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2015年3月22日 (日)

ドキュメンタリー建国義勇軍 その4

ドキュメンタリー 建国義勇軍④
  なぜオウムだったのか
 村井とともに逮捕された野口三男は荻窪事件のほか大阪事件やけん銃譲り受けなどにかかわっており、荻窪署で取り調べを受けている。なぜ村井に協力したのかなど事件への関わりについて次のように供述した。
 「北朝鮮の拉致問題が現実となって以降、村井会長は北朝鮮にはもっと強い態度で臨むべきだと言っていたが私もその通りだと思いました。古物商をしている関係から、村井会長に刀剣まつりの仲間に入れてもらったおかげで仕事は良くなったという恩義がありましたから…」
 調べ官は建国義勇軍設立の時とその後の事件の流れを知る必要があり、質問したのに対して次のように供述している。
 「建国義勇軍設立の時はグアムに行って、設立宣言書に署名をしています。その時、村井会長から朝鮮総連、朝銀、日教組のほかに国賊はいるか?と聞かれたのでオウムもいるじゃないですかと答えました。結局、そのことがきっかけでオウム道場二カ所に対して事件を敢行してしまいました」
 調べ官が何でオウムかと聞いたのに対しては
 「オウムは殺人集団で非常に危険な団体なのにまだ残党がいる。あんなに沢山の人を殺したオウムが今でも活動しているなんて許せない。信者になっている人、世間の人にオウムは危険な団体だということを気付かせたかったためです。その時、村井会長から事件の手伝いを頼まれたのですが、仕事の関係もあって断れないので荻窪や大阪のオウム施設への銃撃事件を手伝いました。いずれも現場の下見や見張り役、下見役の運転も担当しました」
 また野口は、けん銃の調達やそれぞれの事件の関わりについては次のように自供している。
「村井会長から撃ち込みたい所があるのでけん銃を入手できないかと言われたので、銃に感心を持っている黒崎さんに依頼して買いました。そのけん銃でオウムを銃撃したものと思われます」
 また野口の古物商手伝いの中林は万世橋署で調べられていた。刀剣友の会の青年隊長と言われ、オウムの荻窪施設事件では現場の下見や村井の運転担当。立川の教職員組合、日本教育会館職員への爆発物類似物件設置事件ではやはり下見や運転を担当した。
 中林は事件の関与について次のように供述した。
 「野口さんとは雇用関係のほか同性愛で肉体関係にあったので断れなかった。その野口さんはかつて刀剣商の事業が潰れそうになった時、村井会長から助けてもらった恩義もあり手伝わざるをえなかったと思う。私は村井会長から『日本の警察は検挙率が低いので大丈夫だ』と言われたので逮捕されるとは思っていなかった」
 供述調書のメモによると中林は最後にこう付け加えたという。
 「警察に逮捕されなければ、村井会長の犯行目標や方法も段々エスカレートしていたので最終的には殺人事件に発展していたと思います」
 刀剣友の会理事で会社員の服部は麹町署で調べられていた。オウム施設銃撃の荻窪事件で朝日新聞や毎日新聞に犯行翌日に犯行声明の電話をかけているほか、大阪のオウム事件では下見や車両を運転。実行犯の村井の送迎や見張り役をしている。広島の教職員組合銃撃事件では実行犯だった。
 刀剣友の会の会長と理事の関係もあり、村井が過激になっていった理由について次のように供述した。
 「グアムで建国義勇軍の設立総会が開かれたのが犯行をエスカレートさせる転機になったようだ」としたうえで、当時の様子を次のように語っている。
 「会議で村井会長が『名古屋の朝鮮銀行に対する事件は私と四日市の伊東さんがやった。その時のけん銃はリボルバー357の弾を使った』と自慢していました。福井の放火事件も自分が火をつけたと言っていましたが、この時、隣のビルから女が覗いており、この時以来、やはり見張りが必要だと痛感したそうです。それで『もしかしたら手伝ってもらうことになる』と言われたのです。村井会長の思う気持ちは真に迫るものがあり、これは犯罪に手を染めるしかないと思いました」
 そして服部は犯行の動機や背景について十五年十二月二十四日の供述では、朝鮮人慰安婦問題や南京虐殺問題を含めて村井以上の持論を展開。犯行への積極的加担を自供した。
 またその日の雑談では警察に捕まっていなければ村井会長と一緒にまだまだ犯行を続けていたとも話している。
 一方、審議官の自宅に爆発物をしかけた田村は本冨士署で調べ官に次のように供述した。
 「会長から爆発物の製造依頼があった時、自分以外の若い者に作らせたのでは本当に爆発するものになってしまうので、会長の依頼を拒否もしないで自分で、爆発せず爆発物様のものに見える時限式のものを設計して製造しました」  

 自決するつもりだった
 結城は、この運動はどこまで続けるつもりでいたのか村井からしっかり聞いておく必要があった。
 結城「建国義勇軍の将来構想について聞きたいのだが…」
 村井は結城のこの一言で黙ってしまった。二十二日の調書で「自決するつもりだった」と言っている。村井の信頼する山口二也並の行動を予定していたのか?組織がどこまで〝成長〟していたのか知りたい部分である。依然として村井は口を開こうとしない。時間だけが過ぎて行く。
 結城「君の思想に俺たちは何も言うことはないし、言う資格もない。そうでなくて今、俺が知りたいのは組織の事なんだよ。君には黙秘権はありますよ。しかしね、これまで信念を持った君たちの考え方を聞かせて貰えたのに、途中で打ち切られたら、結論が見えないまま、君たちのこれまでの行為は単なる『騒動』に終わってしまう。計画はそんなに単純なものだったのか…それじゃお父さんに対する君の思いは絵に描いた餅じゃないか?君を会長と信じてきた会員を裏切ることにならないか?君の言葉を聞いて真に迫っていたと言う会員もいるぞ…」
 村井がようやく口を開いた。
 村井「二十二日に言ったじゃないですか。今後は世間に対してさらなる組織の拡大をアピールする目的で、私は参謀に専念し、さらに数丁のけん銃を入手したうえで他の構成員により、同時多発的なテロ攻撃を敢行させた後、爆発物の設置を数十件敢行し、一旦、活動を終息させようと思っていたと…」
 結城「二十二日には建国義勇軍顛末記を書いて自決するつもりだと言っているが…」
 村井「…そんなこと言ったかな…」
 そして村井は年が明けた平成十六年一月二十七日、警視庁の調べに対して「父の思い出」という上申書を書いている。
 その中で村井は「父親の葬儀の時の挨拶が母や家族に迷惑をかけるのは仕方がないとしても、せめて人を傷つけたり殺したりといった取り返しのつかないことだけは止めようという方針に繋がりました」と結んでいる。
 その翌二十八日の検事調べでは次のように語っている。
 逮捕される前の十一月に、義勇軍構成員の服部、野口さんらと電話で今後の攻撃目標について話し合いました。そして十六年四月以降、一斉に行動を起こすことになっていました。
 攻撃目標は日教組という意見が最も多く、創価学会のほか司法が手を出せない山形マット殺人事件、神戸少年殺人事件、長崎少年落下事件の各加害者、ロス疑惑の三浦和義になる予定だった(中略)
 事件を起こした後は全ての武器を破棄するつもりでした。そして私は首謀者としての道義的責任をとるべく、事件に関する手記を書いたうえで自決しようとも考えていました。
 …… …… …… …… …… …… …… ……
 この事件では十七人を検挙、うち十五人を逮捕した。建国義勇軍事件が起こした二十四事件を全て起訴したほか、けん銃十丁とそれに適合する実弾二百一発を押収して事件捜査を終えた。
起訴した十五人のうち村井は判決前に死亡。その他の十四人は懲役七年から同一年の実刑判決を受けた。
 なお、本編は刑期を終えた受刑者もいることから仮名とした。終わり

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