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2009年7月10日 (金)

連載小説警視庁薬物特命捜査官(62)

        長一郎の夢

080713_164028_m  葡萄の花が咲く時期を迎えた。それまで母ちゃんは毎朝早く、葡萄畑に、たすくさんと二人で仕事に出ていた。
 高原の朝は早い。聞こえるのは鳥の鳴き声と、家の裏にある杉の大木の風に揺られる葉音だけだった。車などはない時代だ。どこに行くにも歩いてだった。

 葡萄畑には幾重にも棚がつくられており、間もなく房に白い小さな花を付けた。広々としたこんな平らな畑なんか見たこともないし、ましてや、綺麗に作られた棚。その棚に、白い小さな花の房が何本も垂れ下がる光景は、長一郎にとって生まれて初めて見る光景だった。「世の中にこんな綺麗な景色があったのか」と思った。

 小さな花が散ると、花の後には小さな緑色の実をいっぱい付けた。やがて大きくなり、夏が過ぎたころ、多くの農家の娘さんやお母さん達が手伝いに来て、新聞紙で作った袋を一つひとつ丁寧に縛り付けていった。

 長一郎は、お姉ちゃんたちに遊んでもらえることから、いつまでも続くといいなと思った。
 葡萄の収穫が始まるちょっと前だったと記憶している。母ちゃんは朝早く、俺と敬二郎を置いて、どこかに出かけ、夜になって帰ってきた。どこから来たのか、知らないおじさんと一緒だった。たすくさんが教えてくれた。

 「長ちゃん、あのな、母ちゃんはこれがらとぎとぎ、遠ぐにいぐことになるがら…おばちゃんといられるんだが…。敬ちゃんも連れていげないところだがら…」
 こうして、母ちゃんが出かけたのは二、三回はあったと思う。その時、長一郎は「べづのひとと結婚すんだろうが…」と思っていた。

 葡萄の取り入れも終わり棚の葉っぱが黄色に変わり、遠くに見える山々は赤や黄色に染まった紅葉が綺麗な高原の秋を迎えたある日だった。
 父ちゃんの実家のおばさんや知らない叔父ちゃんなどがいっぱいやって来た。長一郎も敬二郎もみんな、呼ばれた。父ちゃんの実家の叔父ちゃんが言った。
 「それでは、離婚調停も済んだことだす、調停通り、長一郎は母方に、敬二郎は父方ということでようがすな。ほんじづは、下の子を引き取りにきたんです」

 母ちゃんが泣きながら言った。
 「そんなごど…今だなんて…誰がいいっていえますが…敬二郎はまだ、おっぱい飲んでいるんですよ…あんまりむごいごどではないの?…」
 そして、たすくさんも、泣きながら言った。
 「そんな…むごいこと…できすか?…裁判は…期限を切らなかったように聞いているがら…あんまりにも…きみさんがかわいそうではないのかい?…」
 回りにいた人も、叔父さんに詰め寄った。

 「だれが…敬ちゃんにおっぱいやるんだ…殺す気が。おまえら…。殺す気で…なまみのおやごを切り離す気が…」
 叔父さんは、みんなを、なだめながら言った。
 「だがらさ…きみさんの旦那の剛志さんの妹で、さとさんという人の旦那さんが、戦死して、けえらねぇんださ。さとさんが妊娠していだんだが…この前さ、流産してさ…それで、乳飲み子だったら…引き受けでもいいからって、言ってくれでいるんだべさ…。きみさんだってさ、会いにくればいいんだよ…自由に…」
 母ちゃん方のお爺ちゃんが叫んだ。
 「セイバン(裁判)セイバンと言って…こんな人のなさげも…ないなんて…おめーら…それでも、にんげんがぁー」
 長一郎にも何を話し合われているのかが分かった。
 「おらぁー敬とわがれるのいゃだぁー」
 泣き出した長一郎を母ちゃんがなだめた。
 「いいがす…わだすが我慢すれば…いいこったべがら…」
 
 

 

 飯田橋の警察病院では、一日半も眠り続けている鬼頭に妻の絵美が付き添っていた。警察庁の重森課長が風間理事官と一緒にやって来た。重森が絵美に聞いた。
 「奥さん、どう?あれから全然、目を開けないのですか…」
 絵美が答えた。
 「はい、先生も心配してくれるのですが…時々、苦しそうにうめくことがあるんです…何か言いたいように…目をさますかなぁと思うんですが…すぐまたイビキなんです…」

 風間が重森に説明するように言った。
 「心電図も脳波にも大きな異常は認められないということだそうです」
 重森が怪訝な顔で聞き返した。
 「大きな異常とは…どんなことなの?。小さな異常はあるんですか?」
 絵美が答えた。
 「いや…あの…こんな状況だから正確な検査ではないので…簡易検査だから…とお医者さんは言っておられました」
 「それで、病名は?」

 重森の問いに、風間が答えた。
 「年齢で肉体も心臓も弱っているのに、無理をしたための過労ではないかと…医者としては動けるようになってから検査をすると言うのです。一カ月は休ませようかと思っています」
 「一カ月でも二カ月でも…あんな重大な困難な事件を完落ちさせたんだから…日本警察の財産なんだから…鬼頭さんは…」
 風間が重森に話し出した。
 「鬼頭警部が倒れたその日の夜、私は城西署で野口署長とともに穴守の供述調書を読ませてもらいました。その時に署長室に同席した城西の生安課の警部補なんですが、こんなことを言うんですね。『鬼頭さんの調べには驚きました』と…」
 風間は続けた。絵美も聞いていた。つづく

 

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