小説 DNA鑑定 「OL殺人事件から」 その1
プロローグ
ビルの谷間の木造二階建てアパート前路上に、赤色回転灯を付けたワゴン車が二台、止まった。背中に白色の文字で「警視庁」と書かれた紺色の作業衣の集団が慌ただしく降り立った。写真班を含めた八人の警視庁本部鑑識班の臨場だ。
最初に降りた鑑識課員の一人がアパート前で現場保存の制服警察官に向かって声をかけた。
「ご苦労さん。現場は一階のそれか?」
日没時間はとっくに過ぎ足下が暗くなっていた。制服警察官は敬礼をしながら答えた。
「この部屋です。こちらから入って下さい。段差があるので足下に気を付けて下さい」
ジュラルミンケースを肩にした課員が次々に向かって行く。赤色灯の灯りで道路の段差が確認できた。僅か三段だが腐食した梯子のような階段が立てかけられている。
木製の玄関のドアは茶褐色に変色し「一〇一号室」と黒く書かれた部屋番号の判読が困難なほど古ぼけていた。各部屋に通じる廊下の金属製の白い手すりも塗料が剥がれ落ち、既に腐食が始まっている。
鑑識課の班長が一〇一号室のドアを開けると異臭が鼻をついてきた。それはカビの臭いと魚の腐ったような臭いが入り交じり表現のしようのない匂いだった。
「おいっ!玄関に靴があるから気をつけろよ。仏さんの靴のようだ。写真と指紋の採取を忘れるな」
被疑者が揃えて偽装したのか本人が脱いだままなのか、後に重要なポイントになる可能性があるからだ。後ろに続いた課員が言った。
「死臭も始まっているようですね…」
班長ら二人は玄関で靴を脱ぎ、上がり框(かまち)でビニールの袋を足にかぶせて部屋の中に入った班長は、恐る恐る壁のスイッチを押して電気を付けた。
玄関の右手は四・五畳の台所になっており、襖一枚隔ててその北側に六畳の間があった。1Kタイプである。畳の上にサイズ違いの茶色のジュータンが敷かれ、江戸間のようだ。所々に黒いシミがあって全体的に黒ずんでいる。
天井から下がる箱型の蛍光灯はデザインそのものが古いばかりかグロー・ランプが老朽化しているため「ジィージィー」と音を立てている。
その真下に頭を東側に向けて両手を広げ、両足を閉じるように仰向けの状態で女性の遺体があった。ベージュのトレンチコートを着て、こざっぱりしている。班長の声がとんだ。
「部屋が狭いからな交替で入るなどして現場保存に注意してくれ」
家財道具がないのと北側にある唯一の窓にはカーテンもなく全く生活感がない。壁は部分的に染みが見られ、どうやらそれがカビの匂いの発生源のようだ。全体的に黒ずんでいるせいもあって部屋全体が暗く寒々と感じる。部屋に入ると同時に若い鑑識課員が呟いた。
「衣服に乱れがないんですよね…まるで空き部屋に入り込んで寝込んでしまったようなんだよなぁ…」
誰からともなく声が漏れた。
「ホームレスでもないようだしな」
台所を確認していた班長が部屋に戻り指示した。
「窓のカギがかかっているか確認してくれよ」
「クレセントですが完全にかかっています。ガラスにも異常はありません」
班長は写真班に指示した。
「その写真を押さえておくように…それと玄関のドアノブの指紋採取を忘れるな」
その会話を打ち消すように課員が声を上げた。
「なんだこりゃっ!」
窓枠下の壁際に無造作に放置されたスーパーの買い物用ビニール袋のひとつを両手で開いた状態で一人の鑑識課員が呆然と立ちつくしている。
「班長!腐った臭いの源はこれですよ」
班長が叫んだ。
「何が入ってるんだ」
「おでんのようです。ダイコン…それにジャガイモ、はんぺん…え~と、かまぼこかな…全部が腐りかけていますよ」
袋を開けたことで臭いがさらに強くなった。そう言えばここ数日、春らしい陽気が続いた。買ってから何日過ぎたのか分からないが、多少の防腐剤の入った袋詰めのおでんと違い、お店の煮込み品となれば腐るのが早い。班長が言った。
「仏さんは腐敗が始まったばかりなのか近くにくるとさすがに匂うな。しかし、ドアを開けた時のあの思い切った匂いはなんだろうと思ったらそれが原因か…写真撮影が終わったら窓を開けて空気を入れ換えようか…」
すると今度は、もうひとつの買い物袋に入っていた円形の透明プラスチック容器を手にした鑑識課員がこう言った。
「こっちは、野菜のミイラですよ。なんでこんな物があるんですかねぇ」
班長が良く見るとプラスチック容器のなかでやはりダイコンやナス、キュウリなどの粕漬けが干からびていた。
思いもよらぬ物の発見に鑑識課員は部屋に横たわる遺体に疑問を感じ始めていた。
番号札を置くなどして一通りの全景の写真撮影が終わったころ、玄関のほうから怒鳴り声が聞こえてきた。
「おいっ!玄関のドアを開けてくれ」
声を聞いた班長が課員に言った。
「やばいっ一課長だ!早く開けろ」
写真撮影のため開けたドアをそのまま突っ支り棒で固定したことから、ドアの幅しかない狭い廊下を塞いでいたのである。
間もなく中肉中背で白髪交じりの校長先生のような風体の男が白手袋をはめながら地元刑事課長の案内で部屋に入ってきた。先月末の異動で捜査三課長から捜査一課長に就任した平山治である。
その後ろからリーゼント頭で長身の管理官・加藤修平が続いた。何れも透明のビニール製の袋で足を覆っている。
「皆さんは随分と早い到着のようだが…どこを通って来たのかね?」
第一報で桜田門を同時にサイレンを吹鳴すればそんなに時間差はないはずだ。加藤の質問に班長が答えた。
「我々は転進組みなんですよ。世田谷に向かっていたのですが、三軒茶屋かな、あの辺りでこっちにまわされたので…」
転進とはある事件で現場に向かっていたが、より緊急性が必要な現場が出た場合はその現場が優先され転進させられる。
「早いわけだ…写真撮影は終わっていますかぁ~」
これに班長が答えた。
「全体的なものは押さえてあります」
頭が割れているとか内蔵が飛び出しているなど悲惨な現場とは違い悲愴感はなかった。班長が穏やかな口調で言った。
「只今、狭いので入場制限していまあ~す」
六畳一間では四人以上入れば鑑識活動が困難になる。それを聞いた地元の刑事課長がそぉっと玄関のほうに移動した。
それに気づいた加藤は刑事課長に「申し訳ない」と黙礼した後、遺体に両手を合わせ、近づいた。平山もこれに続き二人は仰向けになって両腕を広げている女性の顔を覗き込んだ。
顔は鬱血(うっけつ)してどす黒く膨れあがる「腫脹(しゅちょう)」の状態になっていた。僅かだが口の中に腐敗汁が貯まっているのを見た加藤が呟いた。
「既に腐敗が始まっているようだな」
警視庁の検死官で知られる芹沢常行によると、腐敗は温度や湿度によって違いはあるが空気中では一週間で腐敗が始まると言われている。水中では二週間、土中では八週間が相場だという。
今回の場合は春めいてポカポカ陽気が続いたが気温は十五、六度程度。最も腐敗が進と言われている二十度から二十七度にはなっていなかったのが幸いしているようだ。
「顔面の左額に擦過傷があるぐらいで…大きな傷は見当たらないな」
この加藤の言葉に平山が続けた。
「身の丈はおれぐらいなのに随分痩せているなあ…それにしても美人だな…おい、この仏さんは、ホラ、元NHKのアナウンサーで久保純子に似ていないか?」
「課長…それはちょっと言い過ぎじゃないですか…目鼻立ちはそうですが…こちらのほうが口が小さいというか顎が尖っていないですよ」
「やっぱり…違うかなぁ…」
この会話を聞いていた若い鑑識課員が班長の耳元でささやくように言った。
「一課長って久保ジュン好みなのかね…それを言うなら久保ジュンの顎を少し丸くした感じだと言えばズバリですよね」
「シーッ」と言って班長が課員の頭をポカリと叩いた。課員の帽子がずれた。
加藤は何を見つけたのか大きな声で言った。
「鑑識さん!これここ見てよ。ここにもあるぞ」
班長が寄ってきた。加藤の白手袋をした右手の人差し指の先で一本の縮れた毛の先端が窓から吹き込む風に揺れている。
それはトレンチコートの内側の遺体のブラウス左襟元付近に付着して茶色がかっている。もう一本は右肩下の絨毯にあった。部屋中のあの腐った臭いは既に消えていた。
「これは…陰毛ですね」
「陰毛?なんでそれがこの左肩に付いてるんだよ…」
班長は返事に困り「さぁ~」と言った。と、その時、台所の北側にあるトイレのドアが勢いよく開き、鑑識課員が叫んだ。
「コンドームがありました。精液が僅かですが入っているようです」
若い鑑識課員の左手を見ると、長さ十五、六㌢はあるコンドームがだらりと下がっていた。そのコンドームから青っぽい滴が落ちている。班長が怒鳴った。
「お前、写真撮ってから持ち出したんだろうな」
課員は、勿論ですと言う顔をしている。トイレには芳香防臭剤のブルーレットが入っており、青色の水滴がたれているのだという。
「コンドーム発見」の声に全員の手の動きが止まった。ストップモーションである。狭い六畳間での異様な光景だった。
平山が加藤に向かって言った。
「おいっこの仏さんは強姦されたような跡はあるのか?」
鑑識の班長が遺体にかけより、トレンチコートの胸元をはだけ、ブラウス、ブラスリップも確認したが異常はみられない。あくまでも被害者本人が着込んだようである。
確認は下半身に移りスカート、パンティストッキング、パンティも同じく乱れていない。さらにパンティには「尿失禁」の跡があった。尿失禁とは絞殺された場合は急死なので必ずその症状が見られる。
その作業を立って見ていた平山が今度は刑事課長に向かって聞いた。
「この害者はこの部屋とは全く無関係だよな」
玄関のほうにいた渋谷の刑事課長が答えた。
「その通りです。部屋の管理者とは全く面識がありません。なぜどうしてこの部屋に入ったのかが謎です。第一発見者がこの部屋の管理者代行で現在、署で事情を聞いています」
「分かりました。害者の身元が分かるような物はないのか?」
これには加藤が答えた。
「いゃ、このかばんの中はまだ見ていませんので…」
課長の平山は「早く見ろ」という顔をしている。促された加藤が鑑識班に声をかけた。
「鑑識さん、このバックの写真はいいね。動かすよ」
バックは遺体の頭の左上に置かれていた。なぜか取っ手の部分が千切れ開口部のチャックが開いているものの、中の物が飛び出てはいなかった。これも不自然である。
加藤は白い手袋のまま千切れた取っ手の部分に触れないよう慎重に中味を取りだした。そして一つひとつをジュータンの上に並べて行った。
「これが手帳でこれが住所録…でメモ帳…そしてこれが財布…あれっ!これなんですかね」
加藤は小さな袋を何個も取りだしジュータンの上にばらまいた。なんとそれは、一つひとつがパッケージに入った未使用のコンドームで、その数は二十八個もあった。写真班のフラッシュが光った。
「えーっ」
見ていた全員が絶句した。こうなればこの美人の正体を一刻も早く知りたいものである。
加藤は二つ折の財布を開いた。運転免許証と身分証明書のようなものが見つかった。
「課長!ありました。これですよこれっ。いいですか? 身分証明書によれば、この女性は東都電力株式会社総務部企画課の副長、渡瀬景子と書いてあります。写真が付いており害者の顔と一致します。間違いありません。本人です。東都電力の社員ですよ…」
「年はいくつなんだ」
次に加藤は運転免許証を見て言った。
「現住所は杉並区永福三丁目で昭和三十二年六月七日生まれですから…誕生日前の三十九歳ですね」
「財布の中味は?」
加藤が確認しながら言った。
「小銭だけですね。全部で四百七十三円です」
平山が玄関から中の様子を見ていた刑事課長に言った。
「これは発見時はカギがかかっていた密室なのか?」
「いや、この部屋の管理者代行が前日の見回りで、人が寝ているのを発見したのですが、その時は玄関のドアにカギはかかっていませんでした」
「きょう初めて見たわけじゃないのか?」
「初めて発見したのは昨日です。その日、管理人はそのままカギをかけて帰り、本日になって再び来てカギを開けて入ったら死んでいたということです」
「昨日は生きていて今日、死んでいたと言うことか?」
「寝姿が同じようだと言っているので…昨日から死んでいたのではないかと…」
「どうも分からんところが多いな。この仏さんはなんの目的でこの部屋に入り込んだんだろうか。管理人はなんでその時に届けなかったのか?持っている金額が余りにも少な過ぎるし…それに、なんで食材を買っていたんだろう…」
課長の平山はこうつぶやきながら再び遺体のそばに行って班長に問いかけた。
「死因はなんだ」
班長は遺体に近づいて指さしながら答えた。
「ここです。若干変色していますね。この『圧痕』から推測するには何か幅広い物、例えば手などで締められたことによる窒息死と思われます。それに…」
課長が質問した。
「おい、絞痕ではなく圧痕かよ…」
「まだ検死をしないと分かりませんので…とりあえずそう言わせてください。検死官は一時間後ぐらいになります」
さらに班長は遺体の目を開いて続けた。
「この白目の部分に黒っぽいノミに刺されたような跡がいっぱいありますね」
「蚤刺大(そうしだい)だろう…舌が歯の先から飛び出しているな…これじゃ絞殺に間違いないな。だったら絞痕でもいいじゃないかよ」
班長が説明するまでもなく課長はなんでも知っていた。そして決心したようだ。
「絞殺…しかも扼殺(やくさつ)か?これじゃ物証に苦労するぞ」
扼殺とは手で首を絞めることを言う。
「バックの取っ手の部分が千切れているし顔に傷がある…強殺で(捜査本部を)たてることにするか。加藤君な会議は今日は中止にして明日にしよう。あす午前中だ。署にあがろう。記者会見があるから…」
「そうですね。そうしましょうか…」
※
「はい、出動!渋谷の円山町で殺しだ」
在庁班の捜査一課第十一係の警部で係長の石川進を頭に警部補から巡査部長、巡査長まで総勢十二人が待機する大部屋に第一報が入ったのは午後六時過ぎだった。
三月十九日ともなれば東京の日没は午後五時五十三分だから西の空に明るさが残るものの街は薄暗く、街灯も灯りだしている。
「課長は間もなく出るから…電車のほうが早いと思うぞ」
班の「まとめ役」のデスク主任で警部補の今井順次が指示した。
今井と係長を除いた十人はそれぞれペアになっており、第一班は被害者の身辺捜査、第二班は事件現場の関係者への聞き込み、第三班から五班は現場周辺の聞き込みにあたるいわゆる地取り班だ。現場に行く手段はそれぞれの役目をそれぞれが考慮して捜査車両にするか電車にするかを決めれば良いのである。
但し捜査本部が設置されるとこのペアは解散し、それぞれが地元署の刑事や機動捜査隊員とコンビを組んで捜査に当たる。
この二月に所轄の本所警察署から捜査一課に出戻った木川田雄一(きかわだ・ゆういち)警部補は、かつて第二係の時に一緒に仕事の経験がある巡査部長の三田一平と第三班でコンビを組んでいる。三田は先輩の言う通りに木川田の木を音読してモクさんと呼んでいる。
「モクさん車で行きますか?」
「ああ、そうだなや…そうするか。地下二階に降りてや」
木川田は、興奮してくると少し訛ってくる。ただこの人物の特徴は少々、強情っぱりな性格であることだ。同僚は勿論、上司であろうと自分の考えを決して変えるような事はしない。
警察という階級社会の中でその生き様は果たして通用するのだろうか?ハラハラドキドキさせられる事が多い。
救いは、ただ強情と言っても、自分の非を認めずに「強情を張る」のではなく、常に「正義」を背景に「頑固おやじ」的なもので言葉を換えれば生真面目な性格で「個性が強すぎる」とでも言うのだろうか…。同僚からは信頼を得ているほか、仕事は完璧にこなすため一部を除いた幹部の信頼は厚い。
十三年前に機動捜査隊員から捜査一課に配属になったが正義感が強すぎるのと決して妥協を許さない生真面目な性格から、当時の捜査一課係長で今は一課の管理官をしている小池貫造と折り合いが悪く、ある〝事件〟をきっかけに捜査一課を追い出され四年間も所轄を転々として、ようやく警部補に昇進、戻ってきたばかりだった。
木川田は宮城県、小池は福島県生まれで東北人同士。気が合うはずだが、どういう訳か馬が合わない。
三田を乗せた木川田の運転する自家用車・トヨタワゴンのハイエースが本部庁舎地下二階駐車場から現場に向けて出発しようとしていた。木川田が聞いた。カーナビをセットするためである。
「現場の住所を言ってくれっか」
さきほどよりは訛りが治まっていた。
「渋谷区円山町一六、喜寿荘…」
「じゃあ、道玄坂上交番近くの駐車場を目標にすっか!」
木川田はこうしてカーナビをセットした。訛りは消えたようだがアクセントが三田には理解できなかった。同じようなアクセントで話す小池を思いだした。
「それにしても今日は小池管理官は部屋にいませんでしたね」
「シコーチがイッチ、ニチの小池だろう」
三田は吹き出しそうになった。木川田が真似るとまさに本人そのものである。
「なんですか?それ…」
「お前、知らないの?フグスマ県出身なんだってよ。だから飛行機はシコーチ、一機、二機はイッチ、ニチと訛るわけよ」
「だったら木川田さんはチカワダとなるわけですか」
二人は大笑いした。三田が言った。
「小池管理官って福島県出身なんだ。頭がチョい禿げ上がってさ、ダブルの背広なんか着込んで…何様だと思ってるんでしょうかね。葉巻でもくわえれば田舎のおっさんだよ」
木川田がライターを取りだしてタバコに火をつけた。酒を飲むし、かなりのヘビースモーカーでもある。
「ところで今度の事件の管理官は誰なんだ」
「加藤管理官と言ってましたよ」
殺しの部屋には庶務担の第一管理官を含めて五人いる。庶務担管理官を除いて四人が輪番制をとっている。三田が木川田に聞いた。
「モクさんは奴と仲直りする意思はないんですか?」
「なんで俺から仲直りしなければならないんだよ」
「そうですよねぇ。あれはひどかったものなぁ…」
木川田は黙った。三田の言うあれとは、いっぱいネタがありすぎて木川田は何をさしているのか理解できなかった。それにしても思い出すだけで虫酸がはしる。そんな木川田の表情に三田が気づいたのか謝ってきた。
「ごめんなさい…出がけにくだらない事を思い出させて…」
ハイエースはカーナビの指導で霞が関から首都高に乗り、3号線を渋谷で降りて現場近くの道玄坂上交番近くの時間貸し駐車場に着いたのは午後七時をちょっと過ぎていた。首都高3号線は比較的空いていたので予想以上に早かった。
しかし、サイレンを吹鳴して現場に急行する課長や鑑識、捜査車両とは雲泥の時間差が出る。
二人は現場に向かって歩きながらこんな会話を交わした。木川田が三田に言った。三田は上り坂で息切れし、ハァーハァーしている。
「お前さ、円山町ってどんな町だか知ってるんか?」
「ラブホテル街でしょう」
「今はそうだが東側の道玄坂は江戸時代には山賊がいたと言われているんだよ。そして西の神泉町、ここは昔は川が流れていて谷だった。ところが南側は富豪の邸宅が多かった南平台、北側はこれまた高級住宅地の松濤町だろう。それらに囲まれた円山町は花街で知られているんだとよ」
「ハナマチ?あの義太夫のあれですか」
「要するに芸妓置屋がいっぱいあったとこだよ」
「それがラブホテル街になったというわけか…今回の害者は芸妓さんだったりして…これは燃えてきますねぇ」
「なに言ってんだよ。馬鹿たれめが…」
そんな話しをしながら進んで行くと前方に井の頭線の神泉駅舎が見えてきた。踏切になっている道は一方通行で大型トラックが一台、通れるくらいの狭さだ。
踏切から先には白黒のパトカーをはじめ鑑識車両、機捜隊の車両が左側に寄って一列に駐車。車道側をミニスカートの女性や茶髪の男など渋谷特有の若者が行き来し、野次馬でごった返している。その混雑ぶりに木川田らは現場に近づくのさえ苦労させられた。
神泉駅の踏切を過ぎたところで前方を見ると十五、六㍍くらい先の右側に古びた二階建ての木造アパートが目に入り、そこを中心に非常線が張られていた。どうやらそこが現場のようだ。
一階の一番手前の道路に面した部屋の窓が写真撮影のためか時々フラッシュの光が漏れている。だが、その部屋の下に、なにやら色の派手な食事処の看板が目立った。その看板と古ぼけたアパートのアンバランスが奇妙だ。
とにかく、現場の説明を受けなければならない。かつては捜査員も現場に入れたものだが、近年になって現場を見られるのは、捜査一課長、管理官、現場を管轄する警察署長や鑑識班員などに限定されている。
こう決められた当時、木川田が係長に文句を言ったのを今でも鮮明に覚えている。
「これから捜査を始めようと言うのに、捜査員が現場を見られないだと。これじゃ仕事になんねぇじゃねぇかよ!課長や管理官が捜査するんじゃねぇんだからよ」
この時の係長が小池貫造で小池はこう言い返してきた。
「チミ達スタッパ(下端)は命令にスタガエ(従う)ばええんだ。黙ってスゴトすろ」
それにしてもアパートに近づけば近づくほどその古さに愕かされた。先ほど見えた食事処の看板を見て木川田は吹き出しそうになった。「まん福亭」と書いてあり一㍍四方はある。現場の部屋の真下、つまり地下にその店があった。
「ということは木造で地下一階、地上二階建てか…できた当時はハイカラだったんだろうな」
そんな事を思いながら木川田は捜一の腕章を左腕に着けながら入り口の方に近づき、アパート一階の各部屋に行く通路を見ると、奥のほうでデスク主任の今井が手招きしている。
「ひどく狭い通路だなぁ」と思いながら制服の警察官に腕章を示し一歩、中に入ろうとした。ところが木川田は何かに蹴躓いて向こう臑をしたたか打ったのである。
「痛っ!」
足下を見ると道路からアパートの通路に入るために三段の鉄製の梯子が置かれていた。
おまけに木川田の〝事故〟を見ていた三田が言った。
「道路が下り坂になってるんだ」
木川田は三田を睨めつけながら通路に入って行った。今井は一〇三号室の前にいた。
「人の部屋の前じゃまずいだろう。もっと別の場所でしようよ」
到着した刑事たちに順番に事件現場の状況などを説明している今井が答えた。
「この部屋は空き部屋だから…それにもう君たちが最後だからここでいいんだよ」
今井は部屋の状況の説明と課長の事件の見方などの説明を始めた。
「鑑識の見方では死因は窒息死。手で首を絞めたものと見られるそうです。死亡推定時間は約一週間前とみています。もともとこの部屋は空き部屋で害者とはなんの関係もありません。なんでこの部屋で殺されているのかも解明できていません」
三田がメモをとっている。木川田が聞いた。
「身元も分かんないんだな。害者は何歳ぐらいで一見してどんな女なんだい?」
「すみません。OLで身元も分かっています。東都電力の社員で名前は渡瀬景子、三十九歳。杉並区の永福町に住んでいます。課長の見立てではNHKの久保純子なみの黒髪の美人だそうです。身長は一七〇㌢弱で痩せ形でスラッとした感じ。ベージュのトレンチコートを着ていて黒色のショルダーバックを持っていました」
説明が終わったあと、今井は木川田にこう言った。
「モクちゃんらは三班で地取り班だよね。機捜隊もやっているが写真がまだ無いんですよ。検討会(捜査会議)は明日午前中に開くんで…その時に渡せるかと…」
今井は捜査一課第十一係の中で最年長刑事で定年まで二年を残す大ベテランであり、信頼も厚く「部屋長」とも呼ばれている。その今井が三田を見ながら言い出した。
「昔は『現場百辺』と言って現場を大事にしたものだった…現場を見て刑事がそれぞれの勘で事件を読み取ったものだよ。行き詰まった時は現場に戻る…そしてまた何かを感じ取って捜査に生かす。それができなくなった。なんていうか変な時代になってしまってな…君たちは大変だよ」
木川田はこの今井の愚痴を背に現場を離れた。
こうして木川田と三田は機捜隊員らとともにアパートから東側のラブホテル街から渋谷駅方面までの聞き込みに入った。道玄坂は深夜に入っても人通りは耐えない。(つづく)
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