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2014年5月 5日 (月)

小説・薬物捜査官 その4

リンク: police story 別室.
小説・薬物捜査官 その4
 威信をかけた捜査を…

 
 角田市に向かう日の朝、ホテルの食堂で朝食をとろうとしていたら携帯が鳴った。風間からだった。
 「今朝の東京日々新聞を見たかね」
 「今、見ながらコーヒーを飲もうとしていますが、なんですか?」
 「北朝鮮に日本の丸暴が行ったという話しだよ。一面に出ているだろう、一面…」
 「一面は米国の国防総省の話しですよ。理事官は違う新聞を読んでいるのではないでしょうね。あるいはまだ寝ぼけていたりして…」
 「そうか、お前は田舎の新聞を読んでいるんだ。新聞でなくて旧聞をな。だから出ていないんだ。ファックスするからさ。見といてな田舎者さんよ>」
 風間がこんな言葉を使うときは、調子の良い時である。
 新聞のファックスが届いた。
  「平壌市内で日本の暴力団が暗躍」
    覚せい剤の買い付けか 今月はじめ北京経由で入国
     韓国紙が報道
 こんな見出しで、横見出しは黒ベタ凸版だった。鬼頭は自室に帰り本文を読んだ。
  【ソウル=太田まきこ】韓国の東洋新聞の二十四日の報道によると、日本の「キタカミ マサヤ」と名乗る男が北朝鮮の公安当局に身柄を拘束されていることが明らかになった。同  報道については、数日前に北朝鮮の平壌日報でも報じられている。
   男は、今月上旬に日本の成田国際空港から出国。北京経由で平壌入りしたもので…
 鬼頭は風間に電話を架けなおした。
 「理事官、これ本当ですか?。ヨタ記事でないなら警視庁には入っていたのですか?」
 警察業界では新聞記事を指して「ヨタ記事」という文言を良く使う。当局が発表していないうえ内容が、全くでたらめな記事を、そう呼んでいるのだ。
 「入っていた。外務省から昨日の夜に連絡があった。外事課にだ。だから報道は同時に掴んだのだろうな。ほら、特に東京日々新聞は北朝鮮に強いからな…」
 「どこの人間なんですか?」
 「それが仙台市なんだ。北上雅也と言って住所は仙台市泉区南光台×丁目××なんだけど、逮捕歴があってな、中国人裏社会の陰の仕掛け人と呼ばれている一人らしい」
 「聞いたことありますね。確か、五、六年前だったと記憶していますが、中国残留孤児で覚せい剤取締法(所持)容疑でしたよね」
 「そう。福島県警と郡山中央署が追っていた事件だった。日弁連が違法捜査と騒いだ家庭内暴力保護少年と覚せい剤を結びつけた事件だよ」
 「たしか、その少年の供述に基づき密売グループが浮かび、さぁ逮捕令状請求だというときに降りなかった。裁判官が思想的におかしくてな」
 「そうでした。あれは凄い捜査でした」
 蒸し暑い夏のある夜「家庭で息子が暴れ、父親が頭に怪我をしているので助けてほしい」という一一〇番が入った。郡山中央署の当直だった少年係の部長刑事が駆けつけると、十九歳になる次男が、包丁を手にわめきながら玄関をうろうろしていた。
 包丁を手にしているものの、制服警察官が駆けつけると静かになり包丁をすんなり渡して身柄が確保された。
 福島市内の予備校に通っているが、二年前あたりから家庭内暴力が頻繁になっていた。同夜は父親が酒に酔って帰宅したのにハラを立て、顔を殴られた父親は玄関で倒れて頭を打った。父親を病院に収容しなければならないという母親の要望もあり、この夜は次男を郡山中央署が保護することになった。
 郡山中央の部長刑事がパトカーに乗せようとした時、母親が駆け寄ってきた。
「刑事さん。ちょっと来ていただけますか」
 部長刑事は次男を同僚に渡して自分は今後のこともあり残ることにした。母親に招かれるまま自宅の台所に入って行った。母親は冷蔵庫を空けて新聞紙に包まれた物を渡した。部長刑事はその新聞紙を空けてみた。
 透明のビニールのパケに白い粉が見えた。「覚せい剤だ」と部長刑事は直感した。
 「前々から気になっていたのですが、ついつい言えなくて…ごめんなさい。やっぱり薬なんですよね」
 母親の声は震えていた。部長刑事は出発しようとしている捜査車両を止めようとしたが既に出た後だった。保安係の主任が別の車で帰る部長刑事を待っていた。部長刑事は主任を呼んだ。覚せい剤の確認のためだ。こうして押収した覚せい剤を持って部長刑事らは、署に引き揚げ緊急鑑定が実施された。
 覚せい剤は本物で、少年から採取された尿も陽性の反応があった。同署は翌早朝、郡山裁判所に「覚せい剤所持及び使用」容疑の逮捕状を請求した。
 「そうそう。あら筋はそうだった。ところが、少年が大変なことを唱(うた)ったから大事件になっていった」
 風間は思い出すようにまた、喋りだした。
 風間の言う大事件とは、少年が「覚せい剤を購入したのは通学の電車の中で、郡山から通学する学生の間では話題になっていた」と自供したことから始まった。
 このため福島県警は通学電車内の大捕物を実施、高校生八人と密売人二人を逮捕した。この密売人が仙台市の中国人犯罪人グループに繋がった。大変な事件で福島県警は警察庁長官賞を貰った。
 「最初に保護、覚せい剤所持容疑で逮捕した少年の件で弁護士が意義を申し立てた」
 今度は、鬼頭が話しを引き受けて続けた。
 「郡山中央署は、最初に家庭内暴力の通報で民家に向かった。そして保護した。ところが母親が覚せい剤を提出したことから覚せい剤所持及び使用でそのまま逮捕・拘留した。その後、運が良く大変な供述を得た訳だが、弁護士は『最初から覚せい剤目的で逮捕するための保護だった』とクレームを付けた」
 風間がさらに引き継いだ。
 「そう。逮捕するには一度保護を解除しなければならないという、単純な手続きを踏んでいなかった。保護には厳格な手続きが要求され、解除の際は少年を一旦、署の外に出さなければならない」
 法的な手続きは鬼頭が巡査時代に徹底的にたたき込まれ「体で覚えろ」と言われた部分だ。しかし、人員不足は時として原則を忘れさせる。
 「夜中の出来事であり、郡山中央署はこの簡単な手続きを忘れてしまった。そのため違法捜査だと大変な騒ぎになった」
 風間がつぶやくようにこう言った。
 「署長以下大量の処分者が出た。あげくに警察庁長官賞の返上騒ぎまで発展してしまったんだよな…」
 さらに続けた。
 「それが中国人犯罪集団・Xグループの存在が初めて確認された事件となり警察庁はその犯罪集団の全容解明を全国の警察に指示した。こうなる訳だ」
 鬼頭の記憶が蘇った。麻薬捜査が如何に困難かを知らされた事件だった。
 「警視庁が解明したのが中国人マフィアの存在。関東近県には福建グループが存在し、東北には東北グループがあり、麻薬の密売や蛇頭に関係していることを突き止めた。いずれも中国人残留孤児2世に関係していた訳だ」と鬼頭。
 「その東北グループの直下に暴走族グループが存在し、横の繋がりのある別組織として暴力団・関東連合があった。暴走族リーダーから関東連合に抜擢されたのが北上だった」と理事官。
 しばらく間を置いて鬼頭が訪ねた。
 「理事官、これら一連の事件はまだ全てが解明されていないですよね?」
 確認するためだった。確認することにより自己意欲をかき立てる。鬼頭のファィトはここから生まれる。二人の会話は続いた。
 「関東連合は中国人マフィアへの情報提供組織ではないかと言われたが、解明されていない部分が多い」
 「まだまだ3世もいてグループの存在は分かったものの、警視庁以外の県警では実体は解明されていない。各県警がバラバラの捜査だったことに加えて県警内でも対立がすごかったこともあった」
 「そうでしたね。薬物は生安、窃盗は刑事でも捜査三課、暴力団は捜査四課、蛇頭は県警によって違うが警備が担当しているところもあった。そこで察庁の幹部の間では縦割りでなく横断的な捜査ができる部門の設置を望む声が出た」
 「分かりました。それで今回の北上は宮城県警がやることになる訳ですが…」
 「北上が勝手に北に行ったのだから…目的は覚せい剤の買い付けなんて言われているがそれはヨタ記事だろうと思う。警察としては確認方法がない。とりあえず宮城県警の公安の世界でいいよ」
 「それよりな、例の朝陽商事の件だけどどうも国税が動き出したらしい。農水省と厚労省が北朝鮮からの輸入物資の点検調査を実施したら、農産物輸入の擬装問題が浮上したらしい。それが朝陽商事に関係あるというのだ」
 「どんどん拡大していきますね」
 風間も鬼頭もアドレナリンが身体中を巡っているのが自分でもわかった。
 アドレナリンはストレス反応の中心的な役割を果たし、血中に放出されると心拍数や血圧を上げブドウ糖の血中濃度を上げる。風間も鬼頭も〝刑事熱〟と呼んだ。

 海上保安庁から国会へ提出する最終捜査報告をまとめた冊子が警察庁に届いた。
 工作船船内で発見押収したプリペイドカード式の携帯電話の販売時期や架電先の契約者等について捜査した結果、携帯電話は事件発生前の平成十三年一月以降に岐阜県内の携帯電話販売会社で販売されたが、購入した者の特定はできなかった。
 同年四月から十一月にかけて合計八十五回にわたり、東京都内の暴力団事務所の固定電話や暴力団関係者の携帯電話に架けられていたほか、韓国籍人物を偽装してレンタル契約したと思われる携帯電話や、在日の朝鮮籍及び韓国籍の者が契約した携帯電話にも架けられていたことが判明した。
 さらに、鹿児島県の薩摩半島南東部の海岸線の地形にある施設などが示されている地図を発見したことから報告書で海上保安庁は、今回の事件を次のように結論付けた。
 ①今回の工作船は以前から九州周辺海域を活動区域として覚せい剤の運搬や受渡しのために使用されていた疑いが濃厚である
 ②地図の発見から、搭載されていた小舟等を使用して沿岸部に接近し覚せい剤の受渡しのほか、工作員を不法出入国させスパイ活動等を展開していた可能性もある
 ③そのほか何らかの重大犯罪に利用された可能性も否定できない。

 警察庁では毎週木曜日に国家公安委員会が開かれているが、委員会開催前日に庁内の意見調整もあり定例の会議を開く。
 会議には警察庁長官、次長、官房長のほか各局長、課長。警察大学校長、科学捜査研究所幹部、警視庁からは副総監も出席する。
 警備局審議官から海保報告書の内容が紹介され、それぞれに意見を求められた。
 宗像警備局長が口火を切った。
 「航空機使用の場合は『空港』という関所がある。しかし、今回の事件をみると拉致事件当時から言われていたことでもあるが、関所という『点』のない『海岸』という『線あるいは面』における警備の問題点が改めて浮上したことになるわけだ」
 「それに付け加えるなら、契約者が判明しにくいプリペイド式の携帯電話を利用して、国内に侵入者を導いていた者がいるということだ」
 刑事局長が続けた。
 「来日外国人犯罪はこれまで『中国人による強盗・窃盗事件』や『イラン人による覚せい剤密売事件』など『事件』という現象に目を向けていたが、国内の治安をかき乱すかもしれない『思想的国民』にも注目しなければならないということだ」
 「その武器になっているのが携帯電話だ。七千万台とも言われるが、もはや、これは新たな〝もうひとつの犯罪組織〟ではないか」
 小嶋外事課長が続けた。
 「結論から申しますと今回の海保の捜査結果では、被疑者が全員死亡していることからオペレーションの背景にある真相は解明出来ませんでした」
 「海保の携帯電話の突き上げ捜査でも携帯電話の架電記録は十月で終わっていたことから、事件発生時点での記録が無く、架電先の人物と本事件との直接的な結び付きを明らかにすることができなかったわけです」
 「結局、あれだけ大騒ぎした〝国の一大事〟は臨検を拒否した漁業法違反と、銃をぶっ放した殺人未遂だけで終わったわけか…」
 吉川英明次長のこの言葉に警備・公安出身の警察大学校長が続けた。
 「やっこさんらの目的だった日本国内混乱。つまり覚せい剤を国内にばらまき、日本国民をふやけにする北朝鮮の独裁主義者の構想は、なにひとつ解明されないばかりか、被疑者死亡で片づけられた…。何かが足りないと思わないかんな」
 「海保のこうした報告内容はインターネットでも公開されている。さらに、あの工作船も展示されて国民の前にさらされる。警察的には事件も終わっていないのに証拠品の公開か…。時代も変わったものだよ」
 「海の事件は海保。その海保の捜査が終わっただけだ。陸の捜査は残っている。どんな微物からでもあるいは些細なことからでも、重大事件の解決に繋げるだけの力が日本警察にはあると私は、信じている。君たちは『プロなんだ』ということを自覚して全国の警察を指揮してほしい」
 國島和夫・警察庁長官のこの言葉に全員の顔がひき締まった。
 そして國島長官はこう続けた。
 「ブツ(物)はない。被疑者は死んで調書も取れない。ない、ないでなく『携帯電話があるんだ』という自信を持って解明にあたらないと…」
 しばらく間をおいたあと、生活安全局長から顔で合図を送られた重森薬対課長が口を開いた。
 「その通り、『ない』わけではありません。携帯は勿論だが沈没付近で収容した〝生身の遺体〟が二つもあるのですから…十分ですよ。第一義的捜査権は海保なので警察として得られた資料が乏しいのですが、各県警は既に捜査に着手しております」
 そして捜査一課長が続けた。
 「事件発生直後に工作船の沈没現場付近の海上で二つの死体が回収されており、この二遺体からは多くの資料が得られております」
 「その遺体は海保が焼いて処分したんだろう?」
 総括審議官が鑑識課長の方を見ながら質問した。
 「はい、漂流死体を含めて全て荼毘(だび)に付しましたが一部分は保管してありますので大丈夫です」
 「よし、警察の威信をかけるつもりでやってほしい。この機会に北朝鮮を含めた国内の薬物犯罪組織なるものの解明をやってもらいたい。政府もこれまでの対策会議を発展させ、由民党の本郷先生をトップとする第三次覚せい剤乱用期対策閣僚会議も設置された」
 会議は官房長のこの言葉で締めくくられた。

   ×        ×        ×       ×
 新潟県警の五階会議室で、緊急捜査会議が開かれた。工作船から押収された携帯電話の通話記録にあった「金田悟」に関する捜査途中報告である。
 金田に関しては、海保に捜査権があり資料が無かったものの警察庁が一部の資料を入手していたので早くから捜査を進めることができた。
 配布された住民表の写しによると金田は、昭和十八年に青森県三戸郡五戸町毛無森××番地で生まれ育った。五十一年九月に埼玉県川口市から長野県湯田中に引っ越したことになっている。
 新潟市末広町××番地の現在地には昭和五十二年に移転届けがあり、漁船など小型船舶の無線機の修理・販売店「佐渡通信」を経営している。
 笹原外事課長が説明に立った。笹原は警察庁の警備企画課員から出向している。同県警には警務部長など要職に警察庁派遣組が多い。
 「海保の情報と併せて金田を特定したのですが、その後どう調べても薬物との接点が見つかりませんでした。しかし、今回の工作船事件との関連を無理に位置づければ、船舶無線という職業からすればある程度は納得ができるのではないかという視点にたって、行動監視、銀行の金の流れ、取引先関連捜査を進めてきました」
 笹原は『。』切れのない言葉で結び、捜査が広範囲に及んだことを説明した。
 「そうした中で、金田は昨年の春から僅か一年余で三回も渡航していることが分かりました。いずれもマレーシアなど東南アジア地域と北京なんです」
 「行動について大使館にお願いして調べた結果、無線機器の修理技術の現地での指導が名目ですが、北朝鮮との接点は見つかりませんでした。但し一部に不可解な行動も見受けられましたが完全なる証拠把握までには至っていないのが現状です」
 「次に銀行関係と取引関係については竹内課長から説明してもらいます」
 生活保安課の竹内は地元のベテラン刑事上がりで県警内でも〝酒豪のタケヤン〟として親しまれ、県内には〝親分〟と慕う部下が多い。
 「船と言っても十五・九九㌧前後の漁船が中心になります。勿論、北朝鮮から不定期に新潟西港に入る万景号にも出入りしています。そんなこともあって従業員は無線技術者が十人。それに営業担当が五人と事務員を含めた総勢は二十一人です。取引銀行は日本海銀行新潟支店で、年間取引額は八千万円にのぼりました」
 「八千万?」
 各部長は意外な少なさに顔を見合わせた。
 「それはそれで良いが周辺だけ調べてもしょうがないだろう。引きネタはどうなっているのか?」
 「先ほどの説明で、不可解な行動とはなんだ」
 「漁業無線の修理と言っても、果たしてそれだけだろうかと…」
 「ガサ(家宅捜索)でもしてみないと…」
 鬼軍曹と威名をとる花田刑事部長が訪ねた。
 「海保の最終報告でもそうですが、今回の工作船オペレーションと携帯通話先の因果関係がとれない以上、本件からの攻めは出来ないと判断せざるを得ません」
 「別件から入るしかないのか…」
 花田刑事部長と竹内課長のやりとりが続いた。
 「それが…実は大きな壁にぶち当たりました。地域課に金田の足取りを調べてもらったのですが、どうも不明な点が多いのです」
 「家族はいないのか?結婚歴は?」
 「金田について青森県警に手配した結果、五戸町内には該当者はいませんでした。どうも駐在さんの話しでは、昭和の二十年代までは樺太などからの引き揚げ者が一時滞在して地域があったので、その方たちではないかと言います」
 「戸籍など役場にはないのか?」
 花田刑事部長が聞いた。
 「昭和の時代ですから当時の戸籍も含めて現存していませんでした。ただ…」
 「ただ、なんだ…」
 「公文書ではありませんが、駐在さんが古い地図のような物を発見しました。毛無森の郷土研究家が持っていたらしいのですが、当時、八戸にあった尋常小学校の地図ではないかと言われた印刷物に、引き揚げ者の地域の記入が五戸川周辺にあったそうです」
 「分かった」
 「昭和五十一年の長野県までの三十数年はどこでどうしていたんだ。地域課だけでなくてさ、動員が可能な捜査員は全部出動して調べたらどうなんだ。なぁ生安部長」
 阿部生安部長がうなずきながら言った。
 「これじゃー察庁報告ができない。各部が横断的にやるしかないようですね」
 会議を終えた笹原がデスク席に戻ったのは四時を過ぎていた。
 「笹原課長、警務部長がお呼びです」
 「いけねっ。忘れていたよ。来週は全国課長会議だっけ」
 何気なく見た地元紙の夕刊。誰が見たのか乱雑に広げられていた。
 そのころ竹内課長は、社会面の見出しに釘付けになっていた。

  隅田川の水死体は青森県の会社役員
    「兄の行方」求めて昨年暮れに上京
      左腕に新しい注射恨が…
      警視庁 死因の解明に全力

 三ヶ月ほど前に警視庁が手配した電報で見た被害者だった。
 その事件が新潟県の地元紙の夕刊社会面を飾っていたからだ。
 「左腕に注射恨か。薬物を大量にうたれるとショック死する場合があるからな…」
 読んでいるうち、どうしても引っかかるところがあった。
  …水死体は青森県三戸郡五戸町××、会社役員、金田正夫さん(四十歳)と分かった。金田さんは兄の悟さんを探すため上京し…
 「青森県三戸郡…被害者が金田…そして…五戸町…名前が悟…」 
 竹内は笹原の卓上電話に架けた。
 「新聞を見たかよ。これって偶然かな? お前の公安的な感はどうみるかだな?」
 「なんですか竹内先輩。なにが載っているのですか?」
 笹原は警務部長に行く前にあわてて降りて来た。
 「先輩、びっくりしましたよ。この被害者は兄を捜している。そしてその兄が、我が社のと同姓同名…」
 「東京の捜査本部に照会するか? それより現地(青森)に行く必要もあるだろう。空白の三十年間もあるしな…」
 竹内のデスク席の電話が鳴った。阿部生安部長からだった。多分、新聞のことだろうと思った。
    ×       ×        ×       ×
 「詠子です。キャップはいますか」
 警視庁の九階にある毎朝新聞記者クラブは宮本キャップと生安担当の二人だけが留守番をしていた。一課の詠子は仙台から青森県の金田さんの自宅取材に行っている。二課担当は一課の応援で捜査本部のある江戸川警察に向かっている。
 その詠子からの報告である。
 「金田さんが捜していたのは兄の悟さんで昭和十八年生まれの五十九歳。中学を出て八戸市内の自転車店で働いていたそうですが、昭和三十九年ごろ東京の赤羽にある不動産会社に就職したそうです」
 「独身だったのか?いつ頃から行方不明になったんだ。写真はあるのか?」
 「毛無森に行ったのですが、第一、金田家そのものを知る人はいません。駐在さんに聞いたのですが新潟県警からの手配で調べた当時の話しでは、五戸川の一部周辺に引き揚げ者の集落があったらしいということです」
 「そうすると金田正夫さんは今、何処に住んでいるんだ」
 「五戸町は五戸町なんですが、どっちかと言うと八戸市の郊外でリサイクルショップを経営しているそうです。昔はくず鉄商だったそうです」
 「じぁ悟さんの話しはなにもないのか?写真などは?」
 「中学三年生の卒業写真はありました。今、支局の記者が送稿に行きました」
 「いいや。それで…」
 「東京に行ってから五、六年間は連絡があり真面目に働いていたそうですが、それ以来まつたく連絡がつかなくなったそうです。赤羽に勤めていたころの住所は埼玉県の川口市なので川口市で調べてほしいのですが…」
 「住所は埼玉県川口市領家×丁目××、アーバンハイツ領家一〇二号室だそうです」
 「分かった。古い話ししかないようだが、そこはしょうがない。きょう一泊して明日、こっちに帰ってくれないか」
 毎朝新聞川口通信部からの報告書が警視庁の宮本宛てにファックスで届いたのは、翌日午前中だった。通信部員が不在で取材が遅れたというのだ。
 ファックスを見た宮本が川口通信部員に電話かけた。謝意を言うつもりだった。
 「何十年にもなるので廃棄してもおかしくないのですが、庁舎移転前なので残っていました。ですから世間に出すこと事態問題なのですが、たまたま警視庁からの問い合わせの直後に飛び込んだものですから…。タイミングが良かったのと昔からのネタ元だったので入手できた情報なんです」
 と通信部員は興奮して報告した。
 「川口には昭和三十九年五月に住民票の届け出がありました。青森県五戸町からの転入なんです。そして見てもらえれば分かると思いますが、川口から転出したのは五十一年八月二十一日なんです。当然、その先は分かりません」
 「領家×丁目のマンションの聞き込みは全然、モノになりませんでした。『隣は何をする人ぞ…』なんです」
 毎朝新聞は社会部遊軍記者五人を使い、当時の赤羽の勤務地を含めて金田悟さんの足取り取材に全力をあげた。
 記事は殺人事件の本記筋から横道にそれているようだが、殺害された金田正夫さんが捜していた家族の悟さんが現在も行方不明であり、夕刊ネタとしては十分なインパクトを与えた。
 「毎朝の夕刊見たか>」
 新潟県警の生安課長が叫びながら保安課に飛び込んできた。保安では毎朝新聞でなく地元紙の新潟日々を購読していた。
 「おい、俺たちが追っている金田悟と顔写真が違うような気がするな。中学当時だからと言っても、明らかに違うよな。これ…」
 「写真を持って来いよ」
 「違うぞこれは骨格が…。こっちの悟は在日ではないかと言われているたげに…そう信じていたのになぁ。いきなり青森県の人と言われても…」
 「同姓同名と言っても出身地まで同じなんだから…」
 この結果は生安部長に伝えられ、最初の手配先の警察庁外事課にも報告された。
 新潟県警では毎朝新聞の夕刊報道で生安、警備、外事に刑事部捜査一課が加わり、緊急捜査会議が開かれた。
 「写真が違うというのはどういう事態が考えられるんですか?」
 鮫島警備部長の問いかけに笹原外事課長が立ち上がり、興奮した声で報告が始まった。
 「人違いでしょう」
 「バカ野郎=そんな事ぐらい分かっているよ。その先だよ先」
 鮫島警備部長の唾が飛んだ。
 「なりすましです。言葉を換えれば『はい乗り』です」
 「言葉なんて変えなくても分かるんだよ。いちいち堪にさわるな、君は…」
 「まぁーまぁー。そう興奮しないで…」
 花田刑事部長が鮫島を制した。その言葉に笹原はホットした。そして続けた。
 「これは例の北朝鮮による拉致事件で利用された手口で、北が工作員を養成する日本人教官獲得のための常套手段でした」
 「日本人の戸籍を買うか、あるいは殺害して強引にその人物になりすますのです」
 笹島は、はい乗りの代表的事件として西新井事件の説明を始めた。
 「昭和四十五年ごろ李京雨という北朝鮮の工作員が密入国した後、東京都内のゴム製造会社に就職するのですがその時の名は松田某。昭和四十七年には東京・山谷の路上で寝ていた小熊某にはい乗りして日本を拠点に韓国、香港、マレーシア、タイなどに出入国を繰り返していた事件です」
 「ちょっと待った=。ということは金田悟がはい乗りされたとするなら今回の北朝鮮の工作船事件とピッタリ結びつくことになりはしないか?」
 出席者全員が〝刑事熱〟を自覚した。
 警備部長の鮫島が笹原の言葉を遮り発言した。
 「そうすると…」言いかけた時、会議室の電話が鳴った。
 「阿部生安部長= 警察庁の重森課長からです」
 会議が中断した。笹原は「助かった」と思った。
 「重森です。写真が違うって…。金田悟の写真が違うというのかね。その前に金田の柄(身柄)は何処にあるの?別件でも良いから確保できないの?海外に飛ばれると困るでしょうが…」
 「それが…容疑が…ないので…。見張りはしているのですが…」
 阿部が口ごもった。
 「柄を捕れない?こちらから警視庁の鬼頭捜査官を向けますので…。青森県警と…それと、どこの県に足取りがあるんだね」
 「はい、長野県内にあります」
 「じゃ、長野県警も含めて悟自身の足取り確認も急がないと…。それと奴の髪の毛でも良いからDNA鑑定の資料収集に全力を挙げること…。鑑定には最低でも三日が必要なんだからね。三日。引きネタは拘留時間を考えてね…」
 「それに言っておきますが、海保の捜査は終わった。しかし、先日、國島長官が言った通り、警察は全力投球の方針を固めているのです。頼みますよ」
 重森の言葉は厳しい口調だった。受話器の向こうの苛立ちが分かった。
 新潟県警では〝なりすまし事件〟が浮上、それが警視庁・隅田川の殺人事件と結びつき、さらに、なりすましの手段によっては新たな殺人の可能性が出てきた。捜査範囲は警視庁、長野県警、埼玉県警、青森県警へと広がった。
 警視庁と新潟県警は刑事部捜査一課に薬物関係では生活安全部、北朝鮮工作船関連の〝なりすまし事件〟では警備・公安部からも捜査員を動員する大捜査体勢が組まれた。  新潟県警に鬼頭捜査官と警察庁外事部の調査官・加藤警視が到着したのは夜になっていた。県警は刑事、生安、警備の各部長など関係者を集めて二人を迎えた。その場で、加藤調査官から新たな情報が示された。
 「外事調査官の加藤です。実は沈没した工作船の付近から二人の遺体が発見されたことはご承知と思いますが、携帯はそのうちの一人が持っていたものです。いろんな押収資料を分析すると水死体は羹という人物と見られています」
 「羹は姓ですが名前の部分が分かりません。海水が入って難しかったのですが、押収された携帯には八十五カ所の送受信電話番号とともにメールの文面がありました。その中のひとつに、日本のお兄さん宛に書かれたと見られるメールがあったのです」
 海保の捜査終了後に提供を受けた資料を基に、警察庁は通信記録を分析。携帯番号を各県警に依頼して確認作業を進めていた。一方でメールの判読も続けていた。
 多くは、在日の朝鮮籍及び韓国籍を持つ人が契約した携帯電話、在日朝鮮人や韓国の留学生の名をデッチあげて購入した携帯で、所有者まで確認できなかった。
 携帯の番号記録からは警視庁の朝陽商事や大阪府警の暴力団員、新潟県警の金田のように実際に確認されたものがあるが、特にメールは誰に送ったものか、あるいは送られたものかが焦点になっていた。
 「このメールの相手が日本国内に存在すると今回の工作船事件は、被疑者全員死亡ではありますが、関係者の身柄を確保できる一筋の光が見えてきた訳です」
 加藤はさらに続けた。
 「國島長官が言ったことはこの部分なんです。この部分があればまだ、捜査は終わっていない。日本警察の威信をかける部分なんです」
 警察庁の方針を改めて伝えた。
 「羹の通信相手が在日の朝鮮籍、韓国籍の人物ではないかと見ていましたが、これまでの捜査で該当者はいませんでした」
 加藤調査官とは笹原は子弟の仲だったことから、笹原が気軽に質問した。
 「内容によっては事件関係者になる訳ですからメールの詳細を…」
 「所々しか判読できないが、工作員・羹は『北朝鮮国内の両親は既に死亡している』と報告しながら、自分は元気なことなどの文面が残っている」
 「相手が、つまり日本にいる者が北京など海外に行った時の連絡に使われたと思われる会話もあった」
 笹原の心臓が高鳴った。
 「在日が海外に行った時に利用されている?。しかも北京などで…」
 「その通りですが、なにか…」
 加藤調査官が聞き返した。
 「いや、いいです。後で話します」
 加藤が続けた。
 「それに対して日本国内の人物は、日本の天候や国内の警備情報などに加えて早く会いたいなどの心境も伝えていた」
 「そうすると日本にいる者は羹の実兄か実弟になるわけですね?」
 「いや水死体は年齢が若いから日本国内の人物が実兄ではないかと見ている」
 「通信記録は、いつ頃と推定されますか?」
 「最も新しいのは二〇〇一年十月三十一日」
 「金田と羹のDNAが一致すれば、事件は殺人の可能性も出てくるわけだ」
 刑事部長の顔色が変わった。新潟県警は刑事・警備両部長指揮による特別捜査本部を立ち上げた。

 新潟県警警備部外事課の主任警部補と新潟港湾警察署刑事課の巡査部長の二人が国道113号線の末広橋のたもとで落ち合ったのは午前四時半。夏の空は既に明るさを増していた。
 金田の自宅は末広橋の東のたもとから五十㍍など北に進み、113号から二百㍍ほど入った信濃川沿いのマンションの三階だ。橋のたもとで落ち合った二人は、前夜から張り込んでいる捜査一課員と港湾署員と交代のため運河を挟んだ倉庫に向かった。
 「ご苦労さん。どうだった昨夜は?」
 四人のうちでは最年少の港湾署生安課員が答えた。
 「ご苦労様です。奴さんが帰ったのは十一時を過ぎていました。電気が消えたのは一時ごろだったと思います」
 簡単な連絡のあと生安課員ら二人は帰って行った。
 張り込みは四日前から始まったばかりだ。これまでは相手に感づかれないように三交代制による一定の距離を置いた行動監視のみだったが、きょうからはDNA鑑定の資料収集も加えられた。
 さらに、毎朝新聞に書かれたため海外への逃亡の可能性もあり得ることとし、身柄の確保を視野に入れた張り込み・尾行となった。
 やはり金田は動いた。午前六時過ぎだった。マンション前にタクシーが止まった。
 「主任さん、まずいですね。逃げるのではないでしょうか?」
 「巡査部長、電話だ電話。国道を北に向かったら空港署待機班に、南なら新潟中署に連絡だ。俺は車を持ってくる」
 長時間にわたる場合、同じ人間や同じ車両などで尾行をかけると相手に気づかれることから、何組かが交代で入り替わりながら尾行する必要があった。その尾行のための班が用意されていた。
 外事課主任は走りながら笹原外事課長に電話を入れた。
 「課長、動きましたよ。金田が…。しかも自家用でなくタクシーなんです」
 「よし、海外逃亡のようなら身柄を確保だ。任意同行でいいよ。しょうがない緊急事態だ。責任は俺がとる。容疑は…無いのか…」
 「ありますよ課長。交通部です。ほら、あいつが先週の日曜日に関越道路の小千谷で三十㌔オーバーの交通違反しているって言っていたではないですか。確か三、四日前に呼び出し状を郵送したそうですよ」
 「オービス?」
 「そうです。二、三日前に交通部長が警備部長に報告していましたよ」
 「えっ、部長からは聞いていないよ俺は…。それだけでは…別件も別件。身柄なんて拘束できないが…緊急だからやむを得ないだろう」
 「どうします。すぐ確保して同行かけますか?」
 「ちょっと尾行してみれるか?。県外に行くようなら途中で任意同行だ。察庁との打ち合わせの時間がほしい。但し、まかれるなよ」
 「大丈夫です。それにしても家を出る時間が早すぎないかな。成田までタクシーならどうします」
 「五分待ってくれ。連絡する」
 笹原は昨夜からホテルに泊まっている加藤外事調査官の携帯に電話を架けて対応策を聞いた。時間がなかったので県警幹部はその後の報告で良いと判断した。
 加藤調査官は数回の呼び出し音で出た。三十㌔オーバーのスピード違反の呼び出しに応じていないことを報告した。
 「強引すぎるが…速度違反で逮捕は…」
 「道交法百十八条では最高六カ月と罰金なら十万円以下でずか…」
 「呼び出しに応じなければ任意同行の時もあるよね。ましてや逃亡の疑いがあるならなおよろしい訳だ。自宅を出てタクシーで行き先を告げた段階で確保だな…国外なら最高だがな…」
 笹原は外事課主任の携帯のダイヤルボタンを押した。
 「主任、どうした」
 「課長、まだ出てこないのですよ」
 「出て来てタクシーに乗って行き先を告げた頃合いをみて任同(任意同行)をかけてくれないか。そのまま新潟中署に連行だ。警ら中のパトカーも向けるよ。文屋さんに知られないようにしないと。後々、面倒になると困るので頼みます」
 「主任さん、主任さん」
 しばらくして巡査部長が叫んだ。部長の声に気づいた主任がマンションを見たとき、金田は大きな旅行バックにスーツケースをタクシーのトランクに載せている最中だった。
 「よし、行こう。タクシーだから逃げることはないと思うが、君が正面に立って運転手に警察手帳を見せる。俺が左のドアに向かう。手帳を見せたら直ぐ右のドアに向かえ。右のドアと言っても運転席の後部ドアだよ。いいなっ>」
 言われた通りに部長はタクシーの前に立ち、動きを制して右側に回ろうとした。その時、金田は運転席後ろのドアを手で開けて逃げようとした。金田の開けたドアが巡査部長と正面衝突、部長ははじき飛ばされた。
 金田は国道方向に逃げたが、倉庫の角を曲がったところで笹原の手配したパトカーと鉢合わせになり、追いかけてきた主任と乗務員に捕まった。巡査部長はドアと衝突した際、左の膝頭に裂傷を負った。逮捕容疑は公務執行妨害の現行犯だった。
 主任と笹原外事課長が鮫島警備部長室に呼ばれた。
 「結果的に取り押さえたから良いが判断が甘すぎないか?。報告書を出せ。みっともなくてしょうがない。連絡体制に不備はなかったのかを含めて詳細に書けよ」
 「それから指揮を求めるのに、何で警察庁の若僧なんだ。君はどっちを向いて仕事をしているんだ」
 「部長、お言葉ですが、せめてスピード違反の件を教えて頂かないと…」
 鮫島の機嫌が良くない。もう定年まで数年を残す年だが、県警内では「キラキラ星」と呼ばれている。
 「キラキラ星」とは業界用語で、機動隊ー警ら隊ー機動隊ー警ら隊を繰り返して階級をあげてきたに過ぎず、捜査などの経験もなく幹部としては信頼の薄い存在なのである。
 部下を思いやる心などは持ち合わせていない。ましてや、情報の共有化などはないばかりか、それでいて自分に対しては全ての報告を求める。これでは、チームワークが求められる組織捜査には不的確な警察官なのである。
 「バカ野郎。交通違反で、しかも通達してから一週間もしないでなんで同行なんて出来るんだよ。お前は警察官だろう?職務質問してさ、例えばドライバーか何かを所持していた軽犯罪だってあるだろう。頭を使えよ頭=」
 質問は罵声となって返ってきた。
 この日から金田の取り調べを担当したのが、「仏の竜さん」の威名をとる新潟県警捜査一課係長の平井竜一・警部だった。そして鬼頭が立ち合った。調べ官では鬼頭は警視庁でも三本の指のなかに入る。
 調べが始まって四日目、警視庁捜査一課から重要な情報が寄せられた。
 東京・北区赤羽で不動産会社に勤めていた金田悟は会社の金を使い込んで首になったという。しばらくは東京・三谷地区で日雇い労働者をしながらホームレス同然の生活をしていたが、そのホームレス仲間の「ロックの雅(マサ)」から呼び出しを受けたあと行方不明になった。昭和五十年十二月中旬だったという。
 三谷地区とは東京都台東区浅草の吉原大門の東側、清川周辺にある日雇い労働者の町として古くから知られている。特に境界線があるわけではないが清川、日本堤周辺の一帯を呼んでいた。
 同地区には、昭和三十年代の高度経済成長期には一万五千人を超える労働者が住んでいたと言われている。その労働者らが都内で猛烈に進められる建設工事や開発工事に〝日雇い〟として労働力を供給していた。
 一日働いて得た〝日銭〟で安い宿に泊まれるし、安い酒を飲んで食事もできる。体調が悪い時は仕事は休める。
 「誰に干渉されることなく自由に生きられる」
 こんな言葉がピッタリの街だった。
 中には家族を捨て、世を捨てて隠れるように生きる男もいた。とにかく〝自由人〟の集まりの街なのだ。自由は行動や感情の束縛を解く。一人のちょっとした体勢批判が暴徒化して、昭和三十五年八月には集団がマンモス交番を襲撃した。マスコミは「山谷騒動」とはやし立てた。
 昭和四十年には労働センターが設立され周辺に集まる日雇い労働者の斡旋業務が開始された。行政が介入すれば、「労働者支援」の名のもとに、役所という〝お上〟に対立する思想的集団が参集、煽動者が生まれる。
 「仕事がない」などの不満があろうものなら、鬱積(うっせき)したエネルギーが爆発・暴徒化する。その暴徒が四十七年の労働センター焼き討ち事件だ。
 警察官でさえ単独でこの地域に入るのを躊躇するほど荒んだ時代でもあり「指名手配班の隠れ場所」の隠語さえ生まれた。
 警視庁で「ロックの雅」を調べた結果、当時は在日朝鮮籍か韓国籍の人物と見られる情報が飛び交っていた。現在は同地域は高齢化が進み、当時の労働者やホームレスも既に死亡しているため知る人はいなかった。
 調べ室には新潟中署が充てられたが、報道発表は控えられた。
 
 ーーそれで赤羽で何をしていたんだっけ?
 「不動産のセールスです」
 ーーなんで辞めたんだよ。
 「女ができて…結婚を迫られたのですが…借金しているし…その女から逃げるために辞めました」
 ーーほう、その女の名前は?
 「忘れましたよ」
 ーー東京に山谷があり、大阪には釜ヶ崎というところがあるのを知っているか?
 「知っていますよ。労働者の町でしょう」
 ーーほぅ、君はいつ山谷とか釜ヶ先を知ったのだ。山谷にあるマンモス交番って知っているか?
 「マンモス?ですか?」
 ーーそうマンモス交番だよ。何年だっけ。交番が襲撃される暴動があったよな。山谷騒動の始まりと言われたあれだよ。
 「???」
 ーー当時、あの地域には「ロック(六区)の雅」という男がいたんだよ。知っているかね?
 「………」
 ーーロックという言葉を知っているか?
 「ロック?ですか?」
 ーーそうだ。浅草六区だ。
 「あー、浅草六区なら知っていますよ」
 ーー君は、あの地域に住んでいたのか?
 「………」
 ーー何故?黙っているんだ。その頃はいなかった?それとも知ってるんだな?
 「ですから…地名は知っていますよ」
 ーーそんなら、話しは元に戻るけどさ。君が生まれたところは青森県の五戸町だよな。隣の四戸町には妹夫婦が住んでいたんだっけ?
 「家を出たときは妹は結婚していませんが…私が東京に来てしばらくした時でしたから三十歳のころです。妹が結婚したと聞いたのは…」
 ーーだからさ、それが『四戸郡だったっけ』と聞いているんだよ。住んでいたところだよ?
 「四戸町でしょう?さっきは刑事さんは町と言いましたよ。四戸町にはいましたから…間違いありません」
 ーーそうかそうか。四戸町か、そうか…。
 竜さんはしばらく黙っていた。鬼頭は「さすが老年の調べ官。この間が大事なのだ」と思っていた。
 被疑者は次にどんな質問がくるのかと心中は穏やかでないはずだ。「今、握手したらあいつは汗をかいているに違いない」
 鬼頭は握手したい衝動にかられた。しかし、押さえた。
 ーーところで青森には八戸とか三戸とか五戸とか六戸とかはあるよな。一から八までな。戸が付く地名な。しかし、四戸という地名はあったっけ?五戸の町は確か三戸郡内にあり、六戸町と八戸市と南部町に囲まれているのだが…
「えっ=」
 金田悟?は絶句した。
 ーーなぁ金田悟さんよ。それじぁー質問を変えるがな、金田家の家紋ってあるのかよ
 「カモン?て何ですか…」
 ーー知らないの?水戸黄門が印籠を出すだろう、葵のご紋をよ。日本にはなぁ、その他にも剣横木瓜とか横木瓜、丸に横木瓜とか必ず「家紋」というのがあるんだよ。
 「ミトコウモン?ですか…そんなカモンは知りませんでした」
 金田の顔色が見る見る変わるのを見ていた鬼頭が続けた。強い口調だった。
 ーー君は金田さんと出会ったのは昭和何年だっけ?それになぁ、悟には妹がいないんだよ。
 金田は真っ青になり黙り込んだ。そして微かだが震えているようにも見えた。鬼頭はたたみかけた。
 ーー金田悟さんと出会ったのはいつかと聞いているんだよ。
 「………」
 ーーじゃぁーお前は、悟ではないのか? 名前は?
 「………」
 これ以降、金田は平井や鬼頭が何を聞いても黙秘を貫いた。平井は「落ちたな」と思った。
 五日目は一言も話さなかった。しかし、羹の名前を切り出すのは早かった。DNA鑑定結果が出てから一気に落とすことになっていたからだ。
 DNAとは遺伝子を言う。地球上に生存する生物は細胞の集まりであり、その細胞の中には遺伝子が存在する。
 遺伝子には様々な情報が詰められている。それが「生命の設計図」でもあり、特に親子関係を立証するには最高の手段として現在は、刑事事件だけでなく民事でも一般人が検査を依頼する大学など民間の分析機関が多い。
 鑑定結果が出たのは検査を開始してから六日目だった。時間がかかったのは水死体で発見された「羹」の鑑定が、細胞が死んで壊れていたため「ミトコンドリアDNA」鑑定が必要だったからだ。
 鑑定結果は金田と羹のミトコンドリアDNAが完全に一致した。この結果、肉親関係であることが正式に証明されたのである。 
 「よしっ捜索令状だ。自宅マンションと佐渡通信社、それに倉庫も含めて関係カ所全てだ。帳簿類は徹底的に調べて国外への持ち出し品まで漏らすなよ」
 花田刑事部長の激が飛んだ。捜査二課も動員された。

 「そうすると当然、自称・悟と金田正夫のDNA鑑定は一致しなかったわけで、羹の兄は日本人の金田悟に成りすましていた〝はい乗り事件〟に発展したわけだ」
 報告を受けた警察庁の重森が、警視庁の風間理事官室を訪れていた。意外な事件の展開に二人は驚いた。意外な展開とは?
 北朝鮮工作船事件ー覚せい剤密輸入事件ー殺人事件ーはい乗り事件が一本の線で繋がったのだが…
 「羹がなりすました悟さんの穴掘り(死体発掘作業)はやったのですか」
 「まだやっていない。そこまで落ちていないんだよ」
「どうして〝はい乗り〟したかの部分になるとダンマリを続ける。別件逮捕だと言って弁護士を要求してくる」
 「任同のときは道交法の速度違反?…」
「結果的に公務執行妨害になった。なりすましは公正証書原本不実記載。それに道交法違反を加えた…。相手はどこまで謳うかですね」
 「捜査指揮は誰がやったのですか?」
 風間は鬼頭を出しているだけに気になった。
「なにしろ例え殺していたとしても事件が古すぎる。江戸川捜本では金田悟さんが、はい乗りされたのは、川口から長野に転出した昭和五十一年ごろと見ている。外国への出入国記録はあるが、やつの場合は長期滞在ではなく短期の小旅行…」
 重森は苦渋に満ちた顔で風間に説明した。
 「毎朝新聞に掲載されて、果たして国外逃亡を考えたのだろうか。これまでも何回も国外に出ている。逃亡の意思があったかとなると…」
 「三十㌔オーバーの速度違反で呼び出しを受けていた…」
 「それは午前十時二十分の成田発北京行きのJL781便の予約があったことは確認されているはずだ」
 「確かに予約だけではなぁー」
 「結果論ですが、慌てることはなかったのではないかと思いますね」
 風間が続けた。
 「期待はガサですか。北との関係が出ればよいのですが…」

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