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2014年2月 2日 (日)

DNA鑑定 その3

 「先入観を持つな」
 四月中旬のある日、捜査本部のデスク席にいた石川のもとに、慌ただしく巡査部長が駆け寄ってきた。
 「係長!これを見て下さい。謎がとけましたよ」
 手には被害者の手帳のコピーが握られていた。指さしたところを見ると次のように書かれている。
 十月十九日(土曜日)と十月二十六日(土曜日)の結果欄にそれぞれ「?0・二千」と書かれている。
 巡査長は説明を始めた。
 「被害者のアドレス帳に書かれていた渋谷のパキスタン人から事情を聞くと、露天でなら二千円でいいよと言われて買春したそうです。そしてその話を友達にしたらその友達は十九日とさらに別の友達は二十六日にやはり二千円で駐車場で彼女と性交したそうです。本人は彼女とは何回か相手をしているので名前はアドレス帳に書かれていますが、教えられて買春した二人は初めてなのでアドレス帳に書かれていません。ようするに彼女があまり知らない初めての人物には結果欄に?を付けているようです」
 これで暗号めいた文字の謎が解けたことになる。中には平成八年七月から九年三月まで三十三回の買春をした人物もおり、それはしっかりとアドレス帳に記入されていた。
 こうしてひとつひとつ潰していった結果と今回の巡査長の話しを総合すると次のような事実が浮かびあがってきた。
 平成八年手帳の中で十二月十二日の結果欄に「?外人三人(四〇一)一・一万」さらに十六日には「外人(四〇一)〇・三」と書かれていた部分だ。
 つまり、この「四〇一」はジハールが入居している粕谷ビル四〇一号室の人物である可能性が高いというのだ。
 このため捜査本部は出入国管理法違反の罪で拘留中のジハールを除いた他の入居者四人について全員からアリバイを含めて事情を聞くことにした。担当は地取り班の菊池主任が行うことになった。
 最初は四〇一号室の同居人で二十三歳のネパール人からだ。
 「君はミスター・ジハールとはどういう関係か?」
 既に不法滞在で逮捕されているジハールとの関係を聞かれ、オドオドしている。
 「同国人です」
 「そんな事は分かっている。どのような関係かと聞いているんだ」
 「ある人の紹介から日本でお世話になることになりました」
 「では聞くが隣のアパートで殺されていた女性を知っているか?」
 「私は何も知っていません。私は日本に来たばかりで六日から渋谷にあるお店に就職したばかりで、仕事は午後七時から午前五時まで働いています」
 今度は十八歳の未成年者だ。単刀直入に聞いた。
 「君は三月八日の土曜日はどこで何をしていたか?」
 「私は学生ですので、自由が丘の焼肉店でいつもアルバイトをしています。あの日は午後一時四十分に出勤し午後十一時まで仕事をして十一時二十七分の電車で渋谷に帰ってきました」
 捜査本部は時間が余りにも細か過ぎるとこもあり十一時二十七分の電車で実査したが渋谷到着は十一時五十七分で喜寿荘前の目撃時間には無理があることが分かった。
 捜査本部は事件当日というよりは、十二月十二日の結果欄に書かれている「?外人三人(四〇一)一・一万」について解明する必要がある。二十三歳の男は来日したばかりで、もう一人は未成年だ。そこで三十六歳の男に重点が置かれた。
 「君は昨年の十二月十二日どこで何をしていたか?」
 突然聞かれた男はただ呆然としている。菊池は質問を変えた。景子さんの写真を見せながらこう聞き直した。
 「失礼、この写真の女性は知っていますか?」
 ジーッと見ているがなかなか口を開かない。
 「どうして黙っているんだ。なにか都合の悪いことでもあるのか」
 それでも口を開こうとしない。たまりかねた菊池はズバリと聞いた。
 「それでは十二月が思い出せないのなら三月八日…あの日の夜はどこにいたのか?」
 さすがにこの質問には答えた。
 「六本木のレストランの厨房で午後六時から午後十一時、日によっては午前五時まで仕事をしています。あの日は午後六時過ぎに部屋を出てレストランで九日の午前五時まで仕事をしていました」
 「この写真はどうなんだ。知っているのか知らないのか?」
 今度は横を向いてしまった。菊池は少し強引に聞くしかないと思った。
 「君たち四〇一号室の三人は、この女性と四〇一号室で買春をした事があるだろう。黙っていてもな、記録に残っているんだよ。買春の意味が分からなければセックスをしたことがあるかと聞いているんだ」
 それでも三十六歳の男は黙っている。今度は下を向いてしまった。菊池は机を叩いてこう続けた。
 「なぜ黙っているんだ。それは昨年の十二月十二日の日だ。金額まで言ってやろうか?」
 金額まで知られているようでは黙っていられなくなったのだろう口を開いた。
 「いや、十二日かどうかはっきりしないのですが…確かにジハールら三人でこの女とセックスをしました」
 「もう一人は誰なんだ」
 しかしこの質問には答えなかった。この様な外国人は不法滞在が多く、なかなか正直な事を言ってもらえない。
 「それでお金はいくら払ったんだ」
 「三人で一万千円だったと思います」
 「その後、何回ぐらいしたのだ」
 「一回だけです」
 菊池はもう一度確認した。
 「君が一回だけなのか三人そろってセックスしたのは一回だけなのか、どっちだ」
 菊池はちょっと苛立っていた。
 「どちらも一回だけです」
 菊池は三人による行為が一応、証明されたとしながらも、さらに補強するため、三人のうちの一人と見られる二十七歳の男にも事情を聞いた。しかし「知らない」の一点張りで収穫は無かった。
 この結果、捜査本部は十二月十二日の結果欄に書かれていた「?外人三人(四〇一)一・一万」とあるのは、ジハールを含めた三人による買春であったという事実はとりあえず証明されたと判断した。
 そうなると四日後の十二月十六日の「?」のない「外人(四〇一)〇・三万」はジハールの可能性が高くなったのである。
 完黙を続けた二十七歳の男については、三月八日の行動の確認捜査をしておかなければならなかった。
 捜査の結果、男は港区西麻布のレストランでバーテンダーをしており、八日は午後六時から翌日の午前四時まで仕事をしていたことが確認され、事件とは無関係と分かった。
 さらに捜査本部は、このうち二十七歳を除いた三人と八日の事件との関連について現場から採取した陰毛の血液鑑定、DNA鑑定を実施したが何れも一致した者はいなかった。
 二十七歳の男についてはDNA鑑定ができなかったが血液型がA型で精液も陰毛も一致しなかった。
            ※
 菊池主任の柏屋四〇一号室関係者の事情聴取結果報告を受けた係長の石川が課長室を訪れ、平山に説明したあと次のような同意を求めた。
 「結局は四人のうち一人しか落とせなかったのですが、それでも方向性はどうしてもジハールを向いちゃうんですよね。それで一応、動機面から追ってみたいんですが…」
 「そうなるのは分かる。しかし先入観は持つなよ。金の問題な。それはいいだろう」
 「それでモクちゃんを使いたいんですよ」
 平山は笑いながら答えた。
 「木川田君な…すんなり『うん』と言わないんじゃないか。命令には反発する奴だからな…なんか渋谷の連中の話しだが、密かに巣鴨の定期券を追っていると聞いたぞ」
 石川は『まずい』と思った。「個人プレーより和を大切にする人情家」の課長である。石川はこう言ってその場をとりもつしかなかった。
 「えぇ~聞いてませんよ。勿論、指示もしていないんですが…なんで彼は定期券にこだわるんだろうなぁ…」
 しかし、課長は人情家でもあった。
 「まぁ、そんなはみ出た者が一人ぐらいいても組織への刺激になっていいんだよ。ジハールの件は彼にやらせるのもひとつの手だな」
 石川は課長の懐の広さを改めて知らされた。平山はさらに続けた。
 「なんと言っても彼は、ホテルジャパンの経理…加納管理官の時だったな。経理面から経営者の責任を追及しようとして捜査二課を入れたんだが、『安全面に向ける資金的な余裕がない』という調書をまきやがった。加納管理官が頭を抱えたよ。そこで木川田にもう一度やらせたんだよ。そしたらあいつは、『資金的に余裕あり。経営者の合理化が安全面を無視した結果』という調書まいてきたんだよ」
 木川田のこの武勇伝は石川も知っていた。だが、石川にはもうひとつ問題を抱えていた。それは小池管理官だ。
 廊下で会うたびに言われることがある。
 「チカワダ(木川田)をメーンで使うとメチャメチャになるぞ」
 そして小池管理官から決まって出て来る言葉がある。
 「奴はゴマカスのがうまいがら経費をスッカリ見ろよ」
 石川はそれが何を意味するのか分からなかった。しかし、どうしても捜査に関しては捨てきれない何かを彼は持っている。石川は思いきって平山に相談した。
 「課長、実は…小池管理官に『彼の経費に気を付けろと』と言われるのですが…なんかあるんですかね」
 「あぁ~あれな。沖縄の毒物事件、いわゆるトリカブト事件捜査でな、被疑者が住んでいたアパートの畳を切り刻んだんだ。勿論、毒を抽出するためにだ。ところが家主から『畳代を出せ』って言われて困った彼は、北海道に出張したことにして畳を弁償したんだよ。これ加納さんも認めて処理してあるんだが、小池君は『空出張だ』って当時騒いだんだよ。仲が悪いんだよ二人は…気にする事ないよ」
 石川は安心した。「個人プレーより和を大切にする人情家」の平山が「ひとりぐらいはみ出し野郎がいてもいい」と木川田を評価した。それだけの武勇伝を彼は持っている。
 これで、心おきなく木川田にジハールの金銭面にメスを入れさせられることができるーと石川は決心した。
          ※
 翌日も木川田は午前中は連絡が取れなかった。昼過ぎに顔を見せた木川田に石川が言った。
 「モクちゃんな、君のセンスでジハールのふところ具合を調べてもらいたいんだよ」
 「いいですよ。しかし、誰が彼にそんなに惚れ込んでいるんですか」
 「惚れ込むというよりも上がってくる情報を聞いているとどうしても流れがジハールに行っちゃうんだよ」
 「危ないんじゃないの…」
 「それでな、奴はネパールで家を建築しているらしく、仕送りもあって金銭的に困窮しているそうなんだ。回りにも借金しているという噂があってな、動機面にもつながるので頼みたいんだよ。課長も了解済みなんで…」
 木川田は独自の判断で、捜査のポイントになることからあらかじめ同僚の滝田にはそれとなく調べさせていた部分である。それが課長からのお墨付きとなれば堂々と動くことができる。
 その日の午後、滝田と打ち合わせした木川田はジハールの日常生活の金銭面から捜査に入ることにした。木川田は滝田にあらかじめ調べさせておいた結果の報告を聞いた。
 「ジハールは粕谷ビル四階の四〇一号室に同じ国のサビンやマダン、リラなど五人で住んでいるらしいですね。家賃は五万円だが、どういう訳かジハールが同居人からは一人三万円と部屋の電話代として二千円を集めているらしいんですよ」
 「ジハールが仕切っているという訳か?」
 「そうです。と言うことは月十二万八千円になりますよね。自分の家賃がただになるばかりか、電話代がどのくらいかかるか分かりませんが逆に七万円近くもジハール個人の収入になっているんですよ」
 「その家賃は銀行振り込みか?」
 「いや、ジハールが管理人代理の丸山に渡し、丸山が渋谷でカプセルホテルを経営している小崎道雄のところの従業員である石垣明美に預け、石垣がホテルの売上金と合わせて銀行口座に入金するという仕組みらしいですよ」
 「丸山に当たったか?なんと言ってるんだ」
 「他の班もいるので当たりづらかったんですが…」
 「そうそう。それでな、課長命令でこれからはジハールの金銭面は俺らが調べることになったからこれからは気にすることないよ。それで俺が丸山に詰めるから君はジハールの海外送金状況を詳しく調べてくれないか。必要なら捜査関係事項照会でもなんでも使っていいよ」
 捜査関係事項照会とは刑事訴訟法一九七条二項の規定により公私の団体に対して必要な事項の報告を求めることができるというもの。捜査はペアが原則。木川田にはそんな原則は通用しないのである。
 木川田は一〇一号室の管理の代理をしている丸山健士から事情聞く前にジハールが本当に滞納家賃とカギを返しているのかを確認しておく必要があった。このためジハールが預けたと供述している同居人のラウルと接触した。そしてズバリ聞き出した。
 「君は丸山さんに返す喜寿荘一〇一号室の滞納家賃十万円をジハールさんから預からなかったか」
 堀が深く目がギョロッとした好青年のラウルが答えた。まだ日本語に慣れていないようで片言の日本語だった。
 「ワタシ、確かにアズカリました。アパートのキーと十万エンです。五日にアズカリ、ヨクジツの六日に丸山さんに手渡しました」
 「直接手渡したんだな。それを証明できる物はあるか?」
 「ショウメイできるとは?」
 「丸山さんが受け取ったという証拠だよ」
 「私、嘘、言ってません。丸山さんに聞いてみれば分かることでしょう。それはあなた方が商売です」
 木川田はラウルのこの言葉を確認するため丸山に会うことにした。丸山は快く聴取に応じてくれた。
 「不法滞在で捕まえているネパール人のジハールについて聞きたいことがあるんだが…」
 「どんな事でしょうか。うちも困っている人物なので…」
 「柏屋ビルの四〇一号室の家賃を滞納していると聞いたが事実ですか?それに彼の支払い能力は当初からあったんですか?」
 「給料は二十万円以上貰っていると言っていましたが、ネパール国内で自宅を新築しているらしく送金しているので苦しいと聞いたことがありますよ。そのためかうちの家賃が二か月分十万円も滞納しました。ほかに同僚からも大分借金していたようですよ」
 「滞納家賃は返して貰ったのですか?同居人のラウルは預かっていたあの部屋のカギとともに返したと言っていますが…」
 今度は丸山が木川田に逆に質問してきた。
 「いつ返したと言ってましたか」
 「六日と言っていたよ」
 「なんで嘘を付かなければならないのでしょうかね」
 丸山は困った顔をして話し出した。
 「実は三月一日にジハールに家賃の催促の電話をかけたのですが留守電でした。伝言を入れていたら二、三日後に電話があり、五日の水曜日に家賃とカギを持って行くと言ってきたんです。ところが五日は来ませんでした。持って来たのはさらに四、五日後ですよ。どうもあの部屋(四〇一号室)の連中は口裏を合わせてなんか嘘をついているんです。その理由が私たちは分かりません。入金関係のことでしたら、うちの会社で経理を担当している石垣明美という者がいますので聞いてください」
 「ではラウルから貴方は一〇一号室のカギと家賃を時期は別にして返してもらったということでいいのですね」
 「そうです。自分が受け取りました。但しその日は十日ですから八日にあの部屋に出入りできたのは自分一人だけなんて疑われては困ります。この事は他の刑事さんにも話してあります」
 木川田はこの供述の裏をとるためにはカプセルホテル従業員の石垣明美に会う必要があると判断して丸山とは別れた。そしてこう決心した。
 「ラウルを逮捕して締め上げる必要がある」
 この日の昼過ぎ、木川田が銀行に照会していたジハールの銀行口座の出入金状況の回答が出た。
 それによると、ジハールの給料は月によって変動はあるが数万円程度の差だった。三月は幕張のマハラジャからの給料二十一万六千九百二十五円が五日にジハールの銀行口座に振り込まれ、六日に二十一万六千円を引き出していることが確認された。
 その日の午後、ジハールの送金状況の調べを終えた滝田から結果が報告された。
 「ネパールの家の資金は日本円にして二百万円から三百万円の間らしいですよ。毎月決まって送金しているのではなく、帰国する同国人に頼んだり国内の業者に送金を依頼しているそうです」
 「業者って、まさか地下銀行じゃないのか?」
 「いやきちっとした業者でした。最近は二月五日に約三十万円を送金していました。三月は業者からは送金していません」
 「二月五日に三十万円か…」
 滝田は続けた。
 「どうもマハラジャの給料だけでは足りなくてその時は同居人のサビンから十五万円を借りたようですが、六日に返済しています」
 「分かった。これで読めた。三月の給料として六日にマハラジャから二十一万六千九百二十五円の入金があった。そしてその中から二十一万六千円を引き出した。この時点で給料を貰っているマダンから家賃と電話代金の三万二千円を受け取った。そしてサビンに十五万円返しているんだよな。そうすると六日の時点でジハールの手持ちは九万八千円で十万円を割っており、六日に丸山に滞納家賃を返すには足りなくなっているはずだ。問題はその不足分をどうしたかなんだ」
 そして木川田は滝田にこう言った。
 「そうするとな、この時点で奴の手持ち資金は九万八千円なんだよ。当然六日は返せないよな。で、事件の被害額は四万円…納得できる金額ではあるんだが…残りはカギの問題だな」
 「そうですね。カギを持っていない被害者がなんであの一〇一号室に入れたのか?そう考えると午後十一時五十分前後の東南アジア系男の目撃。そのカギを持っていたのがジハールで、そのジハールと被害者は過去に三人プレーをしており顔見知りだったとすれば、合点がいくんですが…やっぱりどうしてもジハールにいっちゃうんだよなぁ」
 「分かったそれではカギと一緒に返した日時の裏をとろう」
 木川田らは翌日、石垣明美と会った。石垣は小崎が実質的に経営しているカプセルホテル「アストロ渋谷」の従業員だった。
 黒髪のロングヘアーの似合う娘で身長はゆうに一七〇㌢はあるだろう。昔で言えば八頭身美人である。若い滝田は見とれていたが木川田には日本人には見えなかった。
 ホテル事務所を訪れた時は薄いブルーの制服にタイトスカート姿で現れた。それがミニである。滝田が見とれている。
 木川田は目的を告げて単刀直入に質問した。
 「喜寿荘の部屋代の件ですが、例の一〇一号室の滞納分の十万円を貴方が丸山さんから受け取ったのはいつですか」
 石垣は思い出そうと天を仰いだが結局、預金通帳を取りに机に戻った。通帳を手に歩きながら中味を確認してこう言った。
 「ごめんなさい。通帳を見るとホテルの売上金の銀行への入金は六日、十日と十一日で、十一日に十万円の一〇一号室の家賃の別記入があるので十日には受け取っていますね」
 木川田が確認した。
 「その十万円は以前に受け取っていて入金が遅れて十一日になったとは考えられませんか」
 石垣は首を振りながら笑顔で答えた。それがチャーミングなのである。木川田まで見とれてしまった。
 「それはたぶんありません。なるべく早く入金するよう社長から言われていますから…例えば夕方になったとしても翌日には必ず入金するようにしています。七日の金曜日に受け取ったとすれば土、日を挟むため、月曜日の十日の入金になるはずです。ですから六日なんてありえません」
 木川田らは礼を言って石垣と別れた。これで「カギと滞納家賃を受け取ったのは十日だ」とする丸山の供述と一致した。
 これでほぼ金の流れは分かった。あとはジハールが勤めていたマハラジャで生活実態を確認する必要があった。
 〝立ちん坊〟までして見知らぬ男と性交するほどお金に固執したひとりの哀れな女性の怨念を晴らしてやりたいー執念である。
 木川田は幕張マハラジャの店長に電話をかけて事情を聞きたい旨伝えた。そしてそのチャンスは四月九日の夕方に訪れた。店長代理の堀口章が対応してくれた。
 「ジハールさんの給与は月額二十一万円と聞いているが銀行振り込みですか」
 堀口は丁寧に答えた。
 「月によって超えることもありますが概ねその金額で毎月、銀行のジハールさんの口座に振り込んでいます」
 「ところで日常の勤務状態や交遊関係で何か問題があるようなことはありませんでしたか」
 「彼の場合は通勤が千葉から渋谷でしょう。夜は閉店が十時ですから時間がないので真面目に帰っていたようです。ただ…」
 堀口の言葉が詰まった。
 「ただ、どうしたのですか」
 「こんな事、言っていいのか分かりませんが、ここ数ヶ月はお金に困っていたらしく、時々、うちのコックのハッシムなどから借りていたようです」
 木川田がハッシムに事情を聞くと、二月初め一万円貸したが三月に入って返金してもらい、現在のところは貸していないという。
 それよりも木川田が気になった事があった。それはジハールの帰宅時間である。堀口に尋ねた。
 「お尋ねしますが、ジハールさんはいつも午後十時まで勤めていたそうですが、三月八日は何時に帰ったのでしょうか?分かりますかね」
 「それは別の刑事さんにも話してありますが、あの日はタイムカードの刻印は午後の十時ちょうどでした。ところが後で刑事さんの指摘で分かったのですがうちの時計が二分四十秒ほど進んでいたらしく、帰った時間は九時五十七分ごろだったということです」
 木川田は心の中で計算した。
 「八日夜、確か午後十一時二十五分から四十五分ころまでの間に、男と女があのアパートの一階の通路にいるところを見ました」という目撃情報がある。果たしてその時間まで帰られるのか。同じ時間帯の電車に乗ってみることにした。
 店を出てから海浜幕張駅まで歩いて五、六分で着く。この時は土曜日なので海浜幕張発、京葉線の東京方面行きは十時台では七分発、二十二発、三十七分発、五十二分発の電車があった。
 ジハールが利用した電車の時刻はたぶん午後十時七分かその後の二十二分だと思われる。木川田は七分発の電車に乗り、実際に喜寿荘まで行ってみることにした。滝田は二十二分の電車に実車した。
 十時七分に海浜幕張発の京葉線に乗り東京駅で山手線に乗り換えて渋谷駅に着いたのは午後十一時二十六分ころ。木川田は井の頭線に乗らずに神泉駅まで約六百㍍を歩いてみた。確かに余裕はないものの、十一時三十五分前にはアパートに到着することができた。
 一方、滝田の乗った二十二分の電車では渋谷駅が十一時二十四分ごろで歩いて喜寿荘まで行くと十一時五十分ごろになってしまう。
 木川田らは七分か二十二分発の電車に乗ったものとして渋谷駅から円山町界隈でジハールの足を追ったが目撃者にはぶち当たらなかった。
 「だからあのサンドイッチマンの目撃も大事になってくるんだがなぁ…」
 こう思った木川田はカギと滞納家賃の問題でジハールと同居している一番年下の男、ラウルにもう一度、確認しておく必要があった。
 「先日、君はジハールさんから頼まれたカギと家賃を丸山さんに返したのは三月六日と言ったよな。丸山さんは受け取っていないと言っている。どうして嘘をつくのか?」
 木川田の厳しい表情をくみ取ったのか、ラウルは黙り込んで下を見ている。
 「君ね、嘘をつくという日本語は分かるか」
 それでも黙り込んだままだ。木川田が続けた。
 「丸山さんに五日か六日に返すと電話を入れたそうだが留守電だった。我々が入金時期について銀行の記録を調べたら六日ではなく十一日なんだよ。これ、どういう事?君が嘘をついても記録があるから分かるんだよ。それでも認めないのか!」
 木川田の語気が鋭くなったのに気が付いたのかラウルは口を開いた。それは涙声になっていた。
 「実は、ジハールさんとサビンさんが警察に出頭した二十二日の朝、サビンさんがトイレに行っているときです。ジハールさんから『警察にカギの事を聞かれたら、私の給料日の翌日の六日に十万円と一緒に丸山さんに返した』と言ってくれと頼まれました」
 木川田が「それだけか」と聞き返すとさらに続けた。
 「いえ、二人で出る直前にサビンさんがジハールさんに『あのカギはどうした』と聞いていました。ジハールさんが私を見ながら『彼が返した』と言ったので、私は六日に返したことにしなければならないのかと思うようになりました」
 ラウルはさらに続けた。
 「ところがジハールさんは、私が警察に行けないことに気付いたようで警察に行くサビンさんに『そうだ、お前が返した事にしてくれないか。そしてカギを返したのは十五日前だときちんと言ってくれよ。警察に…』と頼んでいましたがサビンさんは返事もせず出て行きました」
 木川田はこれで納得した。丸山が言っていた「口裏合わせ」が立証されたことになる。
 そして渋谷署は木川田の要望通り、三月二十七日にラウルを難民認定法違反容疑で逮捕。身柄を拘束した上でさらに追及した。ところが、それは逆効果で供述をくるくる変えてきたのである。
 「カギはジハール本人が返した」から「頼まれて自分が返した」に変わり、さらに「自分が返したというよう口裏合わせをした」など供述に変遷が見られたのである。
 さらにサビンは調べに対して「カギを返したのは私でない」と言っていたが翌日には「違う私が返した」と供述するなどぶれにぶれた供述を繰り返した。
 木川田の仕事はここまでは順調に進んでいたかのように見えたが、良い事だけは続かなかった。 
 ジハールの足取りを追っている警部補から係長に苦情が出た。
 「木川田が俺たちの領域まで食い込んだ捜査をしているが、係長が命じたのか?」
 石川は何を言われているのか理解できなかった。
 「いや、そんなことはないはずだ。彼はジハールの金銭面を裏付けているはずだよ」
 捜査員は声を張り上げた。
 「俺たちのやってること信じられねぇって言うんかね。ジハールの足取りを追っているぞ。こんなこと課長に聞こえたらどうなるんだ!あんた達はいつから裏の班を設けているんだ」
 個人プレーより和を大切にするーこれが課長、平山治の方針である。石川は説明に窮した。
 「申し訳ない。俺のほうから言っておくので…」
 翌日、木川田は石川に呼ばれた。
 「どうだね、ジハールの金の状況は?」
 石川がわざわざ呼び出して途中経過を聞くなんて珍しいと木川田は思った。ネパールの送金の事実を含めてジハールの資金面の困窮状態を報告した。そして石川が言い辛らそうに口を開いた。
 「そうか、やっぱりそうなるか…ところで実は…」
 どうも石川の歯切れが悪い。
 「ジハールの足取り班から、『木川田主任が勝手にジハールの足取り捜査をしている』と苦情がきたんだよ。金の流れをやっていると言っておいたが、組織捜査なんだからくれぐれもトラブルのないように頼むよ」
 むっときた木川田が一言だけ言って立ち上がった。
 「オイラ、昔から組織のためだけに仕事をしてるんじゃねぇよ。たまたま行った先で、疑問を持ったから聞いただけじゃねえのか…それが刑事ってもんだろう。なんでそれが悪いんだよ。言われた事以外にやっちゃならないという規則でもあるのか?」
 疑問を持ったことはとことん追及するー木川田の個性を古くから知っている石川には理解できる。だが、職人の職場・捜査一課にはこんな戒めの言葉があった。
 個性ーそれが、時として邪推を産むことがある…だが、木川田にはそんな言葉は通用しなかった。(つづく)
 

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