孝という意味では犯人と同罪のようなことをしてきた自分を羞じる涙だった。
 母親への発砲だけでは終わらなかった。母親の説得の後、なんと山荘北側の道路から一人の男が崖を駆け上がり、山荘に向かった。この時、私は西側のNHKの寮の前線本部にいたので見ることはできなかったが、制止を呼びかける機動隊のスピーカーから異常を感じ取った。他社の無線によれば、男は山荘三階の玄関に到着したという。
 玄関には、夫の郁男さんが書いた犯人と泰子さん宛の手紙が放置されているのを男が発見した。男はその手紙を手になんと、山荘の玄関のドアを開けて山荘内に呼びかけたのである。テレビ、ラジオの実況放送で生々しく伝えている。
 玄関のドアは開いたのだが、中にはバリケードが作られており、呼びかけに応じないばかりか、犯人達は男に発砲した。仰向けにもんどりうった男…頭からはおびただしい量の血が流れている。後に知ったことだが、泰子さんの身代わりになろうと駆けつけた新潟市のスナック経営者だった。
 この情報を記者発表の速報で聞いた私は、改めて一味の凶暴さを再認識。「あの時、T記者の注意に従って山荘に向かわなくて良かった」と胸をなで降ろした。
 「東側の窓から犯人が顔を出し、その撮影に成功した」
 昂奮した社会部の無線が飛び込んできた。撮影したのは、大久保事件の時にバトンタッチした同僚カメラマンの、あのE君だった。
 ピストルを手にした男が窓の隙間から、E君ら機動隊のいる東側の前線基地を睨め付けている写真だった。私が撮りたかった顔写真のアップである。
 E君はタイミングを逃さないため、三脚を立ててカメラを設置。さらにシャッターに指をのせて、セロハンテープで指とカメラを固定してチャンスをものにしたのだという。その日の夜、前線本部では、この特ダネ写真に大騒ぎとなった。
   □   □
 事件から五日が経っていた。この日からの警備方針として警視庁の機動隊二百四十三人が増員され、山荘を取り巻く警備部隊は神奈川県警を含めて千四百十八人の体勢ができあがった。
 山荘の東側と西側に応援部隊が到着した。東側はカメラマンのE君がいる場所だ。
 私がいる西側に〝泣く子も黙る〟と言われる警視庁の精鋭部隊、第九機動隊が到着した。
 同僚に負けた悔しさもあって私は勝負に出た。NHKの寮の前から山荘の玄関に続く道に九機隊員が整列して説明を受けている。
 「到着した機動隊員」の写真だけでは迫力もない。私は機動隊員を手前にしてその向こう側に男が射殺された玄関が入るような位置を探した。
 九機隊員の列の後方に、小高い丘がある。直径二十センチ前後の杉の木の林だ。私は、その小高い丘に入り、玄関が見える位置に行こうとした。同じ事を読売新聞のカメラマンも考えていたようだ。事件現場でよく会うSカメラマンだ。
 小高い丘は二、三十センチの積雪があった。履いているのは現地に来て調達した長靴でも、雪が靴に入るためズボンを靴の外に出すことにした。
 丘の頂上に到達した二人。今度は玄関が正面に見える場所に行くため斜面を下らなければならない。一本一本の杉の木に隠れながら一歩一歩、斜面を下って行った。ところが中腹まで来た時、突然二人が同時に滑ってしまった。
 身体がようやく止まると視野が突然広がった。そして目的の玄関が真っ正面に見える。だが二人の場所には杉の木がまったく無く無防備の状態にさらされたのである。この状況を見た九機の指揮官がハンドマイクで警告してきた。
 「そこの二人に警告する。君たちのいる場所は極めて危険だ。至急離れなさい」
 手前に機動隊員の列が入り、その向こう側にあの男が射殺された三階の玄関が見える素晴らしいポジションだった。
 「撃つなら撃ってみろ」
 こんなに度胸が据わったことは、生まれて初めてだった。慌てずに私はカバンから二百㍉ズームレンズ付きカメラを撮りだして玄関を覗いた。何と玄関のドアの上の壁に穴が開けられ、そこから銃口が機動隊に向けられている。カメラを構えたのに気づいたのか、その銃口がゆっくりと我々の方に向けられた。
 「もはやこれまでか…」
 先ほどまでの〝糞度胸〟に反して今度は身体が凍り付いたように硬直した。
 「帰ろうよ。本当に危ないぞ…」
 Sカメラマンの声が震えている。
 「そうしようか…」
 カメラをカバンに戻し、丘をはい上がろうとするが滑って自由にならない。それでも四つん這いになってようやく二、三メートルほど上にある一本の杉の木にたどり着いた。
 二人は杉の木に隠れ、後ろを振り返ると機動隊員も引き揚げようとしている。Sカメラマンが言った。
 「こんな木で守れるのは精々心臓付近だけ。頭隠して尻隠さずだな」
 さきほどの震えた声は治まっていた。私も冷静に答えることができた。
 「そうですね。機動隊もいなくなったし、引きましょう。命あっての物種だものな…」
 こうして二人は同時に引き揚げることを決め、這い蹲りながら山荘玄関の視界から離れることが出来た。
 六日目になって立て籠もり犯の一人、坂東国男の母親まで登場して説得するも応答はなかった。
 私の手元に「連合赤軍軽井沢事件」(『旭の友』特集号)という一冊の冊子がある。長野県警が綴った事件の全記録である。突入を仕切った機動隊の副隊長、横山信男氏が書いた文章が、浅間山荘事件の苦労をこう表現している。
 「男が命をかけた任務」と題した文章の書き出しだ。
  * * *
 二月十九日以来、あらゆる方途を講じ、力の限りを尽くして続けられた警察の必死の説得、そして、かけつけた両親の涙ながらの哀願…説得に対して犯人らはせせら笑うように、肉親に向け凶弾をもって答えた。
 「チクショウ」と言う言葉意外に表現もなく、ただ、怒りと焦慮にかられ、なんとかしなければ…いや、なんとしても、われわれ機動隊の手で人質を救出し、犯人を逮捕しなければならない。
 * * * 
 警察内部に「強行突入」の具体的な動きが出たのは立て籠もりから三日目の夜だった。
 警察の現地本部では強行救出にそなえて攻撃要員の人選に入った。隊員からは次々に驚きの言葉が飛び出した。
 「副隊長! 飛び込む時はおれを連れて行ってください」
 「おれを検挙の班に入れてください」
 「おれは末っ子だから心配ないですから」
 こうして強行救出に向けて山荘の強行偵察を開始することになった。
犯人は何人なのか? 人質はどこにどうしているのか? 犯人の攻撃力は? バリケードの状況などの情報収集だった。
   □   □ 
 発生から八日が経過した二月二十七日。突入決行日の前夜だった。私は山荘の前線基地となっているNHK寮とは反対の東側の路上で警戒していた。E君が特ダネ写真の撮影に成功した丘の下の道路上だった。
 各社とも夜中の動きに備えて二十四時間警戒体制を敷いていた。我が産経も極寒に耐えるため一人用のテントを道ばたに設営。石油の一斗缶に薪をくべて暖をとりながらの張り番だ。
 「山荘に近づくものは全て銃撃する」
 日本犯罪史上稀にみる凶悪特異な事件とあって、訪れた報道関係者は千三百人とも言われた。
 在京新聞・テレビ各社から週刊誌まで一同に説明が必要に迫られた長野県警は、軽井沢署の道場に報道センターを設け「連合赤軍事件軽井沢警察署特設記者クラブ」と命名。広報担当は長野県警だけでなく警察庁、警視庁から広報専門担当官が集められた。
 二十七日夜の会見で野中本部長は次のように語った。
 「警察は泰子さんの身の危険防止に最大限の考慮をはらったうえ、明日午前十時から強行救出に踏み切る決意をしました」
 この事件の大きな目標は人質の無事救出。そのためには翌日の部隊行動予定の情報提供に対しては、ある程度の担保が必要だ。つまり、報道協定である。その協定は強行突入前日の二月二十七日に結ばれた。内容は、牟田泰子さん救出作業に関する警察の事前発表の全てをオフレコとすることだった。救出された場合の救急車の位置。逮捕した犯人の連行方法。現場の撮影に至るまで詳細なものだった。
 二十四時間警戒のためこの日朝から担当していた私は、徹夜担当の交替要員の到着を待っていた。通常なら交替時間は夕食前後の午後七時から八時ころのはずだ。ところが交替員は九時になっても来なかった。腹が減ってきた。
 私は旅館での夜食を諦めてインスタントラーメンを食べようと、テント近くの道ばたの雪をかき集めた。
 コッヘルに入れてたき火の脇に置いてお湯にしてカップ麺に注ぐのだ。
 「少々灰が入るが空腹を避けるためには仕方がないだろう」
 灰どころか薪からはじける黒い燃えかすも入っている。
 「がまん。がまん。これが野戦場というものよ」
 たった一杯のカップ麺だが、厳しい寒さの中ではご馳走だった。
 食べ終えた時だった。隣のテントから他社のカメラマンが出できて私が雪を採ったその付近で立ち小便を始めた。
 「えっ! まさか…」
 驚いた私は雪を採取した付近の残雪を調べた。五、六十センチはある根雪に、日中降った新雪が積もっている。キラキラ輝き綺麗だった。私が雪を採るため抉った跡を見た。ところが新雪の下の根雪部分が真っ黄色になっていた。それは、まぎれもなく立ち小便の跡だった。
 他人の小便をラーメンの汁に利用したことになる。無性に腹が立ってきた。交替者と言葉を交わすのも嫌になり引き揚げた。
 宿舎兼前線本部で待っていたのは、現場キャップとして交代したばかりのKデスクだった。
 「なにしているんだよ。こんな時間に帰って来て…。打ち合わせなんて全部済んでいるよ。あしたのお前の位置は、ここ」
 地図上を指さして一言だけ言った。配置場所は現場に来るとき最初に仰ぎ見た北側の路上。夜中にT記者と迷い込んだ別荘の近くで、射殺された新潟のスナック経営者が駆け上がってきた崖の下だった。
 「役目は、玄関の壁をぶち破って警察が突入した場合、人質を楯に裏側に逃げるだろうと思われるので、お前は身体を張ってその瞬間を撮るんだ」
 記者発表の内容が分からないが、Kデスクの説明を聞いていると、救出作戦は機動隊員が山荘の南側の三階玄関から突入することを想定しているようだ。山荘は斜面に建てられているため、そうなれば当然、犯人達は北側の一階から崖を降りてくることになる。
 Kデスクが最後にこう付け加えた。
 「いいか、雪の斜面を銃片手に人質の泰子さんを引きずるような犯人達の逃走写真が撮れるのは、この場所しかないのだ。午前四時には配置に付け!」
 この時、午前零時を過ぎていた。
  □    □
 九日目の朝は晴れていたが気温は零下五度。雪を抱いた連山が月明かりに輝いている。
 日本犯罪史上に残る人質救出作戦は午前五時に開始された。生まれて初めて経験するだろう作戦になったのである。
 Kデスクから指示のあった山荘北側の崖下路上に私が配置に着いたのは午前四時半過ぎ。このころから各新聞社やテレビ局、ラジオ各社の記者やカメラマン、レポーターなど百人近くが集まりだした。
 まだ夜明け前。百メートル近く離れた山荘が雪明かりに浮かんでいる。どこかの社のカメラマンが呟いた。
 「これじゃ突撃シーンなんて見えねえよな。俺たちは爆発でもあった場合の保険のための配置か?」
 東の空が白みだす。青空が見えるのに小雪が舞ってきた。私は千ミリの超望遠レンズを三脚で固定。山荘北側三階のベランダに照準を合わせた。そしてもう一台、全景が撮影できる二百ミリのカメラを手にした。
 作戦は警察の警告マイクで始まった。そして三十分後に泰子さんの夫、郁男さんが最後に呼びかける音声だけが聞こえてくる。
 「泰子、もう少しの辛抱だ。がんばれよ…じっと待っていてくれ…」
 山荘は静まりかえり、それがかえってカメラマンや記者に緊張感を与えた。
 午前七時過ぎ、防弾チョッキ姿の警視庁機動隊の決死隊が山荘の東側、西側に到着。配置が完了するとクレーンの先端に直径一メートルはある鉄球をぶら下げた特殊車が山荘の西側から正面玄関に向かった。
 この鉄球で玄関の壁をぶち破り、ガス銃や放水を活用して突入する作戦だ。
 午前八時十五分、クレーン車近くに特殊車両二台が到着して突入部隊を防御する。全て体勢の整った午前八時五十一分、私の耳に飛び込んで来た警告の言葉は次のような内容だった。
 「諸君! 警察はもう待てない…」
 そしてこう続けた。
 「…話し合う気があるなら、銃を捨て、泰子さんを連れて白い布を振って部隊の見えるところまで出てきなさい」
 この言葉を聞いた北側崖下にいる報道陣が緊張した。南側には特殊車や突入部隊がいるので、山荘一階におりて崖下への逃走を予測したからである。しかし、それでも山荘は静まりかえっている。発砲すら無い。
 同様の説得は約一時間は続いた。嵐の前の静けさを破ったのは報道関係のヘリコプターだった。
 パーン、パーン。銃声の音が二発聞こえたのは午前十時七分。続いて鈍い音がバシッ。テレビ局だろうか報道の無線ががなり立てる。
 「攻撃が始まりました。最初の銃声は東側の部隊を狙ったもので、ジュラルミンの盾に命中したようです」
 「けが人はあるのか」
 そしてバシッ、バシッという音が次々に方々から聞こえてきた。
 「けが人は不明ですが警察はガス銃で応戦しています」
 バシッという鈍い音は正門の警察部隊のガス銃による攻撃だろう。私たちは北側で望遠レンズを構えているものの、周囲にはひと一人見えない。見えるのは屋根越しに時折漏れてくる放水銃の白い放水が緊張感を高めた。
 ドーン、バリバリという音がしたのは午前十一時少し前だった。各社の携帯無線から「今、突入に向けた警察の総攻撃開始」と興奮した声が聞こえてきた。バリバリの音は鉄球が玄関の壁をぶち破った音だった。小雪が舞っている。
 順調に進むかと思った十一時二十七分、警視庁の第二機動隊員が突入を図った際、相手からの銃撃が一段と激しくなり、玄関前道路の土嚢で指揮をしていた警視庁特車中隊長、高見繁光警部(後に警視正に特進)が山荘からの銃弾で倒れ、病院に収容されたという情報が無線で流された。
 各社の無線が騒々しくなった。その騒々しさがさらに増したのは十一時五十四分。今度は「内田尚孝第二機動隊長(後に警視長に特進)が撃たれた」の各社一斉報告だった。
 その後も山荘からの銃撃は続き、強烈な爆発音も聞こえた。北側崖下の我々報道陣が一瞬緊張したのは、泰子さんが監禁されている三階の窓が開いた時だった。窓から白い煙がもくもくと出てきた。その直後に銃を持った一人の男が顔を出した。
 報道陣からは「坂口だ」の声が飛んだ。望遠レンズでベランダに照準を合わせていたので撮影は怠りはなかった。ガス銃攻撃に耐えかねて窓を開けたものか、あるいは連中が逃走方向を確認したのか、いずれにせよ急展開の可能性を直感した。
 十二時二十六分の「高見警部死亡」、午後四時一分の「内田隊長死亡」の報に、警察の劣勢が心を過ぎった。
 間もなくだった。今度は三階の同じ窓から機動隊員が旗を振るのが見えた。望遠レンズで確認すると、それは警視庁第九機動隊の隊旗だった。何処かの社の無線が「泰子さん無事救出」の一報を流した。私はシャッターを押しながら涙が出てきた。涙は止めどもなく流れた。声を出していたに違いない。
 第九機動隊には知人が多かった。日比谷や有楽町における過激派暴動の際には、火炎瓶からの身の守りかたなどで隊員から指導を受けたこともあった。市ヶ谷にある部隊の暗室にお邪魔して写真の引き伸ばしをしたこともあった。
 その部隊が制圧という大役を果たし、二百時間以上にもおよぶ闘いに終止符を打とうとしている。警視庁の警察官の殉職と引き替えに、人質を無事に救出したという感激の涙だった。
 そんな事を考えながら、修羅場となっているであろう山荘の正面に向かった。山荘前の路上に出た時、運よく連行される犯人と遭遇した。どういう訳か他社のカメラマンがいない。カメラを構えたその瞬間、機動隊員に両腕を掴まれてはじき飛ばされた。土手の上から各社カメラマンの罵声を浴びた。
 「協定違反だ。お前は何処の社だ」
 産経の前線基地にたどり着いた途端に、今度はKデスクの怒鳴り声だ。
 「泰子さんの写真はどうした。病院まで行くのがお前の担当だろう!」
 泰子さん担当とは聞いていなかった。
 「特オチになったら、お前の責任だぞ!」
 Kデスクの罵声は続いた。
 銃器を持った立て籠もり犯を総攻撃する警察。警察官が撃たれた現場中継など生の迫力あるテレビ中継の映像は国民を震撼させた。
 真冬の軽井沢の戦いは二百十九時間ぶりに人質が救出されて終了したが、在京テレビ各社は全社が中継車を総動員。NHKは五台出動。午前九時四十分から午後八時ごろまでぶっ続けで放送。人気番組の朝の連続ドラマ「繭子ひとり」もすっ飛んだ。
 民法のフジテレビも午前九時五十分から連続九時間に及ぶ特別番組をCMスポット無しで放送するなど、事件中継としては歴史に残るものとなった。
 ところが事件はこれだけでは終わらなかった。犯罪史上最も凄惨な大量リンチ事件が発覚したのだ。
   □   □
 浅間山荘事件の逮捕者五人と軽井沢駅で職務質問によって逮捕した四人の計九人を調べていた「連合赤軍軽井沢事件捜査本部」が、衝撃の事実を知ったのは昭和四十七年三月七日だった。
 日本共産党神奈川県委員会を母体とする日共革命左派が、昭和四十五年十一月から赤軍派と連合して「人民解放遊撃隊」を結成。反政府闘争の武器とする銃器を入手するため銃砲店や交番を襲撃。
 銃器を得た遊撃隊は武闘訓練として山岳アジト(ベース)を置き、戦闘能力を高めていった。だが、武闘訓練の厳しさに落伍者が出たり、組織に反抗して逃走する者が出たのである。
 その現象は榛名ベースで最も激しく、連合赤軍は逃走の恐れのある落伍者を処刑、「総括」として次々に殺害していった。
 殺害方法はアイスピックで突き刺したりロープで首を絞めるなど、凄惨なリンチを繰り返して、赤軍派五人、日共革命左派七人の計十二人が犠牲になった事件だ。
 警察は、昭和四十七年三月にリンチ殺人の供述を得て遺体の発掘作業を開始した。第一報と同時に、私は群馬への出張を命じられた。浅間山荘事件から帰って十日も過ぎていなかった。
 取材は、死体発掘現場の撮影だ。我々は発掘作業を「穴掘り」と言った。それは見事なもので〝穴掘りの群馬県警〟の威名まで付けられたのである。
 供述に基づき死体を探すのだが、それは警察官が鉄パイプを土中に突き刺してパイプから漏れてくる死臭を嗅ぐというもの。〝原始的手法〟と言ってしまえばそれまでだが、このアイディアは群馬県警が最初ではないかと思っている。
 事実、この事件では千葉県警で二体が発見されているが、発掘して死体が無ければ埋め戻し、さらに別のところを発掘する――を繰り返していた。
 さらに群馬県警には、もうひとつのアイディアがあった。鉄パイプで死臭をかぎ分けて死体を探し当てた後の処理である。
現場検証など全て終わった段階で、カメラマンなど報道関係者の現場取材が許されるのだが、他県警と違っていたのは、発掘した穴の中に、白いテープで死体の状況を象ることだ。頭の位置から屈折した体の状況、さらに手や足の伸ばし方まで一目で分かるように描かれている。
 現場は、死体をすでに運び出した後とはいえ、かなりの死臭が残っている。おかげで私はその後、ウジ虫がわいている死体でも内臓が飛び出している死体などどんなに腐敗した死体を見ても平気で仕事ができるようになった。 

  連続企業爆破事件
 昭和五十年五月十九日の産経新聞朝刊一面トップ記事はスクープ記事で飾られた。
 「爆破犯 数人に逮捕状」
   三菱重工など解決へ突破口
     けさ、10カ所を家宅捜索
 この原稿は業界用語で「前うち原稿」と呼ばれ、他社に先駆けて「犯人をきょう逮捕するぞ」と事前に読者に知らせる特ダネ記事。この特ダネこそ事件記者冥利に尽きると言われている。
 読者の中に犯人がいれば、同時に犯人側も知ることになり、逃亡や証拠隠滅、場合によっては犯人に自殺の機会を与えるというリスクも伴うことから、捜査当局からは歓迎されない。
 ところが産経は、なんと爆弾を所持する最も危険なテロリスト逮捕に向けて「前うち原稿」を書こうというのだ。
 遡ること十カ月前の昭和四十九年八月三十日午後0時四十五分。首都・東京のど真ん中、JR東京駅と皇居に挟まれ、日本経済の中枢を占める大企業のビルが林立する丸の内オフィス街で、昼休みというサラリーマンの憩いの時間を一瞬に奪い取った「三菱重工爆破事件」が起きた。十一階建ての三菱重工ビル正面玄関前のフラワーポット脇に仕掛けられた爆弾が爆発。八人が死亡、三百八十人が重軽傷を負う大惨事となった。
 事件は翌月の九月二十三日に「東アジア半日戦線 狼情報部」と名乗りマスコミに犯行声明が寄せられたことから極左集団による犯行が明らかになったが、同グループによる犯行は、この事件だけでは終わらなかった。十月十四日には三井物産本社に時限爆弾が仕掛けられ、警察官四人を含む十六人が重軽傷を負った。十一月二十五日には日野市の帝人中央研究所、十二月十日には銀座の大成建設本社に爆弾を仕掛け九人に重軽傷を負わせている。同グループによると見られる爆破事件は翌年の五十年になっても続いた。二月には間組本社、四月には韓国産業経済研究所などと連続的に発生した。
 こうした一連の事件に警視庁は、連続企業爆破事件として「非常事態」を宣言。公安、刑事の両部からなる捜査本部を設置した。捜査本部の設置場所も極秘扱いとなっていた。
 執念の捜査の結果、五十年五月十九日朝に犯人グループを一斉逮捕するところまでこぎつけた。
 グループの教本「腹腹時計」も入手するなど早い段階で情報を掴んだ産経は、独自に裏付け取材を続け、警視庁の一斉摘発と同時に報道することができるまでになっていた。
 産経のF警視庁キャップは十八日夜、「前うち原稿」の通告のため土田国保警視総監公舎を訪れた。そして、こう切り出した。
 「長い間の苦労が実りましたね。いよいよ明日ですね。俺たちも今夜、出稿します」
 この言葉に、笑顔で応対していた土田総監の表情が変わった。
 「待ってください。捜査上、大変な支障をきたすことになる。なんとしてもストップしてもらいたい」
 テロリストが逮捕より前に産経新聞を見れば逃走されるばかりか爆弾を爆破させ一般市民への被害が心配される――当然、土田総監は「人命に関わる問題だ」とあって反対した。
 二人は十年来の長い付き合いをしている。Fキャップにとって最も信頼を寄せている人でもあった。だがFキャップは新聞記者として出稿を止めることはできなかった。二人の間に沈黙が続いた。そしてFキャップが口を開いた。
 「一応、社に帰って幹部と相談します」と言うのが精一杯だった。腹の中ではGOサインを決めていた。
 前うち原稿の場合は、「事前に書きますよ」と通告しないで掲載してしまう場合もある。これは〝闇討ち〟のような卑怯なやりかたで、信頼関係を損なう場合さえある。今回のように通告すれば、警察側は「待ってほしい」と答えるのは当然だった。
 (土田総監は「待ってほしい」と答えたことで「明日逮捕」は間違いない)とFキャップは確信した。問題は、信頼関係の深い土田総監と不眠不休で犯人を追い続けた刑事たちに対する配慮だ。
 産経新聞の印刷は朝刊が六版から十五版まで版取りされている。最も早い降版(印刷開始)時間は、日付の前日の午後五時五十分の六版で、東北方面に配布される。最も遅いのは都心部に配布され最終版十五版で当日の午前一時二十五分が降版時間だ。
 六版から十四版までは、印刷のできあがりが早い時間帯のため他社に掲載内容が漏れる危険性が高い。このため新聞各社とも、大きな特ダネは最終版にのみ掲載するのが習わしになっている。
 新聞を見たテロリストが自爆した場合、一般市民に被害が及ぶ危険性がある――「爆破犯数人に逮捕状」の特ダネを掲載すべきか否か――編集局内ではこの日の夜、保秘のため別室を設けるなどして検討を進めていた。Fキャップが土田総監公舎から帰社。その感触をもとに、さらに議論を進めた。
 得られた結論は「朝刊の遅配作戦」だった。一般人への被害防止を考慮したのは勿論だが、犯人に逃亡の機会を与えないためには、犯人を一人残さず逮捕するまで掲載紙を流通させないという、新聞界では初めての作戦だった。
 漏洩防止は、印刷が完了した段階から、社員に対しても「社外持ち出し禁止」とするほど厳しいものだった。
 「遅配作戦」という手段で最終的にゴーサインが出されたのは降版時間直前だった。
 降版を終えた深夜の午前二時。取材態勢として社会部員と写真部員に非常招集がかけられた。
 だが、じつはその四時間ほど遡った午後十時過ぎには、極秘に写真部員だけに早々と招集命令が出でいた。
 一斉逮捕は編集局内でも極秘とされ、関係者以外は直前まで知る由もなかったが、いよいよ実行される時を間近にして、社会部デスクから写真部デスクに一足早く内々の情報が伝えられたのだった。
 大スクープ目前の報を受けた当直のKデスクがW写真部長と相談、ただちに写真部全員の緊急呼び出しを決定した。
 記者は筆記用具とメモ帳を持っていれば現場に行かれるが、カメラマンは機材を持って出なければならない。その機材は本社に置いてあるので、午前二時に呼び出しをかけても現場配置は間に合わない。早めの対策が必要という判断があった。
 その日、私は休暇をとっており、長女の出産が近づいていた妻を新潟県寺泊町の実家に送って行って、東京・板橋区高島平の自宅に帰ったのは午後十一時を過ぎていた。帰宅早々、テレビをつけてニュースを見たが大きな事件の発生はなかった。
 安心して眠りに就いて暫くしただろうか電話が鳴った。時計は午前一時を過ぎていた。電話の主はKデスクだった。
 「なにやってんだよ。何回も電話したが出なかったじゃないか! すぐ出て来いよ。全員出勤なんだからさ」
 そう言えば「休暇」での行き先までは届けていなかった。突然の電話で何が発生しているのか分からない。
 「なにかあったんですか?」
 「馬鹿野郎! そんな事聞いている暇があったら、出て来いってんだよ。来れば分かるよ!」
 「ガチャン」耳が痛くなるほどの音がした。Kデスクとはどうも反りが合わない。いつものことだが理由を聞かされないまま出社することになった。だが、終電の時間がギリギリだった。
 そこで私は高島平駅前交番に駆け込み、タクシーが拾える最も近い場所を聞いた。若い警察官が教えてくれた。
 「駅の線路の反対側に草が生い茂った広場がありますよね。そこで運転手が仮眠をとっているのを見たことがあるんですよ。行ってみたらどうですか」
 警察官の情報はありがたかった。草むらに隠れるようにタクシーが四、五台止まっていた。いずれも電気を消している。まるで車庫のようだ。一台に近づき、運転手がいるのを確認して窓を叩いた。
  □     □
 私が四階の写真部に着いた時は午前二時半を回っていた。部室は入り口にサンケイスポーツの写真部があり、その奥が私たち産経本紙の写真部員が待機する机のブロックになっている。
 ドアを開けると夜勤のサンスポのカメラマンが私の顔を見るなりこう言った。
 「あれ! こんな時間にどうしたの?」
 私は説明するのも面倒なので、挨拶程度の言葉を交わして奥へと進んだ。だが誰もいない。デスク席の後の壁に模造紙に書かれた配置表が貼られていたが、泊まりの部員はもちろん、肝心のKデスクの姿もなかった。自動現像機の電源も落とされているのだろうか静かだ。
 配置表には荒川区南千住、北区中十条、警視庁、愛宕署などと具体的な場所が書かれているのと「社会部同行」として担当カメラマンの名前が書かれているだけで、事件名などタイトルがないので何の事件か分からない。配置人数を見ると三分の二ぐらいで、全員ではなかった。羽田勤務や夜勤、泊まりなどルーチン勤務者は外されているようだ。
 デスク席の後に置いてある警察無線(警視庁と各署、各パトカーの連絡用無線)が騒々しくないので、私は、列車脱線とかこれまで相次いだ爆弾事件のような大きな発生ではないだろうと予想。ともかく望遠レンズなど重量機材を外し動きやすい必要最小限の機材を、シーンとした部屋で黙々とバックに詰め込んだ。雨が降りそうだったので念のために折りたたみの傘も入れた。                           
 社会部や政治部、経済部などの記者がいるのは三階の大部屋の編集局。写真自動現像機など装備資機材や引き延ばし用暗室を抱える写真部は四階にあった。社会部で打ち合わせを終えたKデスクが、四階の写真部に上がって来たのは、それから数分後だった。
 「遅くなってすみませんでした」
 口は悪いが気の良いKデスクのいつもの穏やかな表情は消え、顔が引きつりかなり緊張しているようだ。しかし、呼び出しの時の様な言葉にトゲがなかった。
 「お前は本当にFちゃんから何も聞いていねぇのかよ。事件屋だろう。大変なんていうもんじゃないんだよ。世紀の特ダネだ。ほら」
 Kデスクは机上に置かれた新聞を顎でしゃくった。見出しが見えないように伏せてあった。サンケイスポーツのカメラマンや取材要請で出入りする他部の記者連中に漏れる危険性があったからだ。事件取材の経験がなく、他社のカメラマン同士が〝仲良し〟の集団だから、「うっかり」喋られるのが怖いのだ。
 私は、特ダネと聞いて心臓に高鳴りを感じながら紙面を手にした。それは十九日付けの刷り上がったばかりの朝刊で、インクの臭いが鼻を突いた。
 一面には「爆破犯数人に逮捕状」の黒ベタ凸版の見出しが躍っていた。なんと、昨年、現場に出ることができずに歯ぎしりしたあの三菱重工爆破事件の、一斉逮捕を報じる「前打ち原稿」だった。
 (爆弾魔という凶悪犯の逮捕なのにこんな事を書いて大丈夫かな)と思うと同時に、別の取材で記者クラブに行くとホテルに部屋をとっているなど何か隠れて取材しているような雰囲気を感じていたので、これがそうだったのかと納得した。
 「特ダネなんだからさ、漏れちゃ困るんだよ。うちの部員は口が軽いんだから」
 家を出る時に、呼び出しの理由を聞いても答えてくれなかった訳が理解できた。
 紙面を見て私はしみじみと思い出した。
 丸の内の三菱重工で爆発事件が発生した日のちょうどお昼頃、私は立川で開かれた日教組大会を取材していた。右翼による日教組大会への妨害行為の警戒取材だ。どういう訳かこの日の右翼の動きは鈍かった。
 その取材中に他社のカメラマンから「東京駅近くでタンクローリーの爆発があったらしい」と聞かされた。
 夕刊段階の締め切りが過ぎて引き揚げるため、写真部に「帰るコール」の電話を入れた。そして例の〝タンクローリー爆発〟を確認したら「爆弾事件だよ! 忙しいので電話を切るぞ!」と言われてしまった。
 「事件取材に命を賭ける」と自負していただけに、戦後最大(当時)のテロ事件と言っても過言ではない重大事件の取材に参加できなかったことを悔やんだのだった。
 □     □
 思い出していると、いきなり背後からKデスクの声が聞こえた。
 「ところでお前の名前はあったかなあ…あれっ、書かれてないねぇ。適当でいいや。愛宕でも行くか」
 指示されたのが新橋の愛宕署だった。署には先輩がすでに行っており、仕事はその先輩に従えという。
 社会部記者とペアで地下一階の車庫から車で向かうことになった。残っている車は緊急事件に備えた車両一台だった。緊急待機車両を使用する場合は社会部と写真部の両デスクの了解が必要なのだが、配車デスクは私の顔を見るといつも出してくれた。
 深夜の都心の道路はガラガラ。大手町から愛宕署に着くまで十分とかからなかった。この僅かな時間だが、〝事件屋〟の私の胸は早くも高鳴っていた。
 警察署の周囲に止まっている車は一台も見当たらない。決着しようとしている重大事件のプロローグにしては余りにも静か過ぎる。社会部記者に聞いた。
 「本当にここでいいの? 署内に行ってみようか」
 「だめです。絶対だめです」
 私は、なす術もなく先着している先輩に無線で指示を仰ごうと思ったがその先輩の車すら見当たらない。携帯無線にはイヤホーンが無いため音声が全て外部に漏れてしまう。極秘作戦なのに第三者に聞かれるおそれのある無線を使って良いのかも心配した。時計を見ると午前五時になる前だった。
 なんとなく不安を感じたその時、「小野! 小野!」と先輩の強烈な叫び声が無線で流れた。T先輩の声だ。
 「いま、署の裏側にある駐車場から一台の車が出た。灰色のライトバンで品川56ね3××1の捜査車両を追っかけてくれ。逮捕に向かうのだからどこまでも着いて行けよ。気づかれないようにな!」
 社から愛宕に向かう途中で、同乗の社会部記者から聞いたのは、警視庁は連続企業爆破事件で愛宕署に公安部が裏の捜査本部を置いていたのだという。
 それにしても私が出社する前に配置についたはずのT先輩。私が何処にいるのか知らないはずなのに、なんで呼んできたのか分からなかった。
 追尾の指示を出したT先輩は、逮捕後に連行されてくる犯人の写真取材のための配置だろうと思った。他に何人も取材に出ているのに無線連絡もまったくなく静かだったが、最後に配置についた私へのこの一報が静寂をやぶることになろうとは想像もしていなかった。
 運転手は、本社自動車課員の中でも最も小柄なYさん。身長が小柄で、運転席に座ると乗っているかどうか分からない事から〝無人車〟のあだ名が付いていた。
 社歴が古く、ベテラン運転手だ。ハンドルさばきはナンバーワンの腕前。事件現場に駆けつけるのに一分一秒が争いになるカメラマンにとってはありがたい存在だ。彼自身も事件現場に駆けつけるのが好きで、いつも快く引き受けてくれた。
 愛宕署前から見る東の空は白々と明け雨が降り出している。我々の車は署から離れた場所に駐車しているため「駐車場」と言われても灰色の捜査車両を探すのに苦労した。
 さすがはベテラン運転手。署の駐車場を出て御成門方向に向かい、日比谷通りを右折しようとしている捜査車両の後にピタリと付けた。確認すると捜査車両には運転担当のほか、二人の刑事が乗っているのが見えた。
 「気づかれないように距離をおいて行きましょう」
 Yさんは「分かっているよ」と言わんばかりに「ああ?」と生返事をした。
 その車は日比谷通りを北上している。早朝とあって交通量が少ない。今度は「追っかけている」と思われないように一定の距離を置くYさん。数百メートルは走っただろうか突然、相手はスピードを上げた。
 「ほうら逃げ出したぞ」とYさん。
 「気付かれないように」と言っても、広い通りを走っているのは捜査員の乗った車両と我が社の二台だけだ。しかも、我々が乗っているのは黒塗りで屋根から無線のアンテナが出ている。誰が見ても報道関係の車と分かってしまう。だからYさんは生返事をしたのだ。当然、私も分かってはいるが、先輩の指示でもあった。
 捜査車両は、ぐんぐんスピードをあげていくが、雨で濡れた車道は危険だった。間もなく外堀通りを左折して溜池方向に向かった。と思うと今度は右折して桜田通りを走るなど霞が関の官庁街をグルグル回り、追跡する我々の車両を振り払おうとさらに加速した。
 早朝の官庁街…空は白々と空けだしたばかりで、それがビルのシルエットを濃くし、まるで影絵のようだ。一人も歩いていない。そんななかで二台の車の動きはどう見ても異常行動だった。
 溜池交差点を右折して霞が関の高速入り口方向に向かった。左右二車線ずつある広い道だが走行している車は一台もない。捜査車両は左寄りの車線を走っている。しかし、首都高速の入り口は中央にある。
 「くそ、高速に入らないつもりかな!」とYさん。
 「いや、入ると思いますよ。路面が雨で濡れて滑りやすいので我々はセンターライン寄りを走りましょう」と提案する私にYさんが言った。
 「ゴジャゴジャ言わないで、歯を食いしばって黙って乗ってろ!」
 そう言えば、Yさんと最初に会ったのは、私の羽田勤務の時に羽田に迎えに来てもらった時である。私は疲れてつい居眠りをしてしまった。高速道路上で突然止まったので目が覚めた。そして怒られた。言葉使いが丁寧なのだが、それだけに威厳を感じる。
 「俺らは一生懸命に仕事をしているんだよ。それなのに君が寝るとはどういうことだ。ここから歩いていけよ」
 こんな人柄を知っていたので「黙って乗ってろ」のYさんの言葉を私は苦にしなかったが、社会部記者がムッとしている。
 車が右に左に進路を変える度に、車全体が横滑りしているように感じた。我々の予感が的中した。タイヤを軋ませながら捜査車両は急ハンドルを切り、霞が関ランプから首都高速に入ったのだ。それでも振り払えない捜査車両は京橋方面へ。なんと今度は京橋ランプから一般道に出てしまった。そして車両は築地署に入って行った。
 (ばれてしまったため現場に行くのを諦めたのかもしれない)と思った。
 私のこの刑事の追っかけは「尾行」とは言わない。刑事が容疑者の行動確認の時に尾行をかける。相手のうしろを気づかれないようにこっそりつけて行くことだ。私も経験があるが、知られないようにするのはそれなりに難しい。例えば反対側の歩道を歩くなど一定の距離を保ち、あくまでも一般通行人を装うのだ。感づかれたら即、中止しなければならいない。担当者を変えてもう一度やり直すのだ。
 ところが、追いかけられているのを知って逃げようとする場合の「追っかけ」は、追いかける相手の動きが見えるため、お互いに次の行動を読み取るという心理的な戦いになる。
 一挙一動を見て次の行動を読み取らなくてはならない。一方、逃げるほうは、次の行動を相手に読めないような振る舞いが必要になってくる。一種の心理戦だがこれに反射神経が要求される。
 最初の勝負どころがやってきた。「裏口から出るのでは…」そう判断した私は社会部記者と二人で、歩いて署の裏口に向かうことにした。Yさんには署の正面で見張り待機をお願いした。
 運がよかった。勘が見事に的中したのである。待機中のYさんから社会部記者の持つ携帯無線機に連絡が入った。ボリュームが大きいので絞るよう社会部記者に注意した。Yさんは昂奮しているようだ。
 「先ほどの捜査車両が正面入り口から出てきました。ただし、乗っていたのは運転担当が一人でした。車はそのまま走り去ろうとしているが、どうすれば良いか…どうぞ」
 「そのまま待機して下さい」。そう返事するしかなかった。
 「裏から出てきた二人は歩くつもりかな」と社会部記者と顔を見合わせた。よく見ると署から呼んだのかタクシーが一台、実にタイミング良く二人の刑事の前に止まり、二人を乗せて走り出した。六時三十分だった。
 「正面に待機してある車を呼んだら見失う…」。追っかけはここまでかと諦めたその時、一台のタクシーが我々の方に近づいてきた。刑事たちの車とは十秒と差は無かった。
 歩道で手を挙げる社会部記者……私は道路中央に飛び出して、タクシーの正面に立ちふさがるように両手を広げた。「キッキー」タクシーが急ブレーキをかけて止まった。雨でスリップしたのだろうか、私の身体に触れる寸前だった。タクシーの運転手が助手席のガラスを下げて言った。
 「危ねえじゃねえかよ」
 私が両手を合わせて「ご免なさい」のポーズをとったのを見た運転手がドアを開けてくれた。
 「あの車を追って下さい」と嘆願する私に、運転手は怪訝な顔で言った。
 「何かあったのですか?」。詳細は言えないので「済みません。前の車は警察の人が乗っているので離されずに追って下さい。何かあったら俺たちが責任をとります」。
 社会部記者は押し黙ったままだ。あとは何処をどう走ったか定かではなかった。当然、我々の追尾に気付いた刑事が乗ったタクシーは、大手町から上野方向にジクザク運転を繰り返しながらスピードを上げていく。官庁街からビジネス街へ……そこはもう影絵ではなかった。早朝出勤するサラリーマンの姿もチラホラ見られた。と、その時、タクシーが突然、止まって一人の刑事がタクシーから降りた。二手に別れようとしているのだ。
 (降りた刑事はダミーなのかも知れない……。記者は現場に居合わせなくても原稿は書けるがカメラマンは現場にいないと写真は撮れない)
 そう判断した私は、タクシーを降りた刑事を社会部記者に任せることにした。
 〝事件屋カメラマン〟と自負している私は、少しでも可能性を秘めた「逃げる刑事」に賭けたのだ。その刑事は黒のダスターコートを着ていた。
 
 散々逃げ回ったあげくタクシーは高架橋のガード下の交差点に止まった。田舎者の私にはどこの駅なのか分からなかった。刑事がタクシーから降りた。
 停車した交差点の反対側に駅舎の入り口が、その奥に改札口が見えた。信号は赤。刑事が走り出した。私は刑事を追った。昂奮しているので私の顔に降りかかる雨の冷たさが心地よかった。幸い早朝なので通行車両は少なかった。刑事は改札を警察手帳で通過した。
 カメラマンは駅構内などで通勤風景の写真を撮影する時がある。その時は、駅長の許可を得れば、腕章で構内に入ることができるという国鉄本社広報との暗黙の了解がある。私はそのシーンを思いだした。
 しかしそれはあくまでも駅長の許可が必要で、私がこのまま電車に乗るとすれば無賃乗車という犯罪になる。でも切符を買っていては刑事に逃げられる。「ここが勝負の分かれ目」と私は判断した。噛みついたら離さない性格だからだ。
 私は走りながら、カメラバックから小型のカメラ一台と腕章を取り出し、改札の駅員に言った。
 「産経ですが、取材で入ります」
 通過した直後に全力疾走で刑事を追った。あまりの堂々さに、駅員は理由を聞く時間も余裕も無かったのだろう。幸い構内も空いている。階段を駆け上がって行く刑事。相手は身長があるだけに歩幅の違いからか私より早い。
 (やっぱり警察官は体力も必要なんだ。しかし俺は体力がないのではなく身長が低いだけじゃないか)こんな思いで追いすがった。
 しかし、追いつけなかった。むしろ差が開いた。運が良かったのは私が高架ホームまで登り切った時、ちょうど電車が入ってきた。ホームの中間付近にその刑事がいた。通勤時間が始まっているというのにホームの人影はまばらだった。
 「みかわしまあ~ みかわしまあ~」
 そのアナウンスで、この駅が「国鉄・三河島駅」だったことが分かった。時計の針は午前七時を指している。
 三河島と言えば常磐線。慌てているので国電の行き先は分からないが、その電車に刑事が乗ろうとしていることだけは確かだ。一点に集中しすぎなのか思考能力が低下。ホームのまばらな人影の理由は想像できなかった。
 私と刑事との距離はドアひとつ離れている。いよいよ心理戦のはじまりだ。
 ドアが閉まり出す。私は閉まるドアを手で押さえ、刑事の乗った場所のドアが完全に閉まるまで待った。閉まるのを確認してから乗り込んだ。またも読みは的中した。
 電車は、間もなく次の駅に到着する。私はさらに考えた。「相手は、これから犯人を逮捕しようとしている。自分のようにカメラを持っている男がいては、仕事にならないのではないか」
 ましてや公安の刑事。マスコミに易々と追いかけられるようでは、後に処分を受けるかもしれない丨丨丨そう同情した私は刑事の仕事に配慮するためカメラをバックにしまい込んだ。
 雨がまだ降り続いている。乗り込んだときの高架ホームには屋根がなかった。折りたたみ式コウモリ傘はカバンに入れたままだ。傘を手にしていることが自然な振る舞いだと思った私は、カメラの代わりにコウモリ傘を取りだし、〝骨〟を伸ばしていつでもさせる様に手に持った。
 電車は次の駅に滑り込む。ここで大事なのは、相手の動きから次の行動をどう読み取るかだ。相手が私を見ている時は、私を牽制しているときだ。しかし、私から目をそらしている場合は、安心感を与えて裏をかく行動にでる危険性があるのでそれに備えた態勢をとる必要がある。これが「追っかけ」の基本だが、その場合は反射神経の優劣が全てを左右する。
 車内アナウンスでは、たしか南千住と言っていたような気がした。と言うことは、私は今、下り線に乗っていることになる。だから三河島駅のホームは空いていたのだと初めて気付いたその時、ドアが開いた。
 刑事は降りようとしない。刑事からドアまでの距離は一㍍もない。車内は空いている。飛び出すのには二、三秒あれば良いだろう。刑事は先ほどから私の方とは逆の方向を見ている。「勝負に出るな」と思った私は、一応ドアの近くに移動。閉まりかけたドアを足で押さえた。刑事は別の方向を見ているにしても手で押さえれば相手に見られてしまい行動が中止される危険性があるからだ。
 案の定、刑事が飛び降りる。私も飛び降りたが、タイミングが悪く、持っていた傘が閉ったドアに挟まれた。引き抜こうとしたが、両方のドアにはゴムが着いているのと折りたたみ傘を伸ばしているものだから、骨の中間にデコボコがあって引き抜けない。ドアから二十㌢は飛び出している。電車が走り出した。
 (このままでは次の駅のホームで待つ客が危ない。無賃乗車をしてさらにケガ人でも出したら大変なことになる)と思い、私は走りながら電車に追いすがり、さらに引き抜こうと試みた。それでも抜けない。電車のスピードがあがる。仕方がないので傘を折ろうとしたが、クッションがあって折れない。しかたがないので車両に平行になるまで折り曲げた。
 その作業を終えて刑事が逃げた方向を見ると何故か、刑事は十メートルほど離れて私の行動を見ていた。
 傘を折り曲げたあと、刑事の目と私の目が一瞬だが合ったような気がした。その瞬間、刑事は一目散に走り出して階段を降りて行った。
 私が傘を引き抜こうとしてもがいた時間は七、八秒。刑事が走って逃げていれば、階段を降りている時間だ。
 「逃げれる気があれば逃げられたのに…」
 それなのに刑事は私の行動を見ていたのだ。それも、あの公安のデカがだ。待っていてくれたのかもしれない丨丨丨ドラマを見ては涙がでるなど涙腺の弱い私は、人情の機微に触れた思いがして涙がこぼれてきた。
 逃げている刑事の歩調が改札付近で突然緩み、トイレに入って行った。待っている間に私は涙を拭きながら決心した。
 「こうなれば名乗るのが仁義だ」
 トイレから出て来た刑事にお願いした。
 「産経新聞の小野と申します。済みません。事件取材には慣れています。連れて行って下さい。絶対に迷惑はかけません」
 哀願する私の声は当然、涙声になっていた。刑事が答えた。
 「困る。俺は責任者じゃない」
 しかし、その後の刑事は、もう、逃げようとはしなかった。
 警察手帳で駅の改札を出る刑事。私はそれに続き、こう言った。糞度胸がついているから言えたのだ。
 「同じ仕事です」
 駅員は唖然として何も言わなかった。
 駅舎を出た刑事は小走りだが左に向かった。その先には商店街、そして国鉄のガードがある。その手前のバス停あたりに、黒のスーツ姿の複数の男達を発見した。街路樹で雨をしのいでいる。中には雨の中だというのに新聞を広げて見ている男もいた。黒いダスターコートの刑事は走り出し、ガードの先に消えた。私と同じように傘は持っていなかった。
 ガードを潜った左側には地下鉄日比谷線の入り口があり、右側は国鉄駅の敷地。引き込み線と貨物駅になっている。
 広場になっているため人影はないが数台の車が止まっていた。その中に「わ」ナンバーのレンタカーも見える。私は「ここが逮捕の現場だ」と確信した。刑事たちは張り込みや尾行の時は良くレンタカーを使うからだ。
 すると、私の背後から肩を叩いた男がいた。振り返って見ると、先ほどまで私が追っていた刑事とは違っている。メガネをかけ長身でスーツ姿の幹部風の刑事だった。その刑事が私に言った。
 「分かったよ。この周辺で捕まえるから…絶対に気付かれないようにできるか? 俺たちは命をかけて追ってきたんだ。カメラなんてチラッとでも見られたら逃げられる危険性がある。約束できるか?」
 鋭い目つきはこれまで見たことがなかった。言葉遣いは丁寧だが声に威厳を感じた。私は「宜しくお願いします」と頭を下げた。頭を下げた瞬間、髪の毛から雨しずくが顔を伝ってしたたり落ち、顔がグチャグチャになった。メガネはさらに曇り、周囲が見えなくなっている。
 私がメガネの曇りを拭き取り終わるころ、刑事は地下鉄出入り口からガードをくぐり、国鉄の出入り口へと移動して行く。逮捕に備え配置に着くのだろうと思った。
 国鉄駅舎入り口の右側の売店に赤の公衆電話機があった。築地署に放置したY車両に引き揚げの連絡を写真部に依頼するため受話器を取り上げて十円玉を入れる。無線機では声が漏れるので遠慮したのだ。
 同時に一人の男が、電話機のフックを押して、声も出さずに厳しい目で首を横に振った。「電話をするな」と言う意味だと解釈した。それにしても、私を監視している刑事までいるうえ、声を出さずに止めさせる行為に公安デカの凄さを知らされた。
 傘がないため全身がびしょ濡れだった。これではカメラを取り出した時にレンズが曇るなどの影響で撮影ができなくなる危険性がある。
 とりあえず、体からしたたり落ちる雨しずくを無くする必要があり、駅舎の出口付近で、ハンカチを手に身体を拭きながら待機することにした。
 カバンに入れてあったモータードライブ付きのカメラを取りだし露出を設定した。手ぶれを防ぐにはどうしても125分の1秒が必要だ。さらに被写体にピントを合わせる場合の焦点深度に幅を持たせるため絞りを8にして被写体までの距離を十メートルに設定した。これだと二十メートルぐらいまではピントが合うからだ。カメラをバッグに戻した。
 何処に、何人の刑事たちがいるかを把握しておく必要があった。目で追いながらバス停に二人、その近くの街路樹の下に二人。ガード下に二人…頭のなかに叩き込んでいった。
 駅舎の建物の右手から流れてくる人混みに目を移した。その流れは、国鉄で降りた客ではなく、国鉄や地下鉄にこれから乗り込む客の流れだった。
 その中に、先ほど、私に声をかけた刑事の姿を発見した。その瞬間、その幹部刑事が右手の親指を立て周囲の誰かに合図を送った。
 「うん、これが合図だ」と思い、駅舎から刑事の歩く人の流れに近づきながらバックからカメラを取り出そうとした。しかし、どの男が犯人なのかまだ私には分からなかった。ましてや親指のサインを見逃していれば刑事の行動さえ気づけなかった。
 よく見ると、これまで立ち止まっていた男達が一方向に向かって動き出していた。バス停を過ぎたあたりから、黒っぽいジャケットに白ズボン姿の細面の若い男を中心に黒背広の男たちの輪ができているように見えた。
 それでもまだ私にはその男が犯人とは決められなかった。周囲にも複数の通勤者がいるので見分けがつかないのだ。数秒は過ぎただろうか。先ほどの長身の白ズボン姿の男を中心にできていた人の輪が徐々に狭くなって行くことに気付いた。
 雨に濡れ、チャックが開きにくいバックからようやく、カメラを取り出すことに成功した瞬間だった。ガード下めがけて、その集団は急ぎ足になった。カメラにはモータードライブが付いており、自動巻き取りで連続的に撮影が可能だ。
 「カシャクーン」「カシャクーン」……私は、その集団を後方から追いかけながらシャッターを押し続けた。後姿も前身も関係ない。写真にしなければいけないからだ。
 ガードをくぐり抜けた辺りで集団の前に出ることができた。聞こえるのは私のカメラの音と集団の忙しない足音だけだ。
 カメラのファィンダーを覗く余裕なんてなかった。被写体までの距離は十メートルに設定してある。焦点深度で二十メートルくらいは許容範囲だ。集団の中心にいる白ズボンの男の顔が隠れないように確認しながら、シャッター押し続ける。
 集団の中心にいた白ズボンの若い男は、髪の毛を綺麗にふっくらとリーゼント型にした細面でひ弱に見えた。まったく普通のサラリーマンである。
 これまでの逮捕の瞬間の取材では、犯人が自分にカメラを向けられていると分かると「やめろ!」と罵声を浴びせてきたり、中には蹴りを入れてくる凶暴な犯人さえいる。
 ところが、この青年の場合は違った。私の方を見ないで真っ直ぐ前方を見つめている。紙袋を小脇に抱え黒のブーツをはいた青年の足が突然、雨の歩道で小さくもがいた。捜査員に両腕を捕まえられた瞬間だった。
 表情は先ほどとは違い、今度は目を細めている。傘を持った右腕も新聞紙を持った左手も捜査員にがっちり捕まれている。それなのに男ばかりか刑事の中にも声をだす者は一人もいない。聞こえないのではない。口が動いていないのだ。
 男は慌てずもがかずだ。どう見ても、爆弾犯人の逮捕劇とは思えない。一瞬「俺、本当に、爆弾犯人逮捕の写真を撮っているのかな?」と疑問を感じた。逮捕の瞬間や連行は何度も経験しているが、万引犯の逮捕の時よりも静かな逮捕劇なのだ。国鉄と地下鉄日比谷線の昇降客の中にこの出来事に気づいた人はおそらく一人もいなかったろう。
 腕時計を見たら午前八時二十八分だった。集団は引き込み線広場に止めてあった一台の黒塗りの車の横で立ち止まった。地下鉄入り口からもこの場所は見えない位置にあった。刑事が後部座席のドアを黙って開ける。男は持っているコウモリ傘を両手ですぼめて一言も発せず自ら乗り込んだ。最後まで無言の集団だった。
 静かで何か物足りなさを感じたが、車内を見ると逮捕令状が執行されている。それも撮影しなければならない。
 シャッタースピードもレンズの絞りも変える余裕すら無かった。というよりは昂奮していて忘れたのか、いや変える時間がなかったのだ。車内は極端に暗かった。男を乗せた車が走り去った後、125分の1と絞り8では明らかに露出不足だと気が付いた。背筋が凍った。
 時計の針は午前八時三十分を過ぎていた。夕刊締め切りまであと二時間。先ほどの公衆電話で写真部に連絡した。
 「南千住駅前で男一人を無事逮捕しました。名前は分かりません」
 「写真は撮れたのか! お前しかいないんだよ」
 それは怒鳴り声に近かった、
 「ええ撮りましたよ」
 私は冷静に答えた。今度は、フックを押す男はいなかった。
 「電車で来いよ。茅場町で乗り替えれば三十分もかかんないだろう」
 「撮りました」と言ってしまったものの心配が残っていた。露出不足は避けられなかったからだ。みごとな追跡をしてくれた運転手のYさんに礼を言いたかったが、連絡がとれなかった。途中で分かれた社会部の記者の事も気になったが、締め切り時間も迫っているので日比谷線の地下鉄に飛び乗った。
 通勤時間帯だった。全身ずぶ濡れの状態で乗ったものだから、私を見て逃げ出した女性客や、「近寄るな」と怒り出す男の客もいた。「新聞社の腕章」を付けて乗れば良かったと反省した。しかし、今度は料金を払っているので堂々としていれば良いのだ。
 茅場町駅で乗り替えて社に到着したのは午前九時半過ぎ。私を見るなりKデスクが言った。それは昨夜から初めて聞く優しい言葉だった。
 「良かったな。ほかは全員がまかれちゃってさ…。現像はこっちでするから社会部が原稿書いてくれって言ってるんだ」
 原稿と言われても、そんな心の余裕なんてありゃしない。それよりも写真が写っているかどうかが心配なのだ。
  □     □
 最新式の自動現像機はプラスチックのリーダーペーパーに引っ張られてフィルムが機内に送り込まれていく。露出不足のような場合は現像液につけておく時間を長くすればよい。つまりスピードを遅くするのだ。
 フィルムは最初に現像液を通り、次に乳白材を落とす定着液を抜けて水洗に入る。水洗いを終えたフィルムはやがて温風の乾燥室へ。この乾燥室の上部はガラス張りになっており、写っているかどうかを最初に確認ができる窓でもある。
 白黒写真の場合はネガフィルムなので光があたっていなければ透明(すなわち写っていないということ)。光があたっている場合は黒くなるため写っているのだと分かる。現像時間を八分に設定しているため、フィルムが乾燥室に到着するのには通常は四、五分だが七分かかる。自動現像機にへばりつくようにして出来上がりを待った。
 これまでの仕事で、この時ほどの緊張感は経験がなかった。
(写っていなかったらこの窓から飛び降りて自殺でもしようか…)。窓は上下のスライド式で、ちょうど私のロッカー前に位置している。そこまで考えた。トイレに行きたくなったが我慢した。雨で下着まで濡れてしまったためか、自動現像機の温風もあって蒸し暑さを感じ、額に汗がにじみ出た。
 いよいよその時が来た。ガラス越しに覗くと、フィルムを送り出すローラーの隙間から黒い部分が見えた。これで一安心だ。やがてフィルムは排出口から出てきた。窓にかざして見た。連行の部分は写ってしかもピントも合っていた。
 「写っていた!」
私はつい大声を出してしまった。
 フィルムをデスク席のネガを見る台に置いた。しかし、令状を執行している車内は写っていなかった。
 Kデスクがルーペで覗く。何も言わない。他のデスクたちはネガを見ながら「なんでもう十センチ右によらなかったのか」「シャッターチャンスが早すぎる」などと小言を言うがKデスクだけはそんな評価はしない。「終わってしまったのに文句を言ってもしかたがない」が彼の持論だ。出たのは次のような言葉だった。
 「一面と社会面の写真はこれでいける。問題は社会部がまかれてしまったので原稿だ。下(三階をそう呼んでいる)に行って話してこいや」
 取材中からの興奮状態の心の切り替えができないまま、トイレの後、三階の社会部の遊軍席に向かった。撮影の瞬間を記事にするためだ。遊軍席に着いた途端、後ろから追いかけてきたKデスクが言った。
 「そんなのどうでもいいから次の仕事だ! 奴らのアジトが見つかったんだ。地下室が爆弾製造所らしい。行ってくれよ」
 原稿は書け、現場に行けと言われても……困っていると、社会部の敏腕記者として知られるT記者が声をかけてくれた。
 「俺が書いてやるから、行ってこいよ」
 ここは名文家のT記者に任せることにして追跡状況を全て報告した。彼はメモをとるわけでもなかったので、報告は五分程度だった。そして再び緊急待機車両で、奴らの爆弾製造地下室取材のため赤羽に向かった。
 多くの現場では報道関係者は立ち入り禁止になっているはずなのに、なぜか制限はなかった。爆弾製造所といっても六畳ぐらいの部屋の床板を取り払い、地面を掘りさげたようなもので、開けられている一階の窓から卓上用の蛍光灯が置かれた机のような作業台やペール缶、金鋸などが散らばっているのが見えた。
 こんな住宅地で爆弾が作られていた…と思うと背筋が凍ると同時に治安の現状を憂いた。
 全ての取材を終えて写真部に引き揚げたのは昼を過ぎていた。W部長が笑顔で迎えてくれた。
 「よかったなあ…小野」
 天涯孤独の私は、W部長とNデスクの二人に、親代わりになってもらって結婚式をあげている。生まれてこの方「とおちゃん」の愛に飢えていた私だったが、この言葉に初めて親から褒められたような気がした。その感動も刷り上がった夕刊を見てさらに大きくなった。
 一面、社会面は全段ぶち抜きでの扱いだった。一面は「爆破犯女性含む七人逮捕」の黒ベタ凸版の見出しが躍り、あのひ弱な長身の青年が雨の歩道を連行される写真が載っていた。その男の名前は大道寺将司。極左集団「狼」のリーダーで荒川区南千住に住んでいた。
 そう言えば、彼らの教本「腹腹時計」に「表面上は普通の生活人に徹すること」と書かれている通りでテロリストのお手本のような男だった。その無表情がかえさって不気味にも感じられた。
 社会面は「記者は見た!撮った!」「雨の駅前、逮捕の一瞬」として、大道寺が警察車両に乗せられる瞬間の表情アップ写真が掲載され、原稿は追っかけから逮捕までのドキュメントだ。紙面の半分以上を締め、私の署名入りの原稿となっていた。
 今回は爆弾を持っている危険性のあるテロリストの逮捕。アパートの玄関ドアをトントンとして捜査員が部屋に入って逮捕するというのは自爆する危険性もあるので、公安部は通勤途中の集団の中で、ごく普通の万引き犯よりさらに静かに逮捕したのだった。
 極秘ミッションだったので、張り込んでいる同僚カメラマンの無線が周囲から聞かれるのを恐れ、私は無線連絡するのを控えていた。持っていた携帯無線機はスイッチを切り、バッグの中に入れたままだった。このため、誰がどこにどう張り込んでいたのか、どう動いたのかなどは知らない。だから、Kデスクの言う「お前だけだ」がどうしても信じられなかった。
 後日、週刊誌に「〝青年の足が雨の歩道で小さくもがいた〟の文章を「今週の名文」と紹介された時は、何か「こそばゆい」感じで、編集局内は大手を振って歩けなかった。
 夕刊を見た写真部のNデスクが言った言葉を忘れることができない。
 「こういう時はな、手錠がキラリと光る写真を撮るんだよ。そうすれば(写真)記者協会賞をもらえたのに……」
 私に「自動車の中に差し込む光線とカメラポジションの位置を考えて撮れ」と言っているのだと解釈した。専門家の言う「ライティング」という技術だ。残念ながら私は、あくまでも「自己流」でそんな写真学科的な技術はなかった。しかも〝ヤッチャ場〟である。
 事件取材に賭けた自分の道が間違っていなかった――私は自信を持ち、間もなく生まれる子供に誇れる仕事ができたことに満足した。
 数年後に聞いた話だが、私が追いかけた刑事を含めて連行写真に写っていた刑事たちは全て担当を外されたという。顔が紙面にはっきり載ってしまったので、極秘捜査中心の公安デカとして監視や行動確認、尾行ができなくなってしまったのだ。
 このスクープをものにした警視庁担当の取材班には菊池寛賞と日本新聞協会賞が贈られ、私もご相伴にあずかった。さらに私は東京写真記者協会のニュース部門賞を受賞したが、刑事たちを思うと申し訳なさが残った。
 やがて、このスクープ激写は、私の人生を大きく変えていくことになる。達成感と満足感の余韻の中にいた私には知る由もなかった。

美味しかった土田総監のカクテル
 後日、私はFキャップに連れられて土田國保警視総監公舎を訪れる機会を得た。事件が一段落して総監にご挨拶に伺うことになった時、「一緒に行くか」とFキャップは声をかけてくれた。あの特ダネを撮ったカメラマンとして、私を総監に紹介してあげようという心配りがあったのだと思う。
 総監公舎は千代田区一番町にある。あれは入社して二年目の昭和四十六年夏の話である。公舎に爆弾のような不審物があるのを警察官が発見した。不審者を逮捕しようとしたが逃げられるという〝事件〟があった。
 当時はニュースにならなかったが、後日、この話を知った私は、夜、総監公舎を見に行った。「どんなところに住んでいるのだろう」と思ったからだ。警察官になりたいと憧れ続けていた自分。ただ単純にトップの人の住まいが見てみたかった。
 ところが建物前の路上を一回だけ行ったり来たりしただけで制服の警察官から職務質問を受け、こっぴどく怒られるという苦い経験があった。しかし今度は堂々と入れたのだ。
 土田総監とFキャップは警察官と新聞記者以上の深い仲にあった。記者が警察官から情報を得るための夜回りでは、土田総監好物のそばを寿司のように海苔で巻いた「ソバ海苔巻き」を一緒に食すなど民子夫人からも信頼は厚かった。
 「夜回りでな、俺が先に自宅に行っていると、帰ってくるなり、一時間ぐらい寝かせてくれと言って玄関でバタリと倒れて眠り出すんだよ。ところが、本当に一時間で起きるんだよなあ。勿論、そのあと対応してくれるんだが、あれは特技だよ」
 こう話すとき、Fキャップの目は輝いていた。
 警察官になりたくてもなれなかった男が警視総監と直に話せる――夢のような話である。たとえ警察官になっていたとしてもそれは実現しなかっただろうと思うと、胸が熱くなった。
 公舎の応接室で、総監は白い開襟シャツの普段着姿でにこやかに我々を迎えてくれた。
 丸顔で眉は濃いが優しそうな目つき、特に笑顔の時の表情からは愛情がにじみ出ており、警察官というよりは「学者」と思われるような高貴な方だった。
 土田総監は自ら〝記者殺しのカクテル〟を作って勧めてくれた。ベースになった酒は教えてもらえなかったが、たぶん焼酎だったと思う。グラスに四十五度の角度でレモンを飛ばすというもので、その量などは高度なテクニックが必要だと自慢していた。
 透き通るように綺麗で適度な爽やか感があり、ベースの酒にはクセがなかったこともあり、記者たちはついアルコールの度数も忘れて飲み過ぎて、そのうち正体不明になってしまうのだと、楽しそうに話す土田総監の笑顔は今でも忘れることはない。
 土田総監は、若いときは「警視庁のプリンス」と呼ばれ、長じては「ミスター警視庁」とも呼ばれた。剣道の達人としても有名で、米国「ワシントン・ポスト」に、〝サムライ・ポリス〟として、竹刀を振る姿の写真が掲載されたこともある。
 総監に就任しても毎週月曜日には所轄の警察官と稽古を共にして一緒に風呂に入り、車座になりお茶を飲みながら話し合うなど第一線の警察官を大事にした〝異色の総監〟だ。
 その総監が痛ましい事件の被害者となった出来事がある。「悲劇の警務部長」とも言われた事件だ。
 警務部長時代の昭和四十六年十二月十八日に、自宅に送られてきたお歳暮に偽装された小包郵便物を民子夫人が開封した瞬間、爆発。夫人が死亡し、そばにいた四男が重傷を負った。床に直径六〇センチの穴があくほど威力のある爆弾だった。
 事件当日、記者会見で土田警務部長が述べた言葉が印象的だった。
 「私は犯人に言う。君らは卑怯だ。家内には何の罪もない。家内の死が一線で働いている警察官の身代わりと思えば、二度とこんなことは起こしてほしくない」
 折しも、その二ヶ月前の八月には目黒の警視庁職員住宅、九月には新宿の警視庁第四機動隊、十月には葛飾区の警視庁家族寮、世田谷区の警視庁職員寮、十一月には上野署竹町派出所、赤羽署宮堀交番、杉並署、十二月には中央署茅場町派出所……ほかにも多数の交番や派出所など警察関係施設が無差別に狙われ、世の中全体が騒然としていた。
 民子夫人が犠牲となったあの事件以降、土田さんは新左翼過激集団に対し、より一層の強行姿勢で臨むようになり、それが警視総監時代の連続企業爆破事件犯七人逮捕にまで繋がっていったと言える。
 私の「警察官になれなかった理由」などをツマミに杯を進める三人。美味しいカクテルは私を心地よく酔わせてくれた。そして土田総監が言い出した。
 「小野さんと記念写真を撮ろう」
 二人で居間に飾られた戦艦大和の写真の前で記念写真を撮ろうということになった。写真の下には長椅子が置かれている。シャッターを押したのはFキャップだった。
 我々を迎えてくれた時は、ノーネクタイで白い開襟シャツ姿の普段着でリラックスしていた総監だったが、私の横に座ったとき、わざわざ背広に着替えネクタイをつけた。たった一枚の写真でも、疎かにしない律儀なお人柄に、「これが人の上にたつ人の思いやり」なんだと教えられた。
 土田総監は東京帝国大学の法学部を卒業、元帝国海軍の軍人となった。その大日本帝国海軍が建造した最強の戦艦と言われたのが戦艦「大和」。排水量六万㌧以上で、四六センチの主砲を搭載した「世界最大の戦艦」とも言われた。
 土田総監は乗艦することはなかったが、「大和」に続いて就役した大和型戦艦「武蔵」の乗り組み員だった。マリアナ沖海戦に行っていた昭和十九年九月、海軍経理学校に転勤になり、航空母艦・雲鷹で日本に帰国途中、香港沖を航行中に魚雷を受けて沈没した。海に投げ出された土田総監を救ってくれたのは戦友だった。
 戦友は雲鷹の乗り組み員で泳いでいる土田総監に自分が使っている救命具の浮輪を渡してこう言ったという。福井キャップが本人から聞いた話だ。
 「お前は日本の再建のために働いてくれ…」
 戦友はそう言い残して帰らぬ人となった。この言葉が土田総監の人生に与えた影響は大きかった。まさに国のため国民の安全を守る警察官僚になったのだった。
 土田総監は警視庁管内のどこかに「大和」名のつく警察署を作りたいというほど心酔しきっていた。その大事な大和を背景にしての記念写真は、今でも私の宝である。
 三人での話が弾みカクテルの酔いが回ってきたころ、土田総監がFキャップに、こう言った。
 「それほど警察が好きなら警視庁の専属記者にしてやればいいだろう。将来はキャップにな…」
 Fキャップはどんな返事をしたか記憶にない。自分としては、年齢が三十一歳になり、これから新聞記事の執筆を一からやり直すのに抵抗感があったのは言うまでもない。だが、中学を卒業するときに言われた駐在さんの言葉を思い出した。
 「壁にぶち当たったら回り道を…」
 警察官ではないが、あこがれの警視庁という建物内で「正義」を求めて仕事ができる……。
 私は、あのNHKが放送していた「事件記者」のドラマを思い出した。
 昭和三十三年から始まったNHKの連続ドラマで、四十一年まで放送された。私が見たのは後半の二、三年だったが、新聞社でアルバイトをしていた時なので興味を持った。
 俳優の永井智雄演じる相沢キャップと年上でベテラン記者・八田さんを演じる大森義夫らの東京日報の記者たちが、居酒屋「ひさご」を舞台に他社と繰り広げる虚々実々のかけひきなどが面白かった。その事件記者になれるかも知れないのだ。そして警察官との関係は土田総監とFキャップの様に人とのつながりを大事にする記者になりたいと思った。
 この年の文藝春秋七月号に、Fキャップの名入りで連続企業爆破事件の取材を振り返った「腹腹時計を追跡して」と題する原稿が掲載された。
 その中で私は「スッポンの小野」と命名された。
 食らいついたら死んでも離さないスッポン。最後まであきらめずに事件を追い続ける私は、そう、スッポンだ。
 望むところの称号を頂き、その後、事件カメラマンから事件記者へと転身してからも、事件取材は誰にも負けないぞという自信を深めていった。
                        
 初めてテレビ出演したのもこのスクープのおかげだった。産経新聞警視庁担当記者二人と私の三人は当時のフジテレビの昼のワイドショー『三時のあなた』に出演したのだ。
 『三時のあなた』は月曜日から金曜日までで放送時間は午後三時から同五十五分。司会者は曜日によって違い、月曜日と火曜日は森光子、水曜日が寺島純子(現・富司純子)、木曜、金曜が扇千景。私が出たのは寺島純子が司会をする水曜日だった。
 寺島純子と言えば芸名が藤純子で一世を風靡した女優。昭和四十三年から四十七年まで東映の『緋牡丹博徒』で主役を演じ、キネマ旬報賞で女優賞をとっている。私はこの映画がたまらなく好きで年一回のシリーズは全て見ていた。藤は「お竜さん」役を努めた。
 九州の博徒・矢野組の組長の娘として生まれた竜子は、殺された父親の犯人を捜すため旅に出る。全国の賭場を流れ流れていくうちに、ついた異名が「緋牡丹のお竜さん」。物語は父親に代わって矢野組の二代目組長に治まるのだが、紺の地に真っ赤な牡丹の入った着物姿で、賭場に乗り込み、いかさまを見抜くお竜さん……。
 映画もそうだが、藤純子が歌う緋牡丹お竜の歌は、「傷だらけの人生」と合わせて大好きな歌だ。
 ♪ 娘盛りを渡世にかけて 張った体に緋牡丹燃える…♪
 番組打ち合わせでその憧れの藤純子と会ったとき、私は年甲斐もなく顔がほてり、言葉さえ出なかった。
 結果は、本番では背広の左肩に隠してある隠しカメラの話をすることになっていたのだができなかったなど最悪となってしまった。
   □   □     
 芸能人の話が出たついでにと言っては何だが、お竜さんに続いて、もうひとつ夢のような話がある。それは昭和の大スター、石原裕次郎の取材だ。
 あれは裕次郎が解離性胸部大動脈りゅうで入院して退院した時だから昭和五十六年の秋だった。当時、裕次郎は日本テレビの『太陽にほえろ!』のボス役を演じていた。警察ものが好きなだけでなく、少年時代からの大ファン。当然、時間が許す限り見ていた。
 退院して「帰ってきたボス・クリスマス・プレゼント」に出演する復帰一作目を前にインタビューすることになったのである。
 当時、産経新聞は夕刊一面に「,81話題をさらった15人」のタイトルで各界各層の話題の人物を取り上げており、読ませる企画でもあるが、写真を三枚使うという「3コマ写真」で話題をさらった企画だった。
 日頃、殺伐とした仕事が多い私に、写真らしい仕事を与えてくれたデスクに感謝した。入社したとき、「事件を撮るカメラマンとして採用したのだ。女優なんぞ撮れると思うな」と言い含められていた。そういうものだと思いながら事件屋の道を走り続けてはきたが、キラキラしたオーラが放たれる人物写真の撮影に胸が躍らぬわけがない。
 記事の取材は済んでいるため、写真を撮る私一人で世田谷区成城の裕次郎宅に伺った。その時、裕次郎は庭にある紅葉を背景に週刊誌の取材中だった。
 取材が終わり、週刊誌のカメラマンが帰った後、応接室に入った私に裕次郎は笑顔で言った。
 「初めてかな…何処かでお会いした?」
 私は裕次郎が慶応大学病院に入院、奇跡の生還を果たして屋上で散歩した時に、遠くから取材している旨を話した。
 「直接、お会いしたのは初めてです。宜しくお願いします」
 「あっ、あの時ね…」
 そう言って裕次郎は立ち上がった。
 「ちょっと待ってね。着替えてからにしようか」
 週刊誌の写真と同じでは困るのだろうとした思いやりである。応接室には十人は座れる真っ白いソファーがあり、私をど真ん中に座らせた。着替えのため行っていた二階から降りてきた。
 同時に、奥さんの北原三枝さんがお茶を持ってきた。もうそのお茶を飲む時からポーズをとっており、私は、大スターの配慮に感動した。そして裕次郎は一シーンごとに着替え、表情を変えてくれた。
 時間の過ぎるのも忘れて撮影に夢中になる私はこの時、石原プロの小林雅彦専務から叱られた。時計を見ると午後一時を過ぎていた。伺ったのが十時だったから、もうかれこれ三時間もいたことになる。
 「失礼だよ君は。薬を飲む時間が決められているんだ。はい、もうこれぐらいにしてくれ」
 まだ二コマしか撮影していないのに「終わり」と言われてしまった。裕次郎が私に恐縮したように言った。
 「気にしないでね」
 そして小林専務に向かって言った。
 「これがプロの仕事なんだよ…悪いのは俺だ。ポーズが決まらん」
 笑いながらだったが、当の小林専務も笑っている。裕次郎は「じゃあ食事後にもう一度着替えて撮ろうか」と言って台所に消えた。
 大スターの配慮に感心すると同時に、口は荒いが、どこかで理解し合っている石原プロの仕事のやりかたが理解できた。結局、撮影が終わったのは午後四時前だった。私は望遠レンズで裕次郎を追うだけで全てポーズをとってくれた。この時、裕次郎は四十七歳。私は三十七歳だった。

                                                                   続く

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