警視庁管内体感治安レベル2
首都東京体感治安(20、21日単位・レベル)
成田空港の思い出
【治安つぶやき】
成田空港が開港して20日で35年目を迎えた。今では、国際線の年間利用客が3400万人を超えるなど大国際空港になったが、事件カメラマンだった自分にとって生涯忘れることのできない思い出がある。
昭和41年に建設が閣議決定。自分がカメラマンになりたての44年以降、現地測量が開始されたと記憶している。反対運動は当初から過激で測量の時から機動隊が出動していた。攻撃の対象は警察官だけでなく、報道の腕章をつけた我々にも向けられた。集会現場に向かうため農家の前の道路を歩いていると「この犬め!」と叫び、植え込みから先が鋭い竹槍が飛び出してくる。何度、胸をかすめたことか…
集会の取材では「うんこ爆弾」が登場した。大便、小便を入れたビニール袋が投げつけられた。ヘルメットに当たり、周辺に人糞が飛び散るだけでなく着ている乱闘服に付着しようものなら、臭くて仕事にならなかった。
運動は益々過激になり、46年9月には東峰の路上でデモ隊と警官隊が衝突。機動隊員3人が死亡した。
今でも忘れることができない出来事がある。53年3月26日。ほぼ完成した空港近くの道路を取材していると、白ヘルに鉄パイプを持った集団が道路いっぱいになって走って来る。もの凄い迫力だった。集団はそのまま空港の施設に乱入した。その施設は管制塔。一緒に入ろうとしたら竹槍どころか鉄パイプで追われて逃げ帰った。
ところが翌日、管制室の機材を鉄パイプでたたき割っている写真が他紙に掲載された。撮れなかった自分はデスクにメチャメチャ叱られた。「命を捨てろと言うのか」と一人泣いたことがあった。
しかし、嬉しかったこともあった。昭和53年5月20日の開港日。デスクは自分に「飛び立つ1番機の写真を撮れ」の指示を出してくれた。光栄なことである。「ヒューズ300」というヘリコプターで、A滑走路から飛び立つボーイング機の離陸瞬間の写真をものにできたときは、機内で声を出して泣いてしまった。事件カメラマン冥利につきると感動した瞬間だった。
首都東京体感治安は「レベル2(ブルー)」とする。
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