鬼頭が倒れた
鬼頭の調べに穴守が落ちた翌日からは、供述調書のまとめに入った。しかし、鬼頭の心の中には「私情を挟んではいけない」の言葉だけが気になっていた。
「私の生まれたところからは…」から始まり、家庭環境から生い立ち、事件の経緯を話し言葉で綴られる。そして最後に、被疑者本人が署名・捺印して終わるのだ。こうして、第2拘留の20日いっぱいでまとめ上げられた。
供述調書の作成を全て終えた鬼頭が署長室を訪れた。調べ室を出る時から足がふらついていた。署長に終了報告に来たのだ。署長の机の前に進もうとした鬼頭の足が、もつれた。立っていられなかった。
「鬼頭君」と呼ぶ野口署長の声が…遠くで聞こえた。
城西書に救急車が呼ばれた。署長は警務の女性と生安の少年係り主任の二人に、鬼頭への付き添いを命じた。そして救急隊員に言った。
「こちらかも手配しておきますが、特異な病気でなければ、しかも緊急かつ重篤な状況でなければ可能なかぎり警察病院に収容してほしいのですが…」
救急車には救命救急医が搭乗してやり、野口署長の方針通り、飯田橋の警察病院に収容された。鬼頭は意識が薄れていくのを感じた。
鬼頭の意識が薄れていった
× × × ×
この日の父ちゃんは、炭焼き小屋に詰めて木炭にするはずの木が燃え尽きて灰になってしまったことに腹を立て、朝から機嫌が悪かった。
既に長一郎(鬼頭)には弟が生まれていた。幕田敬二郎と名付けられ、生後三カ月は過ぎていた。父ちゃんも二人の子供を抱え、少しは責任を感じてほしかった。
炭焼きは、一㍍ぐらいに切ったクヌギなどの木炭用材を窯に入れて、周囲に配した小枝などの燃え材を燃やし、ある頃合いを見て入口を狭める。窯の中が一定温度になれば、木炭用材が熱分解して炭化が始まるという仕組みだ。
炭化が始まるタイミングが難しく、入り口を狭めるタイミングを逸すると炭化せずに燃え尽きて炭でなく灰になってしまうのだ。
父ちゃんは、酒を飲みながら炭焼きをするものだから、タイミングを間違い、炭にならないで時々、灰にしてしまう。その度に、母ちゃんや俺たちに暴力的に当たり散らす。
窯の中が燃えつきたことを知った父ちゃんは、この日も家に帰るなり一升瓶をがぶ飲みした。そして囲炉裏にひっくりかえった。昨夜から食事もしていないので、母ちゃんが父ちゃんを起こそうとした。
「うるせーんだよっ、てめぇー」
父ちゃんは平手でなく拳で母ちゃんの顔を殴った。たまりかねた俺が、オモチャとして集めた綺麗な十㌢ぐらいの石を父ちゃんめがけて投げつけた。父ちゃんの目に当たり、出血した。
父ちゃんの怒りが増した。俺はメチャメチャに殴られ、気を失った。遠くで敬二郎の泣き声が聞こえた。
揺り起こされた時は、外は暗かった。体が痛くて、歩くのはやっとだった。母ちゃんが耳元で囁いた。
「長一や、今夜、家を出よう。敬二郎と三人で…もう…母ちゃんは、堪えきれないもの…。死んでも嫌だわ…こんな家…」
母は私を長一と呼んだ。
そして一眠りした後、何時頃だろうか? 母ちゃんは敬二郎を背中におんぶし、ねんねこ半纏で覆い、左手に提灯、右手で俺の手を引きながら、そっと家を出た。
長一郎は、家から坂道を降りるときに見えた、あの阿武隈川が忘れられないのである。お月様が天高くあり、川向こうの山々がシルエットに、キラキラ光る阿武隈川に重くのしかかっていた。
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