小説 警視庁・薬物特命捜査官(5)
★青年から届いた手紙
昨夜の張り込みで、鬼頭が新橋の分室に出勤したのは午前十時を過ぎていた。五日ぶりの出勤で、警視庁本部からの通達や内部連絡文書などが溜まっていた。
人事異動の内示書類の下に隠れていた一通の封書が鬼頭の目にとまった。表書きにはパソコンで印刷された住所・氏名が書かれていた。宛先が警視庁本部になっていたほか所属名もなかったことから、開封を一瞬、ためらった。恐る恐る裏返した。
国分寺に住む村橋知宏と岩瀬邦子の両名が書かれていた。邦子は知らないが、村橋知宏については鮮明に記憶している。封書を空けると結婚式への招待ハガキと手書きの手紙が入っていた。
拝啓 突然の手紙で失礼します。鬼頭刑事さんにあの事件でお世話になってから十五年が過ぎました。現在は国分寺市内にマンションを購入し、真面目に働いております。
この度、私たちは結婚することに成りました… あの時、鬼頭刑事さんにお会いしなければ私の人生はありませんでした…
このところの仕事の忙しさで忘れかけていた村橋からの手紙だ。
それは悲惨な事件だった。
覚せい剤を使用していた村橋が十六歳から十八歳にかけて、両親に暴行を加え続け、最後は両親を包丁でメッタ刺にして重傷を負わせた事件だ。
多摩地区に住んでいた村橋が、ある朝、「朝食の支度が遅い」と因縁をつけて台所から包丁を持ち出し母親の腹など数カ所を刺した。止めに入った父にも襲いかかり、腹や大腿部などを刺した後、二人を放置して高校に登校した。
村橋は大量の返り血を浴びていたが、三十分もかかる自転車通学で学生服に付着した血痕は乾き、一見、何事もなかったように教室に入り、授業に臨もうとしていた。
しかし、隣りの席の生徒が村橋のワイシャツの袖口が血液で真っ赤に染まっているのに気づき、異様な臭いがしたことから職員室に駆け込んで先生に報告。担任が事情を聞くため教室に向かおうとした時、職員室の電話のベルが鳴った。
奥多摩警察署の駐在からの連絡で職員室は大騒ぎになった。和宏の父親が腹などを刺されたが、自宅に電話がなかったことから道路を腹這いになりながら、三百㍍離れた隣家に駆け込み、一一〇番通報した。
自宅では、台所で母親が全身血だらけで倒れ、意識が殆どない状態だった。二人は、隣家の杉田さんの小型トラックに乗せられ病院に収容され一命をとりとめた。
奥多摩署では村橋和宏を学校から同行して事情を聞いたところ、犯行を認めたという。
供述調書などによると和宏は一人息子だった。父親は青梅市の建築会社で働いていたがバスでの通勤のため一週間のうち帰ってくるのは二、三日。一週間も帰らない時もあった。
夏休みも間近な七月中旬、当時、中学生だった和宏が帰宅すると、玄関はカギがかけられ雨戸は閉められていた。いつも自宅では母親が内職をしているはずだった。裏木戸から入ろうとすると、母親が衣服と髪の毛を乱して寝室から飛び出してきた。
後を追うように、いつもは内職の材料を運ぶ男がハダカ同然で追いかけるように出てきた。男は和宏とぶつかりそうになり、慌てて居間にあった衣服を身につけ逃げるように出て行った。中学生になった和宏には、何があったか想像がついた。
その夜、和宏は自宅で母親をなじった。なじるだけではなかった。初めて暴力を振るった。大人と言っても自宅で白昼からの淫らな行為を許せなかった。
殴られた母は「許してほしい」と何度も嘆願したが、和宏は許せなかった。余りにも不潔に感じたからだ。和宏は自宅を自転車で飛び出した。夢中でペダルを漕いだ。気が付いたときには中央線の車内だった。
渋谷の道玄坂にいた数人から声を掛けられた和宏は、すぐ意気投合した。中学生とはいえ身長が一六〇㌢近くもったあったことから高校生以上に見えたのだろう。そしてその夜、初めて覚せい剤を経験した。
こんな供述を得た奥多摩署は、当時、本部生安少年課に連絡。渋谷周辺に存在する「覚せい剤遊びの不良少年団」の調査を実施。保安課が渋谷東署と合同で捜査に着手。当時同課員だった鬼頭は、渋谷周辺覚せい剤密売事件の捜査の一員に抜擢された。
村橋少年と出会ったのはその時だった。奥多摩署で調べを受けている村橋から、覚せい剤仲間の割り出しの協力を得るため、どうしても情報が必要だった。
何度も通ううちに、こんな可愛い男の子が覚せい剤に手を出すとは思えなかった。あまりにも素直な子供だった。村橋は鬼頭に蕩々(とうとう)と話した。
「覚せい剤を使用するとき、アルミホイルに乗せて下からライターであぶり、煙を吸いました。三、四回繰り返しているうちに、嫌なことはすっかり忘れました。急に元気も出てきました」
以来、村橋は、気持ちの良さから脱却できずにズルズルと渋谷に通うようになったという。父親の勤める建築関係は好況で手当が多く、母親は自宅で内職しており、中学生時代から不自由のない生活を送っていた。
しかし、覚せい剤に手を出してからは小遣いが足りなくなり、母親の引出からへそくりを盗んだこともあったという。既に、奥多摩署の調べ官に話していたことだが、なぜか村橋は鬼頭を見ると何度も繰り返すように喋った。
「罪を憎んで人を憎まず」を、犯罪捜査の哲学とする鬼頭は、村橋少年に興味を持った。幸い、奥多摩署少年係りには同期の係長がいた。更正を約束したのは最後の調べだった。
「しっかり反省し少年院からは一日も早く出るように。それがお父さんお母さんに対する最大の謝罪だ。そして一日も早く真人間になってほしい。就職で困ったら何時でも連絡するように…」
こう諭された村橋は、「おじさん…」と泣きながら鬼頭の手をとり、すがりつくような目で見つめてきた。その目は、覚せい剤少年とは思えないほど綺麗だった。
鬼頭は、少年係長に「村橋少年の件をよろしく」と言って署を去ったのが村橋との最後だった。事件捜査は順調に進み、八人の密売人のイラン人を逮捕。突き上げ捜査で蒲田に住む暴力団を摘発した。
何年か過ぎたころ突然、村橋から手紙が届いた。係長に聞いて手紙を書いたという。少年院を出て自宅に帰った村橋は同じ地区にある製材所で働いており、父母の面倒を見ていると書かれていた。
母親はすっかり元気を取り戻し、父とは老後を語り合うまでになったという。鬼頭はこんな手紙を受け取ったが、特命捜査官でもあり、係長に「宜しく」と伝えてもらうよう依頼しただけでそのままになっていた。
覚せい剤などの薬物は、「使用しているうちはやめられない」という〝依存性〟があり、次第に〝乱用〟に陥り、やがては〝幻覚〟が現れ、さらには〝妄想〟に伴い自分で自分を傷つけたり、他人に襲いかかるように危険性を増していく。
それだけに悲惨な事件が多い。昭和五十七年二月には、大阪市西成区の住宅で、四十七歳の無職男が、妻との夫婦喧嘩がきっかけで妻を刺し殺したあげく、止めようとした十一歳の息子も殺害する事件が発生した。覚せい剤の常習者だった。
血をみて錯乱状態になった男は、隣の建設作業員の部屋に押し入り、作業員夫妻をもメッタ刺しにした。悲鳴を聞いて駆けつけた周辺の人たちを次々に襲い、結局四人が殺害され、三人が重軽傷を負うという事件に発展している。
この事件当時は年間六百㌔代で推移していた国内での覚せい剤押収量も翌々年に急増、千六百㌔代の押収量になった。その後も増え続け、平成元年には一時は千㌔を割ったものの六年ごろからさらに増加の傾向を示し、十一年には二トンに迫る覚せい剤が押収されている。背景には、平成十年に明らかになった北朝鮮産の覚せい剤の流入が挙げられる。
村橋からの手紙を読んだ鬼頭は、結婚式での幸せそうな二人を想像した。
「鬼頭君」
風間から呼ばれて鬼頭は我に返った。
「下町署の本部からの情報だが、篠原組の見張りをしていた捜査員の家族が組員に嫌がらせ行為を受けたらしいな。どうしてだね」
「あの連中は警察官が事務所前を通るだけでピリピリしている。ましてや自家用車で張り込むとナンバーを読み取り、陸運局で所有者を調べる。それが刑事だったりすると家族などへの嫌がらせを平気で行う。だから、張り込みはレンタカーなどが良いのです。前から言っているのですが我が社は経費の面で理解してくれない」
「警察を脅す? そんなことあるのかよ。別件で取ってしまぇねーのか、えっ」
風間の卓上の電話が鳴った。大阪府警からの電話だった。受話器を置いた風間が鬼頭と伊藤光太郎、榊原甚一の両警部補を机に呼んだ。
「大阪府警からの連絡で携帯に記録があった丸暴(暴力団員)の一人に通信傍受の令状が降りたらしい。名前は篠原組幹部の後藤田作之助という男だ。これらの情報連絡担当は榊原君にやってもらいたい。伊藤君は調整役のキャップを頼む」
「理事官、理事官=お電話です」
分室唯一の女性警察官・小宮山礼子警部補が風間に言った。
特命捜査官室には二十の机があり、各デスクにはパソコンが配置されている。指示を終えてテレビのニュースを見ていた風間は小宮山の声にようやく気づいた。
電話は本部の薬対課長からだった。
「今、多摩川署の佐山署長から連絡が入って調布市内の多摩川沿いにある山本物産の倉庫の人の動きがおかしいというんだ。署長は生安出身で俺の同期だ」
「ほう。それが、どうして薬なんですか?」
「そこの駐在が日誌をつけていて、だいぶ前に新聞で見たイラン人密売組織の実態のニュースがどうも心にひっかかると言うんだ」
「ああ、去年夏の東京タイムスの記事かな」
「数日前の夜、駐在さんが多摩川沿いでイラン人を職質(職務質問)したらしい」
「うんうん。それで薬が出た!」
「山本物産は有機農産物や海産物などの輸出業者。その倉庫が多摩川沿いにある。だが、何か月かに一度の割合で早朝に不審なベンツが来るそうだ」
「それと、覚せい剤を持ったイラン人、輸出業者……ベンツか。なるほど。不釣り合いだらけだから、面白いわけだ」
「署の保安で(捜査を)やろうとしたが余裕があるなら、ご教示をいただければと」
「いま、所轄の生安は大変だからなぁ。けん銃月間だのなんだのかんだのと言って…。分かりました課長。鬼頭を出します」
「なんとかぁーなるだろう♪ー」
風間は受話器を置いた後の素っ頓狂な声で植木等の歌を唱ったのには室内にいた職員全員が驚いた。
風間は、今回の一件を鬼頭に頼むことにした。多摩川署管内のその場所は、警備・公安でも興味を引きつける地域だったからだ。
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