連載小説警視庁薬物特命捜査官(44)
警察官人生41年分の涙
鬼頭は久しぶりに帰った自宅だった。妻の絵美は好物の浦霞に魚の金目鯛の煮つけを用意して待っていた。きょうは長女の幸子も早く帰宅していた。家族揃っての夕食は何か月ぶりだろうか。
テーブルに座った鬼頭に一通の郵便物が渡された。杉山からの挨拶状だった。
「杉山さんからのお手紙ですが転勤なさったのかしら…」
「しまった。彼は定年のはずだ…」
封を切ったら、ありきたりの挨拶状に加えて一通の手紙が入っていた。
鬼頭君、お世話になりました。この五月三十一日で無事、定年を迎えることが出来ました。四十一年間の警察官の仕事でした。お陰様で家族共々、なにひとつ欠けることなく人生を謳歌できたのは、皆様方のお陰と感謝しております。定年、最後の日、君に電話でもしようと思ったのですが、忙しいのにお邪魔してはと思い、ダイヤルを回せませんでした三十一日の深夜、六月一日の朝の午前零時に、多摩川警察署四丁目駐在所の建物に一人で敬礼しました。たった一人の終了式でした。その時、君の顔が浮かびました。そうしたら、色々な思い出が走馬燈のように頭を駆けめぐり…「あぁー、治安一筋の人生だった…」と思うと四十一年分の涙が流れました…
鬼頭が目頭を押さえた。
「どうしたの?」
と絵美が言った。鬼頭は言葉での表現を失った。黙って手紙を渡した。絵美がしばらくして話し出した。声が潤んでいた。
「あなたも、間もなくこのような時期を迎えるのですね…」
「迷惑ばかりかけてしまった。〝警察馬鹿〟だったかも知れないが、でも…俺にとっては満足した人生だった。定年の日に離婚なんてないように頼みたいものだがね…」
鬼頭の言葉に幸子が言った。
「お父さん、その話はまだ早いでしょう。『十秒後に何があるか分からない世界だ』と言って来たのはお父さんでしょう」
そして絵美がさらに続けた。
「ホント。『十秒後に何があるか分からない』『俺を当てにするな』と言われ続けてうん十年か…」
「でも、お母さんも結構、楽しんでいたんじゃないの」
「そりぁ私だって警察官だったもの…幸子はどうだったの?」
「警察官って頼られる時は良いのよ。でも、どっかで誰かが悪いことすると、全部が全部『警察官のくせに…』と言われるのが辛かったな…」
鬼頭が口を挟んだ。
「だから君は警察官になりたくなかったのか?」
「そうよ。でもさ、良く、警察官一家ってあるじゃない。兄弟はもとより父親もお爺ちゃんも警察官だったっていう、あれ。凄いよね。うちは、お父さんが格好良くなかったもの…。何も教えてくれないしさ…帰ってこないしさ…」
「お前はそんなこと言ってもな、言えば心配するだろうし…実際はテレビドラマのようにはいかないものなんだよ…」
鬼頭は自分の娘に「格好良くない父親」と思われていたんだと分かると、なぜか、悲しかった。
こんな会話が続き、鬼頭は久しぶりに深酔いした。
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